第9話「二人のラルス」
美貌の
彼が足を踏み入れた場所は不思議な部屋だった。
「じゃ、ちょっとお茶の準備してくるわね? ふふ、あの子もすぐ来るから!」
「あ、あのっ! ちょっと!」
ラルスを強引にソファに座らせて、エーリルは行ってしまった。
ぽつねんと残され、居心地が悪いラルス。
改めて周囲を見渡すと……酷い有様の大惨事が広がっていた。そこかしこに乱雑に書物が散らばり、衣服も散乱していた。そして、ベッドを中心にこれでもかとぬいぐるみが積み上げられている。
「酷い部屋だ……まさか、
ふとラルスは、足元に脱ぎ捨てられた着衣へ目を落とす。
漆黒のマントに騎士団の制服、
するとこの部屋が、あのリンナの居室なのだろうか?
だが、
「なにか急ぎで着替えたのかな? しわになってしまう、
生来ラルスは
そして、黒いマントを拾い上げて広げ、刻まれた紋章をまじまじと見る。真紅の日輪が色鮮やかで、皆が常闇の騎士と恐れ
ラルスは周囲を見渡し、人の気配がないことを確認する。
つい出来心から、マントを羽織ってラルスは鏡の前に立つ。
鏡面にかかる薄布を手でどけたが、それがリンナの下着だとさえ意識できなかった。
「おっ、やばいなこれ……アガるね、テンション! 格好いい……」
鏡の中には、常闇の騎士の姿を借りた自分が映っていた。平服でマントだけが浮いて見えたが、背を向け肩越しに振り返れば、なかなかに様になっている。
「あ……なにやってるんだ、俺は。駄目だろ、リンナ隊長のマントを……ん?」
その時だった。
突然、ドアの向こうに人の声がした。
「母様、今からお茶の準備ですか? ……また、殿方を連れ込むんですね。わかってます、もういいです! 私は先に休ませてもらいます。おやすみなさい!」
同時にドアがやや乱暴に開かれる。
それは、ラルスが咄嗟にソファの影へ隠れるのと同時だった。
(なっ、なにを俺は隠れてしまったんだ……そ、そうだ、これを脱がなきゃ)
リンナの気配は、静かに歩いてベッドの上に倒れ込む。
どうやらお疲れの様子で、リンナの溜息が室内に溶け消えた。
(まずい……出るタイミングが。ま、まずこれを脱がなきゃ……あれ? くっ、固く結び過ぎたか? ええと……はっ! そういえば、頼まれた書類!)
首の下で紐の結び目へ指を走らせながらも、
そして、カルカから頼まれた書類はテーブルに置きっぱなしだ。
(そ、そうだ……正直に名乗り出よう。母君に部屋へ通されたと言って、説明すれば大丈夫だ。非礼は詫びるし、リンナ隊長は話を聞いてくれる筈)
リンナへの信頼を感じるし、それを疑う余地はない。
彼女は、彼女こそがラルスが尊敬する騎士そのものだ。
この際、
そうしてラルスは、すっとソファの影から身を起こし――そのまま、再度屈み込んで床に突っ伏す。
(なっ、なんで……なんでですか、リンナ隊長っ! どうして)
自分でも赤らめた顔が熱いのが、わかる。
今見た光景が理解できず、理解しようにも理性が上手く働かない。
(なんで……どうして、裸なんですかっ!)
正確には、下着姿だった。
リンナはしどけなく、ほっそりとしながらも美しい起伏の曲線美の下着姿だ。そのままの半裸で、ベッドの上に横になっている。
見間違いではと、そっとソファの影から顔を出してみる。
間違いない、半裸だ。
うつ伏せに顔を枕に突っ伏して、細くしなやかな両脚を交互に立てている。そのふくらはぎから太もも、そして尻への優美なラインが、ラルスの網膜に焼き付いた。
そして、顔を上げたリンナはぬいぐるみの山へと手を伸ばす。
「ふう、疲れた……やっぱりお酒は苦手です。今日も、よく働きました……だから、疲れたんですよ? ね、ラルス」
その一言に、ラルスは心臓を
寿命が確実に縮んだし、今すぐゼロになりそうな気さえした。
リンナは今、ラルスの名を呼んだのだ。
恐る恐るソファの影から、頭を半分だけ覗かせるラルス。
驚きに視線が泳いでしまう。揺れる視界に飛び込んでくるのは、やはりリンナの白い肌だ。白妙の柔肌と長髪とを広げて、リンナはベッドで寝返りを打った。
その両手に、ひときわ大きなぬいぐるみが握られている。
「ラルス、そういえば今日……私のオフューカス
恐る恐る見守るラルスにも気付かず、リンナはぬいぐるみに話しかけている。
そんな偶然があるのかと驚いたが、これで合点がいった。
リンナはずっと、ラルスのことを少年と呼ぶ。名で呼んではくれない。その理由が恐らく、これなのだ。
「ラルス、あの人の息子さんということは……私にとって、もしかしたら……もしかしたら、ですよ? ひょっとしたら、やっぱり……そう、なんでしょうか」
徐々にリンナの、声のトーンが落ちてゆく。
紡がれる言葉は意味深で、ラルスはリンナのもう一つの顔を知ってしまった。
否、これが彼女の素顔なのかもしれない。
常闇の騎士にしてオフューカス分遣隊を取り仕切る才媛、リンナ・ベルトール……彼女はラルスと二つしか違わない、18歳の少女なのだ。
「もし、そうだとしたら……少年はやはり、あの人に似てるのでしょうか。ラルス、教えてください……私は明日から、どんな顔で彼に接したらいいのでしょう」
あの人とは恐らく、ラルスの父アルス・マーケンのことだ。
確か、バルクが言っていた。バルクと、リンナの母エーリル、そしてラルスの父アルス……ついでに、今日の面接官だったハインツ。彼等は皆、かつてのゾディアック黒騎士団を支えた騎士だったという。
そのことと、関係があるのだろうか?
(リンナ隊長……ええい! ここはもう、正直に出ていくしかないぞ)
時間が経てば経つほど、状況が悪化する気がした。
意を決して、ラルスはソファの背後から立ち上がる。
「リンナ隊長、すみませんっ! 実は先程母君が……あ、あれ? リンナ隊長?」
身を起こすと同時に、深々と頭を下げた。
だが、返事は返ってこない。
気まずい沈黙の中で、ラルスは恐る恐る顔をあげる。
リンナはベッドの上に丸くなって、ぬいぐるみを抱きしめたまま眠っていた。
まるで宝石細工の妖精のように美しく、目のやり場に困る程に愛らしい。
「……リンナ隊長? 寝て、るん、ですか? ふーっ、そっか……と、とりあえず、風邪引きますよ? ちょーっとすみません、失礼して」
そっとラルスは、安らかな寝息をたてるリンナへ毛布をかけてやる。
ホッとしたのものの、ようやく緊張感から解放されて、ラルスは手の甲で額を拭った。それからゆっくりマントを抜いで、先程畳んだ制服と一緒に枕元に置く。
そうこうしていると、不意に背後で声がした。
「あら、もう用事は済んだのかしら? ふふ、
振り向くとそこには、お茶の準備を整えたエーリルが立っていた。
まるで気配を感じなかった。
仮にも騎士を目指して鍛錬してきたラルスが、他者の接近を全く察知できなかったというのは驚きだ。
「その
「う、兎なんですか、これ!? ……じゃない、それはどうでもいいですけど。ラルスって」
「あなたの父親よって、私が小さい頃から言い聞かせてた人がいてね……その人の最初で最後の贈り物なの。兎……じゃないなら、なにかしら。そうね、犬?」
「
「アルス・マーケン……かつてゾディアック黒騎士団にその人ありと言われた、剣の達人。仁と徳に満ちて清廉潔白、立派な人だったわ。……似てるわよ、キミに」
「……父さんを、父を、御存知なんですね」
「ええ。とてもよくネ」
エーリルは子供のような笑みを見せた。
それは、今までの印象を払拭する、本当の素顔に思えた。
しかし、ラルスの心中は複雑である。
「と、とりあえず、要件はすみました。あそこのテーブルの書類を、リンナさんに明日の朝にでも渡してください」
「あら、帰るの?」
「はい。その……なんだか混乱してしまって。と、とにかく! 失礼します!」
「だーめ、もう少しゆっくりしてってぇ? ね、聞かせてあげる……キミのお父さんのこと、色々と。気になってるんでしょう? アタシとどういう関係だったか」
「そ、それは。でも!」
エーリルはそっと、人差し指でラルスの唇に鍵をかける。まるで魔性に魅入られたかのように、ラルスは抵抗することができない。
「もう夜も遅いわ、ねえキミ。泊まってきなさいよ? この子の、リンナの知り合いなんでしょう? 察するに……新しい部下、仲間ってとこかな?」
「は、はい。リンナ隊長のお力添えもあって、ゾディアック黒騎士団に入れてもらえました。明日から同じオフューカス分遣隊でお世話になるんです、けど」
「あら! 騎士なの、そう……アタシの後輩ってことね。ふふ、じゃあ行きましょ? アタシの部屋でゆっくりと、そう、じっくりと……お話、しましょう」
不意にエーリルは、ラルスの腕を抱いてきた。そのまま身を預けるように密着してくる。母を知らず育ったラルスにとって、女性に間近に接する機会は今までなかった。そもそも母の不在について、父は多くを語らなかった。
ただ、村の娘で、病気で早くに亡くなったと、それだけ伝えられていた。
そのことを思い出すラルスは、抵抗らしい抵抗もできず、エーリルに連れられリンナの部屋をあとにしたのだった。
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