第5話「蛇遣い座の女神の裁き」
ラルスの目の前で、おずおずとヨアンが立ち上がった。両手で胸と股間とを隠しながら。相変わらず無感情な表情は、見開く瞳が
これ以上は戦えない、ラルスも周囲もそう思っていた。
だが、彼女は立った。
そして、無情にもハインツの声がヨアンを突き動かす。
「ヨアン! さっさと片付け
ビクン! と震えたヨアンが
彼女はゆっくりと、両手を身体から離して拳を握った。
慌ててラルスは、剣を持ったまま目を覆う。
「ヨアンさん、いけないですよ! 女の子がそんな、ッグ!? ッハア!」
一瞬だけ視界を自ら遮った、次の瞬間には激痛に呼吸が止まる。
みぞおちへと、飛び込んできたヨアンの肘打ちがめり込んでいた。
平服姿で鎧を着込んでいなかったため、ラルスは息を吐き出したまま倒れ込んだ。だが、それでヨアンの反撃は終わらない。肌も
「ちょ、ちょっと待って下さい、ヨアンさん! 女の子がそんな、ゲウッ! ああもう、やめてください! 冷静になっ、カハッ! ……よし、ましょう。俺には、できな……い? あれ?」
柔らかくて、温かくて、僅かに汗ばんだ……それは、ヨアンの胸だった。極めて平坦に近い膨らみへ、ラルスの手が吸い付いていた。
ヨアンが拳を振り上げたまま、固まった。
気まずい沈黙のあと、弾かれるように彼女は離れる。
ようやく立ち上がったラルスは、グイと親指で鼻血を拭って叫んだ。
「ハインツさん! 彼女を止めてください! これ以上、ヨアンさんを
だが、取ってつけたような返答が戻ってくる。
「ならばラルス君、君の敗北ということでよろしいか? 戦意喪失とみなすが。なに、ヨアンはまだ戦える……戦わねばならんのだ。こんな野良犬の
「クッ、卑怯な! ハインツさん、貴方はそれでも騎士なんですか!」
「無論だ。私は栄えある
そうなのかと、ラルスは周囲を見渡した。
由緒正しき名門、ゾディアック黒騎士団に参集した騎士達に、無言で賛同を求めた。
誰もが目を合わせるのを嫌うように、
信じられない現実に、ラルスは打ちひしがれた。
それでも呼吸を落ち着かせると、
「無手の相手に剣は不要! さあ、ヨアンさん! かかってきてください。これ以上、互いに苦しむ必要はないですよ。誰だって、生活がかかってる、それはわかるんです!」
そう言ってラルスは、身につけた上着を脱ぐ。
晴れ始めた空からの日差しが、鍛え抜かれた肉体美を照らしていた。脱いだ着衣を手に、両腕を広げてラルスは防御を捨てる。
「どうぞ、ヨアンさん! 好きなだけ
水を打ったような静寂が訪れた。
ヨアンは明らかに戸惑いを見せて、動揺している。彼女が救いを求めるように、ハインツの方を振り返った。だが、当のハインツ自体がラルスの言葉に絶句していた。
ラルスは無防備に近寄り、裸のヨアンにそっと自分の上着をかけてやる。
「ヨアンさん、強いですね! 俺も自信はあったつもりでしたが、さっきので精一杯です。もし、貴女をこれ以上辱めるようなら……俺はこの騎士団に未練はありません!」
まばらな拍手があがった。
それは次第に、さらなる拍手を呼ぶ。
気付けば周りの騎士たちは、大地を踏み鳴らして
空を覆っていた雲さえ、まるで嘘のように消え去っていた。
そして、一人の少女が歩み寄ってくる。
「才気
リンナだ。彼女はラルスとヨアンの前まで来て、勝負はついたとばかりに振り返った。真っ白な髪がふわりと浮き上がって、ラルスに集まる注目の視線をかっさらう。
堂々とリンナは、ハインツへ向けて言い放った。
「ハインツ殿、この場で貴殿以外の全ての騎士が、決着を悟ったようです。どうでしょう、そろそろ……若者への気高き試練を終わらせてください」
中庭に集った誰もが、目を点にした。
ラルスも言葉を失い、ヨアンも小首を
「ハインツ殿は有望な若者を見ると、すぐに試練で鍛えて導こうとします。今回は、少しやりすぎてしまいましたね? 本当はヨアンさんを大事にし、少年にも入団して欲しいのに。そうではありませんか? キャンサー支隊隊長、ハインツ・ドナヒュー殿」
おお、と
当のハインツ自信が、一瞬だけのけぞり黙ったあとで、笑顔を作った。
「そ、そうなのよ! 嫌ねえ、アタシったら! ちょっとやりすぎちゃったわぁん? ごめんなさいね、ヨアン。あとで御洋服、買ってあげるから、許してねん? さて……もう
口調からすぐに、ラルスはハインツの動転を見抜いた。
だが、新たな団員の誕生を祝福する拍手の中、それがどうでもいいことだと思える。本心ではラルスを
それを見透かした上で、リンナはハインツを持ち上げつつ、その
ラルスには到底思いもしない解決法、しかし心当たりがある。
今朝の城門前の事件でもそうだった。
美しき少女騎士の言葉は、百振りの剣にも勝る価値で活路を切り開く。
周囲の盛り上がりを背負って、リンナが言葉を続ける。
「二人については、私のオフューカス
「え、ええ! そうよ、そうして
「ありがとうございます、ハインツ殿。では、両名はこれより私の指揮下に入ってもらいます。よりよき騎士を目指して、精進してもらいたいですね。ようこそ、ゾディアック黒騎士団へ。歓迎します」
そう言ってリンナが、手を伸べてきた。
二度目の握手は、大勢に囲まれ熱狂的に
手を差し出して汗に濡れていると感じ、急いでラルスはズボンの尻でそれを拭く。そうして握ったリンナの手は、先ほどと違って少し熱かった。
それからリンナは、ヨアンとも握手を交わす。
気になったので、ラルスは小声で聞いてみた。
「ヨアンさんの件、ええと……隊長? リンナ隊長の権限でなんとかならないんですか?」
「なんとかするつもりですが、すぐにとはいかないでしょう。人事権は最終的には、ハインツ殿が握っていますから。ですが、善処を約束します」
「あ、ありがとうございます。ヨアンさん、よかったですね! 正式な騎士になったら、今よりずっと楽な暮らしが……ま、まあ、それだけが目的ではないにしろ、少し俺もわかりましたから」
鼻の下を指で
きょとんと見上げてくるヨアンも、その瞳に不安の色が今は消えている。
「騎士は食わねど
ラルスの恐縮したような言葉に、ヨアンは大きく頷く。
彼女はラルスが
「わたしも、正騎士に、なれる? ……もっと仕送り、したい」
切実なその声に、ラルスと顔を見合わせてから、リンナは
それを見て、ヨアンは俯き加減に小さくはにかむ。
そんな時、本営の敷地内に鐘の音が響く。
そぞろに散らばり始めた騎士たちは、建物の中へと戻っていった。恐らく、午後の任務が始まるのだろう。一人、また一人と騎士たちは去っていった。その誰もが、ラルスには試合前よりもいきいきとして見える。
リンナは
「では、少年。それからヨアンさんもです。これからよろしくお願いしますね。以後は私が責任を持って、お二人を支えて守ります。職務に精を出して、ゾディアック黒騎士団の名に恥じぬよう頑張ってください」
ヨアンが何度も頷いた。
ラルスにも異論はないのだが、つい一言聞いてしまう。
「それはもう。でも……あの」
「なんでしょうか。なにか疑問があれば、なんでも言ってください。少年にもヨアンさんにも、出来る限りの
「それです、それ。なんでヨアンさんは『ヨアンさん』で、俺は『少年』なんですか?」
「……
「えっと、そういう意味ではなくてですね」
なんだか、ハインツの執務室で会った時もそうだったが、リンナは時々
大した問題でもなかったので、それ以上はラルスは言及をやめた。
「少年、とりあえず今日の仕事は一つしかありません。とても大事なことらしいので、そのことだけしっかり務めてください。時間は夕刻の六時、場所は大通りの五番町にある
「五番町、山猫亭……そこでなにが?」
ラルスの当然の質問に、顔色一つ変えずにリンナは答えた。
「お二人の歓迎会です」
「はあ。えっと、それは」
「騎士団の経費という
形良いおとがいに手を当て、リンナは少し考え込む素振りを見せた。
やがて彼女は、ヨアンと手を繋いで歩き出す。
「少年、夕方までに滞在する場所を探しておいてください。係の者に言えば、騎士団が借り上げてる宿舎も教えてくれます。私はヨアンさんの服を
「あ、はい。……あっ! ちょっと、隊長! 俺の上着! 待っ……ハクショーィ!」
春とはいえ、まだまだ王都を吹き渡る風は冷たい。
己の方を抱きながら、ラルスは凍える寒さを思い出して震えるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます