cap.8

「石森さん、抑圧された記憶って知ってるかな?」

篠崎さんは私に問う。

不自然にお洒落な事務所に通された私は、この美形の探偵さんと向かい合う形でソファーに座っていた。

「……いいえ。」

「そう。まあ知らなくても無理はない。これはフロイトさんという精神医学界では有名なおじさんが提唱した説でね、簡単にいってしまうと酷いトラウマを経験した場合時としてその記憶を封印してしまうというものなんだ。もちろん、色々な人が異を唱えているんだけど、近年スウェーデンの大学により忘却する際の脳の活動メカニズムが少しだけ判明したらしいんだ。だから僕個人としてはこの説を支持している。人間は忘れなくては生きていけない生き物だ。泥より作られた僕らの体はそう強くはない。……失礼。君にとってはどうでもいい話だったね。ともかく、悲しい記憶を封じ込めてしまう一種のプロテクターは存在するんだ。それが加害者であっても、ね」

嫌な目をしていると思った。私を見ているようで遠くを見ている。眼を視られているようで心を覗かれている。眠いような怒っているような絶望しているような、胡乱な眼。

「だから君の可愛い従姉妹をいびり殺してしまった犯人は、その記憶を封印してしまった。自分が加害者だというのに。彼女はきっとなんの悪気もなく追い詰めていったんだろう。ゲームの敵キャラを倒すように、無邪気な子供が無力な蟻を手で潰していくように、仲間内で盛り上がるために誰かの悪口を言い合ったりするように、ね。子供の無邪気な残虐性とでもいうのかな。やはり性悪説は正しい。」

思わず掴みかかろうとして既のところで堪えた。こいつの協力なしでは私の願いは叶わない。

「……いい判断だ。もっとも、僕は君みたいな女の子にすら負けてしまうくらい

ひ弱で貧弱だから、別に我慢しなくてもいいんだぜ?」

「お兄ちゃん、いじめすぎだって。石森ちゃんが今にも泣きそうじゃない。」

デスクでパソコンをいじっていた事務員さんが話に割り込んでくる。顔が似ているから兄妹かもしれない。

「わかった、わかったよ美希。それで、君は僕に何を望むんだい?」

篠崎さんは私に再び問う。答えなんて分かり切ってるくせに。

私は答える。過去を清算するために。死んでしまったあの娘のために。

霧に包まれた私の未来を切り開くために。

「朝霧灯の破滅を、依頼したいのです」


❇︎    ❇︎    ❇︎

午前2時。

誰もいない駅のホームに、私と彩月は立っていた。

初めてキスをした思い出の場所。まさかこんな形で再び訪れることになるとは思いもしなかった。

二人とも制服姿だった。シンパシーとかいうものだろうか。ぼんやりと考える。

静かに彩月は語り出す。何かを押し殺すように。

「灯、私ね、あなたのこと最初から知ってたんだ。あなたがしたことも、忘れてしまったことも。」

頭痛がする。記憶の底に沈めていた嫌なモノが迫り上がってくる。

「さっちゃんはいい娘だった。何も知らなかった。無邪気だった優しかった可愛かった。おばさん夫婦に大切に育てられて、すくすく育った。中学生になったら私と一緒にバスケがしたいって笑ってた。なのに」

彩月の頰に一筋の涙。なんて、なんて美しいんだろう。

「あなたは殺した。バスケ部の後輩だったさっちゃんを、レギュラーの座を奪われたという理由だけであなたはいびり殺した。自分では何もせずに周りのクラスメイトに命じて、たくさん酷いことをさせた。死体になってしまったさっちゃんを見たときのみんなの悲しみがあなたにわかる?殺したくせに忘れるなんて、私は絶対に許さない」

絶叫する彩月を見て、私はひどく冷静だった。何もない無の感情。

「それで私に近づいてきたのね。……好きだったのに。あなたが佐沼と付き合いだしたって聞いたときは、本当にどうにかなりそうだった」

「自分がいじめてた男子生徒の名前くらい覚えてなさい。」

「そうね。私ったら非道い女。……ごめん、ごめんね彩月。でも許してほしい。好きなの。あなたが。」

これだけは本心だ。心の底から好き。たとえ復讐のために私と付き合っていたのだとしても。

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