42.果たせない約束
ああ、澄み切った空気が美味しい!
こんなヒールの靴じゃなけりゃ、走って帰るのになあ。
無休で営業するグラズヘイムの周辺には、こんな時間でも数台の送迎用馬車が待機していた。その中でも安そうなのを見繕い、そいつに乗り込んで行き先を告げようとしたその時。
閉めた扉がいきなり開かれ、弾丸のようにアインスが飛び込んできた!
「おわぁっ! 強盗かと思ったろ、バカ猿!」
「るせえ! 置いて帰る方が悪いんだろ、ブス!」
何だよ、この言い草! いつ帰るのか知らなかったんだし、教えなかった方が悪いんじゃん。全く、感じの悪いお猿さんだわね。
飛び込んできた体勢のまま、アインスはあたしの腿に俯せている。あたしはその後頭部を軽く叩いた。
「ちょっと、いつまでくっついてんだよ。暑いじゃん!」
「疲れてんだから、ウチまで寝かせろ。たまには労え」
言い方にはイラッとしたけど、あんなすんごいステージやり遂げたんだもんな。仕方ない、今だけは要求を飲んでやろう。
膝を貸すことを許可し、あたしはアインスが眠りに落ちる前に気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、リリムちゃんは? あの子どうした?」
「終電なくなるからって帰った。ちゃんと馬車に乗せたよ」
そうか、良かった。あんな可愛い子にとっちゃ歓楽街の夜道は危険も危険、飢えた狼の巣窟、まさにデッドゾーンだからな。
「リリムちゃん、可愛かったな。エイルもそう思わねえ?」
「思うねえ。あたしですらぐらついたもん。あの可愛さは魔性だ」
「…………あんまり可愛いから、チューしちゃった」
うおお、何てことを!
この野郎、あの天使を猿臭く汚すんじゃねえ!
あたしは鉄槌とばかりに、アインスの頭に拳を落とした。
「てっ! 何すんだよ!」
「お前な! 犬女やら猫女やら、交尾相手には困ってねえだろ! あの子泣かせたら、マジで絶縁するから覚えとけ!」
膝の上からあたしを睨んでいたアインスは、すぐにまた俯せになって、ドレスに顔を埋めた。そして小さく零す。
「…………何だよ。エイルだって、シファーさんと仲良くやってたじゃん。ずっと一緒にいて、手繋いで、おまけにカミュ呼ばわりしてさ。マオリ、ショック死しそうになってた」
おっとぉ、あたしの話にすり替えてきたぞ。
キスのことに触れないということは、見てないし知らない……のかな?
まぁ見てなかったんだとしたら、マオリだって敢えて言わないだろうな。こいつ、どうやら重度のシスコン認定されてるみたいだし。
何故かホッとしながら、あたしは反論した。
「お前の姉だし、ぼっちだったから、見兼ねて世話焼いてくれてただけだろ。それにカミュって名前なんだから、普通に呼んだっておかしくないじゃん」
「シファーさんは自分の名前が嫌いで、絶対に呼ばせないんだよ。よく知らないけど、死んだ親父と同じ名前を付けられたからってのが理由みたい」
ああ、例の売れない映画監督だったってパパね。あんまり楽しそうに語ってはいなかったけど、あまり仲良くなかったのか。
…………パパかあ。
あたしの本当の父親は、おぼろげな記憶の中ではいつも優しかった。太陽みたいに快活な笑顔しか思い出せない。
次に父親になったフレイグも、すごく優しい。だから父親という存在には、恵まれてると思う。
でも、カミュは違うらしい。そして、アインスも。
アインスの父親って、どんな人だったんだろう。我が子の存在も知らぬまま、無責任に消えた男。
アインスは――その父親について、どう思っているんだろう。
あたしは何となく、アインスの頭を撫でてみた。柔らかな感触が指をくすぐる。
その感覚が、昔、ニールもこうして膝に乗って甘えてきたことを思い出させた。
あたしが拾い、あたしが育てたニール。
弟のように可愛がったニール。
けれど――アインスに奪われた、ニール。
「…………置いてかないでよ。何で、一人にするんだよ。皆、俺を置いてく……エイルは、エイルだけは俺を置いてかないって、変わらないって、待っててくれるって、約束したのに」
アインスが、細く呟く。
その言葉を引き金に、あたしは唐突に思い出した。
そうだ、あの時。五年前、アインスと最後に別れたターミナルで、約束したんだ。
『エイル、変わるな。絶対に変わるな。エイルはエイルのまま、ずっと変わらないで、俺を待ってて』
あたしを強く抱き締めて、アインスはそう告げた。あたしは頷いたけれど――――でも、そんなのずるいよ、と心の中で非難してもいた。
だって、アインスは変わってく。どんどん大人になってく。いつまでも飛べない翼を抱えたあたしを置き去りにして、飛び立っていく。
アインスなら、この広い世界で新たな居場所を幾らでも見付けられるだろう。そしていつか、待っていても帰らなくなる日が来る。
だからって、待つのをやめるわけじゃない。
あたしは折れた翼で、地べたを這いずり回りながら自分の道を行く。でもそのためには、変わらなきゃならないんだ。
だから――変わるな、なんて約束は、果たせない。
けれどあたしは今回もそれを口に出さず、静かに囁いた。
「大丈夫、あたしはどこにもいかない。ここにいる。心配ないから、安心して寝てろ。着いたら起こしてやるよ」
アインスは微かに頭を動かして頷くと、すぐに寝息を立て始めた。
らしくもなく感傷的になったのは、父親という単語に刺激されてしまったからなのかもしれない。
憎らしいけれど、可愛い弟。
大人になる不安に怯えて、一人になることに怯えて、姉のあたしにしがみついて。
仲直りしたばかりの小さい頃もこうだった。あたしにマスコットみたいにくっついて、どこに行くのも一緒じゃなきゃ嫌だと泣いて喚いて――あの頃のアインスは本当に可愛くて可愛くて、リリムちゃんですら目じゃないってくらいに可愛かった。
ああ、でももう昔には帰れないんだよなあ。
アインスは二十歳になった。あの頃の可愛いアインスは、もういない。
痩せたお母さんがいないように、左腕が自由なあたしがいないように、本当の父さんも、ニールもいないように。
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