53.彼の名は食料

 全身びしょ濡れになって帰り着き、鍵を開けたところで、玄関にまさにこれから出ようとするアインスとばったり遭遇した。


「……ただいま」

「おかえり。行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 型通りの挨拶を交わすと、アインスはあたしを押し退けるようにして出ていった。


 何、あの態度。すごい腹立つ。


 あたしは苛立ちを噛み殺しながら、まずバスルームに向かった。濡れたジャージを脱ぎ捨て、お気に入りのアロマキャンドルを用意する。そして温かい湯を張ったバスタブに身を沈め、ささくれ立った気も沈めようとした。沈めるまでもなく、沈みきっていたけれど。


 一体、何なんだよ。あたし、何も言わないし干渉もしてないじゃん。好きにやってるじゃん。それともアレか、遅すぎる反抗期ってやつか? 体が小さいから頭の成長も遅いんだな。


 薄く笑ってみてから、あたしはため息をついた。


 あたし、アインスの家族のはずだよね?

 家族を大切にするのが、アインスのポリシーじゃなかったっけ?

 それとも、好きな子ができたらそんなもん、引っ繰り返っちゃうの?

 恋ってそういうもの?


 家族を捨ててまで一緒になったってカップルの話は、よく聞くけどさ。あたし、反対なんてしてないじゃん。あたしだけじゃなくて、母さんだってリリムちゃんみたいないい子、嫌うはずない。喜んで受け入れてくれるに決まってる。


 あたしはお湯に頭から沈んだ。視覚も聴覚も嗅覚も遠い世界で、ただ心臓だけが脈打つ。



 敏感になった心の声はただ一言――――わからない、それだけ。



 お湯が温くなるまで長々と入浴し、あたしはのぼせかけてぼんやりする頭を拭きながらリビングのソファに腰を下ろした。すると、テーブルの上に封筒が置かれているのが目に入る。中身は、二十枚のゴールド札。ほとんど家にいないんだから、いらねっての。


 あたしはそれをそのまま放置して、雑誌を手に取った。何気なくペラペラめくれば、これまた美味しそうな料理がたらふく紹介されている。身体濡れてたからどこにも寄らなかったし、今夜はカップ麺決定だ。視線で食べるくらいの勢いで、紙上の美味の数々を眺めていると――あたしは唐突に思い出した。


 カミュ!

 そうだ、あいつに食わせてもらうためにこの本買ったんだったよ!


 ソファから飛び出し、あたしは寝室に走った。カミュにもらった携帯電話で、寝る前に内蔵されたゲームして遊んでたのだ。でもそれもかなり前だ。充電切れて、放置してたんだよね。


 しかし、ベッドを探れど見付からない。あれあれ、どこいった? まさかなくした!? んなバカな!


 焦り狂いながら、もう一度最後に使った時のことを思い出そうと立ち上がったところで――サイドテーブルに置かれたマッチョ時計の横に立つそいつを発見した。


 ……あった! 食料! じゃない、携帯電話!


 ぐっとガッツポーズを決めて、あたしはそれが充電器に突き刺さっていることに気付いた。え……あれ? あたし、こんなことした覚えないよ? 充電器借りようにも、アインスはずっといなかったし、不在中に勝手に部屋に入るなんて親しき仲ゆえ礼儀なしな真似はしてないし。


 恐る恐る携帯電話の電源を入れてみると、メールが来ている。差出人は…………は? アインス!?



タイトル:ブスごめん!


本文:今、超忙しい。落ち着いたら遊んでやる。風邪引くな。もうブスの看病は勘弁だ。携帯見付けたから充電しといてやった。ついでに俺の連絡先も登録しといてやった。泣いて喜べ。



 何、この内容。死ねばいいのに。


 あたしは返信してやる気にもならず、ため息をついた。けど、今までの重いため息とは違う、軽い吐息だった。おっと、こんなことしてる場合じゃない、カミュに電話だ。


 電話帳を開いてみれば、確かにアインスとカミュの名前が並んでいる。間違いのないように慎重にカミュの方を選択して、あたしは息を詰めてコール音を聞いた。うう、やっぱり初めて電話する相手には軽く緊張するな。


 三回目のコールで、カミュは電話に出た。


『エイルさん、久しぶり』


 騒々しい音楽を切り裂くように、よく通る低い声があたしの名を呼ぶ。


「仕事中なのに、えらい電話出るの早いな。サボってんのか? それとも別の女からの連絡待ちだったか?」


『両方かな。エイルさんからの連絡を待ちわびるあまり、仕事も上の空だったよ』


「皆に同じこと言ってんだろ、悪い奴だなあ」


『失礼な。そこまで物好きじゃありません。エイルさんにお世辞言ったって、何の得にもならないでしょ』


 おいおい、どっちが失礼だよ!

 ……って、こんなどうでもいい話してる場合じゃないんだった。


「てか今、店なんだよね? 電話して大丈夫だった?」


『うん、大丈夫だよ。やっと行きたいとこ決まった? 随分長く悩んでるなあって、毎日財布の心配してたんだよ』


 なんて前向きな奴なんだ。忘れられてるって、普通気付くだろ。


「あ~、うん、そうね。まあ悩みすぎてよくわかんなくなってきた、ってとこ。カミュ、いつ暇? あたし、夜ならいつでも空いてるよ」


『今日。今すぐ』


 あれ? 今、店にいるって言ってましたよね?


「あのぉ、グラズヘイムも悪くないんですけど……ちょっと、ドレスコードがね。腹ペコで着飾る気力もないんで、お忙しいなら、別の日でお願いできますぅ?」


『店は俺がいなくても回るから平気だよ。こんな知り合いだらけの場所、俺だって嫌だし。二人だけになれるところに行こう。すぐ迎えに行く。何回かアイを送ったことあるから、場所はわかるよ』


「二人だけになれる所ねえ。まぁたエロなこと考えてんじゃねえの?」


『エイルさんさえよければ、俺は喜んで狼になりますよ』


「じゃ、その選択肢はナシな。じゃまた後で」


 あたしは笑いながら電話を切った。さて、急いで支度するか!


 あたしは髪を乾かし、アインスと出かけたときに自費で購入した服から適当なものを選んで着替えた。メイクはなし。でも一応、眼鏡だけはちょいとオシャレなクロームフレームのものに替えてみた。


 準備完了したところに、良いタイミングで通知音が鳴る。メールが届いたらしい。エスパー・カミュかよ、とニヤつきながら携帯電話を見ると――またアインスからだった。



 タイトル:無題


 本文:リリムに関わるな



 え……何これ。


 さっきのメールに比べて、ひどく冷淡な文面に、あたしはしん、と全身が冷えた気がした。


 二人の間に何かが起こったようだ。それも、ひどく良くないことが。


 誰もいないソファを見やれば、そこで寄り添う二人の姿が蘇る。


 絵に描いたような、お似合いの美男美女だった。あれからニ週間、以来二人が愛を育んだというなら、今がラブラブ絶頂期のはずなのに。


 また浮気でもしたのかな、あのバカ。ほんとに懲りない鳥頭だ。素直で優しくて可愛いリリムちゃん。泣かせたら絶縁って言ったのに。

 バカアインス、ほんとにお前は何をやってんだよ!


 ――なんて憤ってみたところで、本人がいないんじゃ真相もわからない。問い質すのは、次に会った時にしよう。


 ちょっと迷ったけれど返信するのはやめて、あたしは飯……いや、カミュとの待ち合わせのために部屋を出た。

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