52.充実と不足の日々
世紀の対決は乙女の完全勝利で幕を閉じ、マネージャーに促されて解散した皆、それぞれが自分の持ち場へと戻っていった。ケインの膝も問題ないようで、ファランに言い付けてやる、とくだらない捨て台詞を吐いて笑ってた。
あたしもローランドさんの後を追って、ハンタートレーニングルームに戻りかけたのだが、ふと気付いてマネージャーを呼び止めた。
「マネージャー、背中のコレ、やっぱり隠しといた方がいいですか?」
ジャージを着ていない、タンクトップ一枚の剥き出しの左肩を右手で指し示しながら尋ねてみる。すると、マネージャーは白髪混じりの髭を笑いに歪めた。
「別に隠さなくてもいいんじゃないですか? これから更に暑くなりますし、長袖では不便でしょう。それより、その平たい胸が気にならないなら構いませんよ」
クソジジイ、よくも気にしてるとこを指摘しやがったな。
苦虫を噛み潰したような表情を隠そうともしないあたしを見て、マネージャーは高笑いしながら去っていった。少し先で待っていたローランドさんも、笑いを必死に堪えている。
今は堪えてやるが、辞める時は絶対、あのハゲ散らかした後頭部に会心の一撃をお見舞いしてやる!
それから一通りの講習を終えて、いつものブルーのシャツ姿で受付に戻ると、ファランのお茶と笑顔に迎えられた。良かった、ケインをボコボコにしたことはまだ知られてないみたい。
数日間で溜まりに溜まったファランの愚痴やら惚気やらを聞かされながら、受付業務をこなす。
いつものゆるい空気。でもいつもより柔らかくて暖かく感じて――何だか、すごく幸せな気がした。
仕事を終えると、あたしはいつもの最寄り駅ではない方向に向かった。体力作りのために、今日からは帰り道もランニングすることにしたのだ。
キタセンの敷地を出れば、街路樹に彩られた歩道、お腹をくすぐる匂いを放つフードストリート、対して営業時間を終えて灯りの消えたファッションビル群、そしてだだっ広い運動公園を経由し、中途半端に活性化を図ろうと努力して滑ってる昔ながらの商店街を抜けて自宅へ到着、というコース。
夜走るのは久しぶりだけど、なかなか新鮮だ。しかも、朝と違って時間を気にしなくていい。疲れたらやめればいいし、走りたければいつまでも走っていて構わないのだ。気持ちにゆとりがあると、身体もそれにつられて、あたしは足も心も弾ませて帰宅した。
鍵を開けて玄関に入ると、部屋は暗かった。もちろん、キャンドルの灯りもない。
途端に、あの耳鳴りがぶり返す。
上昇していた気分が、一気に下降していくのをあたしは感じた。
いたらいたで腹が立つし、いなければいないで腹が立つ。何なの、あいつ。
違う。何なのって言いたいのはアインスじゃなくて――あたし。
何なの、あたし。意味わかんない。これじゃまるで、アインスがいなくて寂しいみたいじゃん。
あたしは乱暴に服を脱ぎ、バスルームの扉を開いた。バスタブにお湯も張らず、ひたすら熱いシャワーを浴びる。
何もかも洗い流してしまいたかった――汗も、疲れも、アインスのことも。
束の間抱いた寂しさも、その奥に覗きかけた、見てはいけない気持ちの欠片も。
臨時とはいえ、インストラクターと受付の二足わらじはなかなか重労働で、あたしは毎日四苦ハ苦した。
見習いのネームプレートを付けているだけで、やることはローランドさんやケインと変わりない。教えることはないと、放置されたも等しい状況だ。それでもあたしは客の資質を自分なりに見極めながら、ダメな部分の修正を施し、更に見込みがありそうな奴にはとことん厳しく指導した。
最初に相手したライフルおじさんはもう来ないと思ってたのに、あたしがインストラクターになったと知るや否や、是非にと専属担当希望を出してきた。
「だって、あの日ちょっとマッサージしてもらっただけで見違えるように当たるようになったんですよ? もっとご指導いただければ、ブラックモギュとやらを一人で倒すのも夢じゃありませんな!」
そう言ってガハハと笑っていたオジサンだったけど、そうですかそりゃどうも、とあたしが背中に乗っかって例のゴリゴリを始めるとキャンキャン泣き始めた。
「インストラクターならぬ鬼ストラクターだな」
「お前もやったろか? デスロックかけながら」
ケインは即座に首を横に振り、担当していた客の元へと逃げ帰った。そうそう、新人イビリに精出してないで真面目に仕事なさい。
交代の時間になれば、すぐに着替えて受付係に変身。そしてファランの笑顔に癒されながら、接客応対と書類整理だ。
慣れるまで大変だよ、ほんと。げっそりとした心地でお茶を啜ると、ファランが微笑んだ。
「大変みたいねえ」
「大変も大変、超大変だよ。ケインはいいよなあ、ファランに癒して貰えるんだから」
「今癒してあげてるじゃない」
「癒してくれるなら肩を揉め。ついでに乳も揉ませろ」
「ほらまた出ましたよ、スケベオヤジ精神が。セクハラはお客さんだけでたくさんだよ、もう」
そう言いながらも肩を揉んでくれるファランは、やはり天使だ。
彼女の手で身も心も解されながら、あたしは目を閉じ、この二週間を振り返った。
充実、その一言に尽きる。
早起きして河川敷を走って、新しい仕事を学びつつファランと笑う。帰り道はセカンドルートと名付けた夜専用コースを疾走し、快い疲労をシャワーで流してゆっくり眠る。完璧な生活だ。
なのに、足りない。何かが、足りない。
以前にも増して忙しくなったようで、インストラクターになって以来、アインスの姿は一度も見ていなかった。リリムちゃんと三人で飲んで以来、といった方が正しいか。
あの後、二人の仲は恐らく一気に進展したんだろう。
アインス、リリムちゃんと一緒にいるのかな。
このまま、リリムちゃんと一緒に暮らすのかな。
それならそれで最初の目論見通り、アインスさようなら万歳、のはずなのに。
何で、こんなに心が沈むんだろう。出ていくなら出ていくって言ってくれたらいいのに。
何も言われなきゃ、帰ってくるの待っちゃうじゃん。
あたしの家は、今じゃアインスのセカンドハウス。それでも帰りを待ちわびてるあたし。
何であんなの待ってるんだろう。何でこんなこと考えて、落ち込んでるんだろう。もう自分で自分がわからなくて、自分にイライラする。
「あ、忘れるとこだった。エイル、明日明後日休みだよ。マネージャーが疲れてるだろうからって、シフト変更してくれたの。受付は経理のジェーンさんが手伝ってくれるそうだから、問題ないよ」
あたしは目を開いて、嫌な考えを吹き飛ばすようにファランを振り返って笑った。
「マジ!? 二連休もらえんの? やったね!」
「バカみたいに走ってばっかいないで、ゆっくり休みなよ? 最近すごく暗い顔してる時あったもん。元気なだけが取り柄なエイルがあんな顔するんだから、よっぽどきついんだろうって、ケインも心配してたんだから」
いちいち構いにきてたのは、ケインなりの優しさだったらしい。けれど、あたしは曖昧に笑うしかなかった。
餌付けてた放し飼いの猿が、横から来た美少女に拾われて何だか複雑な気持ち……だなんて、情けなくて話せるわけない。
仕事を終えて外に出ると、雨が降っていた。
相合傘で仲良く帰るファランとケインを冷やかしながら見送り、あたしは少し悩んで――でも結局、走って帰ることに決めた。
初夏の雨は生温くて湿っぽくて――――まるで誰かの涙の中で溺れているような、そんな心許なさを覚えた。
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