41.セカンド・キス
余韻に浸るのに似合いな柔らかで穏やかな音楽が流れると、あたしは夢から醒めたように現実へと戻ってきた。
いやぁ、すごかった。すごいとしか言いようがないすごさだった。こんなすごいこと毎月やってんのかよ……グラズヘイム、本当におそろしいところ!
詰めかけていた人々も店に戻るか帰るかしたようで、ホールの空気は大分落ち着いていた。
さて、あたしも帰ろ。アインスは……ま、ほっといていいか。打ち上げとかあるかもだし、このまま仕事のシフト入ってるのかもしれないし、予定聞いてないし。
それに、リリムちゃんと良い雰囲気になってたもんな。ホールでは見かけなかった気がするけど、もしかしたらこの後、二人で過ごそう、なんてことになってる可能性も高い。
てことで、猿は置き去り決定。終電もない時刻だから馬車を捕まえねば、と一歩踏み出したら、つんのめってしまった。
何事かと思ったら、知らない間にカミュと手を繋いでいたようで。あ、そういやこいつと一緒にいたんだっけ。ごめんよ、すっかり存在を忘れてたよ。
心で詫びつつ手を離そうとしたけれど、カミュは離さない。何こいつ、暑くないの? 温湿遮断外皮に保護された超恒温動物かよ。
「あのさあ……」
あたし暑いし帰りたいんだけど、と言い掛けたくちびるが塞がれた――カミュのくちびるで。
あたしは目を開けたまま、ぼんやりと焦点も合わない至近距離からゆっくり遠退くカミュの顔を見ていた。
けれど――――キスされたんだと理解するや、我に返った。我に返ると、腹の底からマグマみたいな怒りが噴出した。
何なんだよ、こいつ!
こいつといいアインスといい、顔の良い男ってチュッチュすれば誰にでも喜ばれるとでも思ってんの?
自惚れも甚だしいんだよ!
「このくらいのお礼、いただいても罰は当たらないんじゃないかな」
おうおうおう、このくらい、たぁどういうこった?
人を半額以下の安かろう悪かろうの叩き売りバーゲンみたいに言いやがって――もういかん!
エイル・クライゼ、只今マジ切れいたしました!!
あたしは掴まれたまま手をぐっと握り返した。さらに体を半回転させて反対側の空いている腕をカミュと繋いだ腕に絡め、自分の手首を握る!
「うわっ! てっ! たっ!」
「あたしのダブルリストロックのお味はどうだ、ええ!?」
「痛い! すごく痛い!」
「いたいけな乙女心を安物扱いしやがって! 逆にお高くついたなあ!」
泣くまで許さん! 泣いても許さん! キスのお代は、貴様の苦痛だ!
……と意気込んでたのに、いきなり頭を背後からどつかれて、あたしはうっかり腕を緩めてしまった。
「お前、何やってんだよ」
あたしをバカと呼ぶ者は、この会場に一人しかいない。
「シファーさん、大丈夫ですか?」
憎々しげに睨むあたしなどスルーして、アインスはダブルリストロックから逃れて腕を擦るカミュに近づいて声をかけた。くそ、脱臼させてやるつもりだったのに。
「ああ、大丈夫大丈夫。いや、俺が悪かったんだ。ごめんね、エイルさん」
ああそうだよ、全てお前が悪いんだよ!
あたしはカミュとアインスに殺意漲る一瞥をくれてやってから、ぷいと背を向けてエントランスに向かった。遠巻きに様子を見ていた奴らが何やらヒソヒソしてたけど、構うもんか。どうせ二度と会わないし、二度と来ることないんだから、好きに言ってろ。
ところが、カミュが性懲りもなく追い掛けてきたではないか。まだ痛めつけられたいのかよ、さてはドMか?
「エイルさん、待って! 本当にごめん! お詫びに今度、食事でも奢るよ。行きたいとこ、決まったらこれで連絡してくれる?」
冷ややかに呆れてるあたしの手に握らされたのは――――何と、憧れの携帯電話!
「通話料だとか通信料だとかは気にしなくていいから、好きに使って。充電器はアイが持ってるタイプで間に合うけど、二人で一つだと面倒だっていうなら、次に会った時に新しいの渡すね」
「うわあ、うわあ、うわあ! こんなの、本当にもらっていいの? もらうってより借りるって形に近いけど、でもでもいいの!?」
興奮のあまりシルバーの携帯電話を握りしめて鼻息荒く尋ねると、カミュは頷いた。
「俺の連絡先は、登録してあるよ。前に名刺渡したけど、もう失くしてそうだと思って」
やべ、そういやそんなようなもの、もらったような気がしなくもないような覚えがなきにしもあらずだ。でもあれはアインスのだと思ってたし、きっとアインスが管理してるはずだ。うん、多分。
誤魔化し笑いで濁したけど、多分バレバレだったと思う。けれどカミュは突っ込んだりせず、優しい笑顔を向けた。
「あの食べっぷりだと、全財産持ってかれる覚悟決めないとね。エイルさんが連絡くれるまでは極限まで節約して生活するから、俺が餓死する前に連絡くれると助かるな」
あたしは思わず笑ってしまった。なかなか面白い奴じゃん、カミュって!
笑いながら頷き、あたしはカミュと軽くハイタッチをして、それを合図にお別れした。
「じゃあねえ、カミュ。腕、お大事に!」
エントランスのドア前で、一言告げて。
ついでに、近くで呆然としていたマオリにもお疲れ、と労いの声をかけると、あたしは明るみを帯びた早朝の空の下に出た。
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