アナザーワールドミュージック
諸根いつみ
1
「なに勝手に触ってんの」
友愛(ともえ)は、持った紙袋を下ろし、抱えた花束をガサガサいわせた。
「ああ、お帰り」
友愛のピアノの前に座った安寧(あんね)は、手をとめて振り向いた。
「勝手にわたしのピアノに触らないでよ」
「ごめん。ちょっとコードを弾いてただけ」
「……お菓子食べる?たくさんもらって、食べきれないから」
「賞取ったの?」
「最優秀賞」
ピアノコンクールの話だ。高校一年生の今年で、三回目の最優秀賞だった。
「おめでとう。あとで食べる」
安寧は立ち上がった。目の周りには、黒い縁取りのメイク。腰まである髪といい、一卵性双生児なのに、友愛とは不思議なほど似ていない。
「なにそのメイク」
「出かけてたから」
「学校にも行ってないし、わたしのコンクールにも来ないのに、どこに?」
「わたしにも友達いるんだから」
安寧は怒った様子もなく、友愛の部屋を出て行った。
安寧について、友愛には理解できないことばかりだ。小さい頃に事故に遭ったからって、今は普通に元気なのに、学校へ行かなくてもいいことになっていること。勉強している様子もないのに、友愛の知らないことをいろいろ知っているし、わざと怒らせてみようとしても、絶対に怒らないし、すごく大人に思える。
昼間はたいてい、部屋で音楽を聴いているか、エレキギターを弾いているらしい。聞こえてくるのは、ロックばかり。作曲AIの台頭により、十年も前に、人間の作るポピュラー音楽は市場から消えたというのに。
AI音楽を演奏する人間のバンドは存在し、コンサートをすれば大きな会場を埋めるけれど、友愛は興味がわかなかった。安寧は、前時代のロックも聴けば、AIの作ったバーチャルアーティストの曲も聴いているらしい。
友愛には、バーチャルアーティストの価値が理解できなかった。
ポピュラー音楽は死んだのだ。すでに完成されているクラシックは永遠に死なない。だから友愛は、ピアノでクラシック音楽を演奏する。
翌日、お祝いということで、家族で食事に出かけた。
テリーヌやローストビーフを母と美味しい美味しいと言い合いながら食べた。安寧は黙って食べていた。
「あのさ、友愛と安寧に相談なんだけど」
突然、父が言い出した。
「家族みんなでナノマシンを注射しようかと思うんだ。来週、病院へ行って、打ってもらおうかと思うんだけど、いいかな」
「ナノマシンって、もう注射したんじゃないの?」
友愛は言った。確か、小さい頃に接種して、体調などのデータを病院に送っているんじゃなかったっけ。
「最新型のものが発売されたんだよ。実は、お父さんが開発したんだ」
「へえ」
「実は、お父さんはもう打ってる」
「将来のことを考えると、絶対打っといたほうがいいから」
母が言った。
「お母さんと友愛と安寧で、お母さんの病院へ行って打ってもらおう」
「うん」
友愛はうなずき、安寧もうなずいた。
次の土曜日、母と安寧と一緒に、母の勤める病院に来た。
待合室とは違う別室で、説明が書かれた紙を渡された。びっしりと細かい字が書いてある。
友愛はとりあえず、きちんと読んでみた。
「ねえ、ネットにつながるとか、脳内映像投影とか、どういう意味?」
母は、紙に触れる様子もない。
「慣れるにはちょっと時間がかかると思うけど、大丈夫だから。しばらく休むって、学校には連絡してあるし」
学校を休むのは問題ない。ピアノの練習ができればいい。
母は、ナノマシンがどんなものなのか頭に入っているのだろうけれど、安寧も説明を読む様子がないのはどうしてだろう。安寧も調べたかなにかして、わかっているのだろうか。
少し不安になったけれど、父と母が大丈夫と言っているのだから、大丈夫だろう。
処置はすぐに終わった。予防接種と同じだ。
母の運転する車で帰る途中、なにも変化はなかった。しかし、帰宅してから、新しい世界が開けた。
友愛は、椅子に座って、目を見開いていた。目は、なにもない虚空を見つめている。
ふと、自分がどのような能力を手に入れたのかが、わかったのだ。頭に説明書が押し込まれた感じ。
念じるだけでネットに接続できた。試しに、ニュースフィード、と心の中でつぶやくと、頭の中に、ニュースの見出しが大量に並んだ。その中でも、興味のある音楽関係の記事の見出しが目立っていた。
視覚的な情報ではない。純粋な情報そのものが、まるで自分が思いついたものかのような自然さで、頭に浮かぶのだ。
友愛は驚きに目をしばたたき、さらに試してみた。
いつも利用している映像配信サイトの名前を念じると、そのサイトのデザインが頭に浮かんだ。実際に見えているわけではない。視界には、普通に自分の部屋の壁がある。でもとにかく、鮮明に頭に浮かんだのだ。
友愛は、前から観ようと思っていた映画のタイトルを頭に浮かべる。その映画のヴィジュアル画像が鮮明に浮かんだ。この映画を観たい、と念じる。
この映像を購入しますか?という言葉が浮かんだ。その時初めて、外部から違う思考を脳に挿入されたような異物感を覚えた。
不快感に、わずかに眉をひそめながら、はい、と念じる。
購入できました、という言葉が浮かんだ。今度の違和感は、それほどでもない。
映像を観る時は、安全のため、目を閉じる必要があるらしい。友愛は目を閉じ、購入した映像を再生、と念じた。
頭の中に、壮大な映像があった。驚いて目を開けると、なんともない。瞬きをしても、自分の部屋があるだけ。
もう一度、恐る恐る目を閉じる。同じ映像があった。映画の冒頭部分。海辺に立つ主人公。音楽も聴こえる。ちょうどいい音量。映画の世界に入ったみたいだ。
再び目を開けてみると、現実に戻る。目を閉じると、目を開けたところと同じ、映画の世界。目を開けると自動的に、一時停止になるのだ。
主人公が歩き出し、物語が動き出した。目を閉じ、友愛は映画を楽しんだ。
翌日、友愛はピアノの前に座り、手を膝において、姿勢を正し、目を閉じていた。自分が完璧に演奏できている姿を思い描く。完璧なタッチ、完璧な抑揚。いつもしているイメージトレーニングだ。
すると、目標としている世界的ピアニストが、同じ曲を目の前で演奏していた。
友愛は驚いて、目を開いた。勝手に動画サイトへアクセスしていたらしい。まだコントロールは難しい。勝手に課金されることはないらしいから、いいけれど。
友愛は、鍵盤に指を触れた。演奏を始める。
横に置いた鏡を見つつ、手の構え方と動きを確認する。
もっと滑らかに、もっと力強く。だめだ。もう一度始めから弾きなおす。同じ個所で同じ違和感。スピードが足りない。先生に言われたでしょ。自分に言い聞かせる。もっと上手くなれる。上手くならなくちゃ。それが音楽をやるってこと。
その時、隣の部屋から、ジャンジャンジャジャンと、エレキギターの歪んだ音が聞こえてきた。
友愛はすぐに演奏をやめ、部屋を飛び出し、廊下をずかずかと五歩で、隣の部屋のドアをたたいた。
「今練習してるの!聞こえてるでしょ!」
お父さんに、早く練習部屋を借りてくれるように催促しなきゃ、と思った。
「ごめーん、でもー―」
「聞こえない」
友愛はドアを開けた。安寧が、椅子に座ってエレキギターを抱えていた。
「作曲できるようになったの」
安寧は笑顔で言った。
「は?」
友愛は腰に手を当てる。
「作曲?」
「新しいナノマシンを入れて、たくさんの情報を処理できるようになったから、デアとつながってみたの」
デアとは、ポピュラー音楽を殺した張本人ではないか。作曲AIの名前だ。
「どういうこと?」
正直、友愛にはなにがなんだかわからなかった。
「デアの能力を取り込んだってこと。作曲ができるようになったの。さっそく自分が作った曲を弾いてみたくって」
「そんなことして、どうすんの?」
友愛は、思ったままのことを言った。
「友達に聴いてもらおうかと思って」
「だから、そんなことしてどうすんの?」
「どうすんのって、楽しいじゃん」
「ポピュラー音楽は死んだんだよ。今更エレキギターとか弾いてる人がいることも信じらんないし」
友愛は、安寧の黒いストラトキャスターをにらむ。ボディに貼られたステッカーは前時代バンドのもの。しょぼいマルチエフェクター。アンプはVOX。
「死んでなんかないよ。毎日いっぱい新曲が出てるじゃん」
「全部デアが作った曲でしょ。人間のものじゃないんだよ」
「そう、作ったのはデアだよ。音楽は数学だし、AIの最も得意とする分野のひとつだしね。でも、音楽を楽しめるのは人間だけでしょ」
「死んだ音楽にしがみついてるなんて、馬鹿みたい」
「デアが作った曲も、立派な音楽だよ。いい曲たくさんあるよ」
「わたしは興味ないな」
「どうしてそうやって人間とAIを分けるの?」
「だって、違うから」
「そうかな」
「デアの能力を取り込んだって、気持ち悪くないの?」
「全然」
「だって不自然でしょ」
「ちゃんと安全性が確認されてる技術だし。タンパク質やらDNAやらでできたナノマシンが、古い細胞を材料にして増殖しつつ、電波を受信して、ニューロンの活動電位に変換するわけ。その逆もあり。まったくもって安全。デアが持ってる膨大なデータと、わたしのニューロンから読み取ったわたしの好みを照らし合わせて、デアが新しい音の組み合わせを示してくれるの」
「……それって、安寧の頭の中で、デアが作曲してるってこと?」
「ある意味そうかもだけど――」
「それこそ不自然じゃん。全然安寧が作曲してることになってないし」
「そんなことないよ。わたしの好みは、わたしだけのもの。わたしがいなければできなかった曲なんだから、わたしが作ったのと同じでしょ」
「本当にそうなの?デアがテキトーに作った曲を安寧の頭に流し込んでるだけかも」
「自分で思いついたっていう実感があるし。仮にもし友愛の言う通りだったとしても、確かめるすべはないんだから、同じことだよ」
「どうしてそうやって落ち着いていられるの?頭の中をデアに明け渡して、かき回されてもいいの?」
「AIはそんなレイプみたいなことはしない。ちゃんとセキュリティ対策もしてあるし。頭の中がネットに公開されることもないし、ハッキングされたりもしない」
「そんなことになったら地獄だわ。やっぱりこわいよ」
「友愛もやってみなよ。デアとつながりたいって思うだけでいいんだよ。課金はいるけど」
「やだよ」
「友愛って、頭硬いところあるよね。素晴らしいことなのに」
「なにが」
「AIとナノマシンがあれば、なんだってできるんだよ。なんだって」
友愛は鼻で笑った。安寧はいつから、テクノロジーの信奉者になったのだろう。
時間を無駄にしてしまった。練習に戻らないと。
「わかったからとにかく、わたしが練習してる時は静かにして。わたしは真剣に音楽やってるんだから」
安寧は渋々、「わかった」とうなずいた。
ナノマシン接種から五日後、夕食の時、母が言った。
「友愛、そろそろ慣れてきた?学校には行けそう?」
「うん」
友愛は、鮭の切り身を箸で切りながらうなずいた。別になんの問題もない。レッスンにも普通に行けたし。
「じゃあ、来週からは大丈夫ね」
「友愛の学校は、論理的思考能力を養うことに特化した学校だから、暗記科目はないし、特に問題はないと思う」
父が言った。父と母は帰ってきているのに、安寧はいない。
「でも、前にも言ったけど、最新のナノマシンを入れたことは、友達には言わないほうがいいと思う」
「口が堅い友達には言ってもいいでしょ?」
なぜ父が繰り返し注意するのかがわからなかった。
「一度言ったら、広まらないとは言えないからね。まだ、誰でも入れられるものではないし、羨ましがられるだけじゃなくて、妬む人もいるかもしれない」
「お金持ちだって思われるだけでしょ。慣れてるけど」
「それだけじゃないよ。開発した俺が言うのもなんだけど、気味悪がったり、こわがったりする人もいるかもしれない。いずれは全人類がそうなるはずだから、まったくナンセンスなんだけど、超能力を持った別の種類の人間だとか言う人も、中にはいるんだ」
「超能力って」
友愛は苦笑する。
「もっと慣れてくれば、電子書籍を一瞬で読んだり、考えるだけで、論文をネットにアップしたりできる。ナノマシンに適応して、脳の処理能力が上がるからね」
「そう、なんだ」
そんなこともできるようになるとは、知らなかった。
「ただいま」
安寧がリビングに入ってきた。ギターケースを背負い、囲み目メイクをしている。
「遅かったね。どこに行ってたの?」
母が言った。
「友達とスタジオに入ってた」
安寧は笑顔で答えた。
「わたしが作った曲をバンドで演奏することになったんだよ」
「バンドやってるの?」
友愛は思わず言った。
「うん。ボーカルのカオルって子が歌上手いの」
「それはよかった。夕飯はまだなのか?」
「うん。食べる」
父に言われ、安寧はいったん部屋に引っ込んだ。
「バンドなんてやって意味あんのかな。絶対プロにはなれないのに」
友愛はご飯を口に運んだ。
「まあ、アマチュアバンドとして活動するなら、いいんじゃないか?」
「友愛は志が高いからね。安寧は安寧の楽しみがあるから」
そう言う父と母に、友愛は疑問をぶつけた。
「ねえ、なんで安寧は学校に行かなくてもいいの?」
「知ってるだろ。安寧は、小さい頃に事故に遭った後遺症で、体が弱いから――」
「全然元気じゃん。風邪もひかないし、体が弱そうなところなんて見たことない」
その時、安寧が戻ってきた。
「ねえ、安寧は学校に行きたいって思ったことはないの?」
「全然。友達はネットで見つかるし」
安寧は即答した。自分で味噌汁をよそう。
「安寧は普通に元気だと思うんだけど。なんで学校へ行かなくてもいいの?」
「あー、もう言っちゃってもいいかな」
「やめろ」
父が安寧の言葉を遮った。
「え?」
父の強い口調に、友愛は驚いた。
「あ、いや。友愛はこだわりが強いな」
ごまかす父。安寧は、何食わぬ顔で席についた。友愛を見る。「ここでは黙ってて」と、目で言っている気がした。
友愛は、すねたようなふりをして、ご飯を口に押し込んだ。
夕食のあと、友愛は安寧の部屋に行った。安寧は、友愛を待っていたかのように、なにもせずに椅子に座っていた。もしかして、脳内でゲームかなにかをしていたのかもしれないけれど。
「さっき、なにを言いかけたの?」
友愛は、安寧のベッドに腰かける。
「わたしが学校に行かない理由。今なら言ってもいいかなって」
「今ならって?」
「同じナノマシンを入れたから」
「どういうこと?」
「実は、わたしは友愛とは違う種類のナノマシンを体に入れてたの。三歳の時、事故に遭った時から」
「違う種類?」
「お父さんとお母さんは、不公平だから、友愛にも、ほかの誰にも言っちゃだめって。でも、友愛は嫉妬したりしないよね?」
「違う種類って、なんなの?」
「当時の最新型。お父さんの研究室から、お母さんの病院に持って行って、初めて人間の体に入れたんだって。わたしが道に飛び出して車にはねられて、重傷だったから、安全性とか、考慮してる余裕がなかったの。実際、上手くいったからよかったんだけど、ある意味、実験台にされたようなものなの。もちろん、わたしの命を救うためにね。今、普通に医療現場で使われてるもののもとになってる」
「それが、学校に行かないことと関係あるの?」
「順を追って話すから。そのナノマシンは、体の組織を再生させる機能があるものだったの。傷を修復させるために、お父さんとお母さんは、それをわたしの体に入れた。でも、それは実験サンプルで、様々な機能を網羅したナノマシンを作れないだろうかっていう研究のもとに作られたものだったの。わたしは、世界で初めて、ネットとつながった人間なの」
「え?」
「わたしは子供の頃から、いろいろなコンピュータとつながることができたし、脳の機能が向上した。おままごとしながら、円周率を計算することができたし、瞬きの間に、アニメシリーズを十本観れた。学校に行く意味がないから、行かなかっただけなの」
「なにそれ。それを信じろっていうの?」
「わたしが今まで書いてきた論文があるんだけど、見る?実は、中学生まで、仮想現実の研究をしてたの。誰も理解できないみたいで、学界では無視されちゃったけど。覆面学者だし、あやしまれたみたい」
「そんなにすごい能力持ってるなら、なんでまたナノマシンを入れたの?」
「この前、家族みんなで入れたのは、本当に最新のやつ。今までは、AIとつながることはできなかった。常に進化する知能と触れるには、もっと脳の処理能力が必要だったから」
「……わたしはあんまり頭よくなった気はしないんだけど」
「ニューロンネットワークの構成には時間がかかるから。慣れれば、もっと別の世界が見えるよ。ナノマシンを入れてる人となら、言葉を使わなくても会話できるようになるし」
「安寧には、わたしとは別の世界が、ずっと見えてたってことなのね。ずーっと」
「怒ったの?」
「安寧がわたしのことを見下してたってことにね」
「見下してなんかない」
「わたしのこと、すっごく馬鹿に見えてたんだろうね。馬鹿にするにも値しないかな?」
「そんなことない。わたしは、ちょっとだけ他の人と違ってただけ。わたしは友愛の妹だし、普通の女の子だよ。姉を馬鹿にするわけない」
「よくそんなことをすらすら言えるね。それもナノマシンのおかげ?てか、本当の安寧は、三歳の時に死んだんじゃないの?今の安寧は、ナノマシンが集まってできたアンドロイドみたいなものなんじゃないの?」
「ひどい、その言い方」
「だって、人間じゃないみたいだもん。頭の中にAI入れても平気だって言うし」
「それは、作曲したかったから。カオルに、わたしの作った曲を歌ってもらいたいの。カオルって、すごくいい声だから」
友愛は、男か女かもわからない、安寧のバンド仲間に、一瞬嫉妬した。
「それで人間らしさをアピールしてるつもり?わたしが必死に頑張ってる時にのうのうと、『なんだってできる』なんて言って」
「ごめん。友愛が頑張ってる時に無神経だったね。ムカついたなら、謝る」
「そういうところがムカつくんだよ。いつも冷静で。本当に機械みたい。安寧の死体の皮をかぶったアンドロイドだよ!」
友愛は、安寧の部屋を出た。
レッスンが終わって帰宅し、机に頬杖をついていた。
ヘッドホンから流れる音楽に集中する。なにも考えたくない。
その時、肩を叩かれた。驚いて振り向き、ヘッドホンがずれて落ちる。
友愛の驚きように、安寧も驚いたらしい。目を丸くしている。ヘッドホンから漏れるのは、ガシャガシャとした音。
「ごめん」
そう言った安寧の視線は、卓上高音質音楽プレーヤーにとまった。液晶画面に、ジャケット画像、アーティスト名などの楽曲情報と、再生回数が表示されている。
「友愛、こういう音楽も聴くんだ……」
前時代ロックだった。人間が音楽を作っていた時代の作品。
友愛は立ち上がり、安寧の頬を平手打ちした。安寧はよろける。
「友達が無理やり貸してきたから聴いてただけ!」
再生回数は、三桁だった。
「え?」
安寧は、わけがわからないという顔をした。
頭いいくせに、ぽかんとした顔しやがって。あんたには、わたしの気持ちはわからない。
使い古された雑巾みたいな言葉が頭に浮かび、そんな自分にも腹が立ち、友愛は安寧の首に手をかけた。ぐっと絞めつける。
「指が……痛んじゃうよ」
苦しそうな声で安寧が言った。首を絞められかけている人間の言うことじゃない。
「やっぱあんた人間じゃない」
「人間だよ」
その時、急に腕の力が抜けた。だらりと下がる。右腕を再び持ち上げ、こぶしで安寧を殴ろうとした。安寧のこめかみに触れる直前に、腕の力が抜け、安寧の肩に落ちた。安寧は、よけようとするそぶりも見せなかった。
「仲直りしようと思ってきたのに。ひどいな」
安寧は軽く首をさすった。友愛は震えていた。
「なんなの!」
友愛は自分の腕を叩いた。数秒前は自分の腕ではないような感じがしたのに、今はなんともない。
「ナノマシンの制御機能だよ」
安寧は冷静に言う。
「は?」
「暴力行為などの罪を犯さないように、ナノマシンが脳に働きかけるの。でも安心して。正当防衛に当たる場合はリミッターが外れるようになってるから」
「ナノマシンが、わたしを監視して、コントロールしてるってこと?」
「監視というか、神経細胞の興奮を観測して、その場の状況や、起こそうとしている行動を読み取るの」
「ふざけんなよ。わたしの行動はわたしが決める」
「ナノマシンも、友愛の一部だよ。分けて考えると、変なことになる」
「わたしはロボットじゃない!殴りたい人間を殴る権利がある!」
「そんな権利はないと思う」
「もしかして、安寧も今まで、こういうことがあったの?わたしに怒りたくても、怒れない時があった?」
「そんなことない。わたしは正直だもん」
「そういう風に、ナノマシンに思わされてるってことはない?脳を操作できるわけでしょ?」
「そんな風に感じたことないな」
「話になんない。安寧のことがわからないよ」
「わたしも友愛のことがわかんないよ。なんでわたしを殴りたいのかとか」
「わたしの前で平気でロック聴いて、平気でギター弾いて、バンドやったりするから」
「……わたしに嫉妬してるの?」
もう一度挑戦しようかと腕を上げかけたが、やめておいた。
「ほんとマジで殴りたいわ」
そう言うにとどめた。
「大丈夫だよ。友愛は絶対にわたしを傷つけることはできないから。あのね、わたしが学校へ行かない理由、言ってないことがもうひとつあったの。わたしの中にあるナノマシンの組織再生機能は少し強すぎて、目に見えるスピードで傷が治っちゃうの。もし怪我したら、周りにびっくりされちゃうから。そのぶん副作用もあって、だるくなったりするから、最新のナノマシンでは、もっと軽い作用になったらしいけど」
「……なにが大丈夫なの」
友愛はぐったりとしてしまった。
「本当は、わたしを傷つけたくなんかないでしょ。妹なんだから」
「本当に、わたしの妹の安寧なの?三歳で死んだんじゃなくて?」
そう言う自分も、もう前までの自分ではないのかもしれない。
「もう、しつこいな」
突然、安寧は友愛を抱きしめた。
「大丈夫だよ。そのうち、みんな同じになるんだから」
「みんな同じに?」
「大量生産できるようになったら、みんなナノマシンを入れて、みんなAIの力を手に入れられる。もうすぐだから」
そうか。みんな同じになるなら、まあいいか。もうどうでもよくなってきた。
「あ、そうだ」
安寧は体を離した。
「友愛、わたしのバンドで、キーボード弾く?」
「え?」
「一緒にバンドやろうよ」
「はあ?いきなりなに」
でも、もしそうできたら、楽しいかもしれない。
床に落ちたヘッドホンからは、まだガシャガシャと音が流れていた。
アナザーワールドミュージック 諸根いつみ @morone77
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