【漢文超訳】襄陽守城録―最前線に着任したら敵軍にガチ包囲されたんだが―
馳月基矢
一.四月。兄貴が襄陽を守ることになった。
超訳
ことの起こりは、
「
「マジすか?」
「大マジだ」
「あそこ、いちばんヤバいでしょ。何で兄貴なんすか」
「適当に選んだんだろう。朝廷は、捨て駒はいくらでもいるとでも思っていやがるんだ。ゴロツキ上がりの軍団のカシラに
「手前らは臨安府でうまい汁を吸って私腹を肥やして、オレらには雀の涙の給金で命懸けの仕事を押し付けるってか。宋って国も末期じゃないんすか?」
「すでに一度は滅びたようなもんだろう。かつての都、開封を女真族のタコ金の連中に奪われて、這う這うの体で南へ逃げてきたのが八十年前(*4)(*5)。以来、タコ金に賄賂だかみかじめ料だか贈ってなだめて、全面的な戦をどうにか回避してきたのが今の宋だ(*6)」
開封を追い出された直後は、もちろん、主戦派がメジャーだった。主戦派のリーダー格は
でも、朝廷の中では結局、講和派の
秦檜は岳将軍に謀反の濡れ衣を着せて処刑した。それっきり、宋には目立って有力な武人は現れない。武人が力を持とうとすると、野蛮だ危険だと言い募っていじめ倒す。そんな風潮がある。
暴力に頼らずに済むなら、そいつがいちばんだろうさ。
でも、現実を直視しろよな。
「オレ、生まれてこのかた、治安のいい
それでも、オレが生まれる前、宋に孝宗って皇帝が立った時期には、偶然ながらタコ金にもちゃんとした君主が現れて、和平条約が結ばれた(*9)。両国ともに内政が充実して、国境付近では紛争じゃなく、まともな交易がおこなわれもしたらしい。
が、オレがガキのころに即位した光宗は、それはもう大した御仁で、ハッキリ言っちまえば大バカで、政治家どもをコントロールできず、政局は大混乱(*10)。
十二年前に今上皇帝陛下に代替わりしたが、政治家連中の暴走は止まらねえ。中でも
それから十年経って、韓侂冑の権力もそろそろかなりグラついている。
で、イメージ回復を狙って、タコ金征伐なんて言い出したのが二年くらい前。マジかよ、という周囲のリアクションを振り切って作戦を本格的に動かし始めたのが去年(*12)。
そして今、開禧二年の夏四月、韓侂冑は、国境地域で力を持っている兄貴のような武人に看板だけの役職を与えて、タコ金と戦ってこいなんて言いやがる。
タコ金を建てた女真族は、もともと狩猟の民だ。オレら漢族の名誉に照らせば、連中を認めるのは気分の悪いことではあるが、ハッキリ言って、連中の軍事力はハンパねえ。
大昔からそうだろ。北から攻め入ってくる遊牧や狩猟の騎馬民族は、本来は馬なんて畑を耕すのに使う程度のオレら漢族にとって、化け物みたいな脅威だった。
そんな連中と戦うことになった。それも、かなりガチで。
ヤバくないはずがない。生き延びることができりゃ、貴重な経験だ。
っていうのが、今回オレが記録をつけようと思ったきっかけだ。字を書けるのは、オレの数少ない取り柄の一つだしな。
宋を守るとか朝廷への忠誠とか、そんなデカい話は、オレにはわからねえ。ただ、オレらの兄貴、趙淳に付いていくだけ。兄貴が「守る」と決めた襄陽だから、オレらも守る。
オレがこれから記すのは、本当にただそれだけの――「守る」だけの話だ。
***
さて、まえがきが長くなった。ここからが本題だ。
荊鄂都統だった兄貴は、四月五日、京西北路招撫使って役職に任命された。
都統ってのは「リーダー」くらいな意味合いで、招撫使ってのは、字面どおりに言えば「敵を投降させるために派遣する者」。要するに「おまえ、そのへん片付けてこい」的な。
しかし、任地が京西北路ってのはムチャクチャだ。開封周辺の、いわゆる
兄貴の下の招撫副使には
――――――――――
(*1)
開禧
寧宗の治世に使用された年号。一二〇五‐一二〇七年。本作は開禧二年から三年にかけての記録なので、一二〇六年から一二〇七年。
ちなみに、モンゴルの蒼き狼チンギス・カンの即位が一二〇六年。日本では鎌倉時代の前半で、執権になった北条義時が執権が他家排斥の動きを活発化させつつあり、文化面で言えば藤原定家が『新古今和歌集』を編纂していた時期に当たる。西のほうでは十字軍遠征がおこなわれ、迎え撃っていたのはアイユーブ朝。うーん、雑な解説。
(*2)
襄陽
現在の湖北省襄陽市。大河、漢江のほとりに位置し、古来、水上交通の要衝として知られる。『三国志』ファンなら聞いたことのある地名かもしれない。
襄陽の地理的・軍事的意義については次章(十一月三日・五日)で触れる。
(*3)
荊鄂、江陵
荊鄂は、現在の湖北省一帯を指す。春秋戦国時代には楚、漢代には荊州、唐宋代には鄂州に属していたため、現在でもそれら古名がニックネーム的に用いられることがある。
江陵は、上記の荊鄂の中心地。現在の湖北省荊州市。襄陽の南、約百二十キロ。長江中流域にある。三国時代には魏・呉・蜀漢の境界がこのエリアに引かれた。有名な赤壁の戦いが起こった場所でもある。
(*4)
タコ金
漢族の伝統で、異民族に対しては蔑みを含む漢字を使うことが多い。『襄陽守城録』では、金という国号を用いず、一貫して「虜(えびす、奴隷の意)」を使っている。そういうニュアンスを何かどうにか表現したいのだが、タコよりもっとうまい言い回しはないものか。
(*5)
這う這うの体で南へ
一一二六年、靖康の変。時の皇帝、欽宗が女真族の金によって開封(現在の河南省開封市)から北方へ拉致され、欽宗の弟の高宗が朝廷もろとも南へ脱出。初めは南京、次いで臨安府(現在の浙江省杭州市)を臨時の首都とし、朝廷を開いた。ちなみに、宋王朝滅亡までずっと臨時の首都のままだ。
欽宗以前を北宋、高宗以後を南宋と呼ぶ。が、原著者の趙萬年たちは国号にいちいち「南」を付けたりはしなかったはず。
当時の朝廷の中には「北方の故地回復!」を声高に唱える人もいたが、前線の状況を知る趙萬年たちにしてみれば「できるかボケ」だろう。いつの時代も、政治家は現場を見ず、腐ったお花畑で権力闘争に勤しむのだ。
(*6)
みかじめ料
南宋と金の間に一一四一年に結ばれた紹興の和議によって、南宋は淮河以北の地(北宋の首都開封を含む)を金に差し出すことと、金を君主の国として毎年貢物を贈ることが約束された。これを主導したのが宰相の秦檜。
和平はもたらされた。暴力よりカネで解決できるなら、まあ、悪くないかもしれない。が、秦檜は、その「和平」を口実に、朝廷内の勢力図を自分色に染め上げることだけを考えていたのではないか、と疑いたくなるような御仁。
(*7)
岳飛(一一〇三‐一一四二)
北宋出身の武官。二十歳そこそこで対金義勇軍に参加し、開封防衛に奮闘する。宋の南遷後も戦い続け、次第に民衆の人気が高まるにつれ、秦檜ら講和派から危険視されるようになる。やがて謀反の疑いありとの策謀に嵌められ、刑死。
中国史上の英雄の中で『三国志』の関羽と並ぶほど有名で人気が高い。彼の場合、歴史学的意義を云々するより、物語中のヒーローとして知り合うほうがお互い幸せだと思うので、興味が湧いたら図書館や書店へ。『岳飛伝』、絶対ある。
(*8)
秦檜(一〇九一‐一一五五)
北宋出身の政治家。靖康の変で欽宗が北方へ拉致された際、同じく金軍に連行され、なぜか厚遇される。一一三〇年に南宋朝廷に合流、翌年に宰相になり、金との和平交渉を担当する。
当時は岳飛を中心とする主戦派が対金戦線で活躍していたが、秦檜はこれと対立。高宗は「金と対等に交渉でき、その侵略を抑えられるのは秦檜だけ」という状況の下、秦檜の専横を許すことになる。秦檜が死ぬまでの約二十年間のうちに、彼の政敵は一掃され、朝廷の人材は壊滅的な状況になった。
中国史上の「えげつない人物」は、日本史上のそれとは比較にならないほど本当に、えげつない。そういうのが好きなら、当時の政治情勢を絡めて秦檜を眺めるのは非常に興味深いかと思う。
(*9)
和平条約
南宋の孝宗と金の世宗による隆興の和議、または乾道の和議(一一六四年)。
(*10)
オレがガキのころ
光宗の即位は一一八九年。
趙萬年の生没年および出生地などは一切伝わっていない。ここでは、一一八五年生まれの数え年二十二歳ということにしておく。兄貴分(血縁関係はない)の趙淳は十歳くらい年上のイメージ。
という年齢設定は、筆者が書きやすいからにほかならないのだが。新撰組の沖田総司と近藤勇がそれくらいの年齢差で、沖田は二十代前半に京都で活動していた。荒くれ集団にとりあえず肩書を与えて腕っ節を振るわせるという政策から、新撰組を連想してしまう。
(*11)
韓侂冑(一一五二‐一一〇七)
本文中で趙萬年が言っているとおり、外戚としての影響力だけで朝廷に一派をのさばらせた人物。
触れておきたいのは、朱子学の祖である
(*12)
タコ金征伐
開禧の用兵、または開禧の北伐。金としては、北方のモンゴル系遊牧民に脅威を感じ始めていた折の出来事だった(一二〇六年にチンギス・カンが即位するなど、モンゴル高原が異様に元気)。
この期間の戦闘を全体として見れば、地方軍閥に場当たり的に仕事を丸投げするばかりの南宋側はひたすら弱かった。そんな中で襄陽は非常によく戦ったというべきだ。
ちなみに韓侂冑、和平の条件として首を要求され、部下に殺されて首を刎ねられ、塩漬けにされて北方へ届けられた。斯くして和議は無事に成立。死んだらようやく一応役に立った。自分で撒いた種だから文句は言えまい。
(*13)
唐州や鄧州
唐州は今の河南省唐河県、襄陽より北東に百二十キロほど。鄧州は今の河南省鄧州市、襄陽より北に百キロ。ともに金の領内。
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