【距離:近接】楽しい魔法が見られるレベル

9.十五年、五年、そして現在

『エイルちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…………』


 幼いアインスが、泣いている。

 嗚咽しながら身を震わせて、全身で激しく泣きじゃくっている。


『ニールも、ごめんなさい……ごめんなさい、ママ、ごめんなさい…………生まれてきて、ごめんなさい…………』


 その言葉に、あたしははっとして息を飲む。

 思わず彼を、腕に抱きしめる。


 少し力を入れるだけで、壊れてしまいそうな体。


 こんな小さな身に、この子はあたしには想像もつかないほど大きく深い苦しみを抱えていたんだ。それから逃れるために、ずっとずっと殺さなければならなかったんだ。


 母に愛されたいという気持ちを。

 あたしではなく、母親に抱きしめてもらいたいという気持ちを。


 でも、あたしはアインスのママじゃない。誰にもママの代わりはできない。でも、家族にはなれる。


 これからは姉として、お前を大切にするよ。


 アインスが顔を上げる。涙に濡れたブルーグレーの瞳は、光を反射して宝石みたいに輝いていた。


 そして、アインスは天使のように笑って、言った。




『エイルちゃん、好き。大好き。一番大好き!』




 懐かしい、昔々の過去の記憶。それが夢だと気付いたのは、目を開けてからだ。


 あたしは夢の名残を惜しむように、もう一度目を閉じかけた――――が、おい待て。カーテン越しに寝室を照らす光が、やけに明るくないか?


 毎日の習慣で五時半には目が覚めるんだけど…………ベッドサイドのマッチョ時計を見ると、何と九時前!


 慌てて跳ね起きようとして、今日は休みだったと思い出した。


 同時に、妙に暑いことにも気付く。

 何のことはない、タオルケットを身体に巻き付けているからだ。しかし、抜け出そうとしたけれど、抜けられない。


 何のことはない、アインスがタオルケットごとあたしに巻き付いているからだ。


 …………いやいや、何のことあるだろ!



「起きろ、アインス! 暑い! 苦しい! 気持ち悪い!」



 激しく捩らせて怒鳴り散らすと、アインスはようやく目を覚ました。


「……おはよぉ。よく寝たあ」


「よく寝たじゃねえわ、バカ! 何であたしの部屋に勝手に入ってくるんだよ!」


「だってベッド、これしかないじゃん。ソファはふかふかしすぎて寝心地悪いし、床は痛いし」


 そんなふざけた言い分に、ああそうですか、と納得するわけがない。


 寝起きでふにゃつくアインスをしばき倒しながら、あたしは固く誓った――今日は何が何でも、ベッドを買わせてやる!



 パンとコーヒーという簡素な朝食を準備すると、あたしはアインスと差向いに座った。


 二人して声を揃えて、いただきます、と挨拶。

 挨拶はいかなる時もきちんとする、クライゼ家家訓の内の一つだ。


「にしてもエイルの関節、相変わらず効くなぁ。まだ肘痛えし」


 箸を伸ばす度に顔をしかめるアインスに、あたしも膝を擦って抗議した。


「お前のホールドもえげつなさすぎだろ。おかげで今日は走るの諦めたんだからな」


「やっぱ、今も走ってんだ?」


「だって、それしか楽しみないもん」


 するとアインスは不意に、大きなブルーグレーの瞳をちらりとあたしに向けた。


「何だよ? 言いたいことあるなら言えよ、気持ち悪い」


 パンで膨らんだ頬が、咀嚼する毎に小さくなっていく。それをしっかり飲み込んでから、アインスは呟くように言った。



「昨日はバタバタしてたから実感わかなかったけど……何か、久々だなあ、と思って。五年ぶりになるんだよな」



 そっか、もう五年になるのか。


 五年前というと、あたしがまだリハビリしてた頃だ。アインスは中等部のジャリタレだったけど、相変わらずのバカっぷりを発揮してたっけ。


「そりゃ久々だわ、五年かあ」


 確かに、改めてよく見てみれば、最後に会った時に比べると、あどけなさが削ぎ落とされて鋭くなったとでもいうのか……中性的だった容貌が、やや男子に傾いてきた感じがする。


 あたしはアインスをまじまじと眺めて、頷いた。


「そういや顔変わったかも。ますます可愛くなくなった」


「そりゃそうだ。俺、もうすぐ二十歳になるんだし」


「二十歳!? そっか、そうだよなあ……あたしとちょうど十歳違うんだもんなあ。若いな、くそお」


 呻きながら六個目のパンにかぶりつくあたしに、アインスは屈託ない笑みを向けた。


「大丈夫だって、エイルはまだ若えよ。何たって、この俺と渡り合えるんだから」


「アインスに慰められるなんて……非常に屈辱的かつ絶望的」


「出たよ、ひねくれ根性。誉めてやってんのに、ほんと可愛くねえなあ」


「お前に可愛いなんて思われたくねーし。猿にモテたところで幸福度上がらねーし」


「ふ〜んだ、エイルだけ幸せにしてやんない。皆の幸せを横目に見て、指くわえながらキーッてなってればいい」


 そう言って、アインスは七個目のパンを手に取った。こいつ、黙ってりゃ調子に乗ってモリモリと……あたしの分まで食い尽くす気か?


「おい、チビのくせにバカスカ食うんじゃねえ。少しは居候って身分、弁えろ。遠慮って言葉も知らねえのか?」


「あ? そっちのがチビだろ。チビより小せえドチビのくせして、俺より食ってんじゃねえよ!」


 何と生意気な、あたしの金で買ったパンだぞ!


 懲りずにまた手を伸ばそうとしたアインスからさっとカゴを奪い、あたしは強制的にごちそうさまをさせた。


 今日はのんびりお猿をシバいてる暇などないのだ。




 最初の行き先は、総合マーブル区役所。所在地は三区からは近くも遠くもない、一区だ。


 アインスが最初に降り立ったマーブル区画総合チェックポイントを始め、他区画への交通機関や税務署や裁判所などなど、マーブルの主要機能はほとんどが一区に集中している。

 建物がいっぱいあるから見た目は都会っぽいけど、遊ぶところはないから、栄えてるとも言いにくい。まあ簡単に言って、ただの業務区画だ。


 だからって人が少ないわけじゃない。

 何やかんやでマーブル民があれをせねばこれをせねばと集まってくるし、特に役所はいつも混み合っている。



 なので、手続きに時間食うのは覚悟していたのだけれど。



「ねえねえ、アレ、昨日言ってたスタジアムじゃね? でかいなあ、今度連れてけ。お、またケーキ屋! てかこの辺ってケーキが名物なの? これも今度連れてけ。あ、本屋さん発見! 帰り寄って! 何アレ? アレだよアレ、ほらぁああぁあ、通り過ぎちゃったじゃん! 聞いてんのかよ、エイル!」


 本日は電車ではなく、一区直通のバスに乗車。ところがバカ猿は電車の時と同じ、いやそれ以上にはしゃいで手が付けられない。


 違うんです、あたしは隣にいるだけで真っ赤な他人なんですとずっと俯いていたけど……もう限界だ!


「クソうるせえな! お前は少しは黙ってらんねえのか、バカ! ぎゃあぎゃあ餌に群がる烏みてえに喚きやがって! 類人猿から鳥類に格下げだ、鳥頭!」


「んだよブス! バカバカ言いやがって自分の町の案内もできねえお前の方がバカだろ! 鳥のがよっぽど賢いっての、生物以下!」


 あらあら、こいつに生物以下認定されちゃったよ。この野郎、かなりムカついちゃったなあ、おい。


「言わせておけば好き放題言いやがって。何なら昨日の続きやるか? ああ?」


「マジ膝折られて後悔しないってんなら受けてやるけど?」


 お互いの胸倉を掴み合って睨み合っていると――一区のバス停到着を知らせるアナウンスが流れて、あたしは我に返った。


「うわアインス、降りるよ!」


 と同時に、乗客の皆々様方の冷たい視線にもようやく気付く。


 あたしは恥ずかしさに顔も上げられないまま、バカを引っ立てるようにしてバスを降りた。



「いらん恥かかせやがって! だからお前と出掛けるの嫌だったんだよ!」


「何だよ、エイルが悪いんだろ! 人の話は聞くもんだってモルガナに散々言われてたくせに無視しやがるから!」


「人の話は聞くもんだけど、猿の話は聞けとは言われなかったもんね!」


「誰が猿だよ! エイルちゃんのそのメガネは飾り物ですかあ?」



 バス停から相も変わらずレベルの低い口喧嘩をしながら、あたしとアインスは十五分ほど歩き、やたらと凝った植物に彩られた巨大な建物――マーブル区役所に足を踏み入れた。


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