cap.5


……夢を見た。

目の前に散らばる消しゴムとシャーペンと文房具箱。

汚された体操着に、落書きで真っ黒の教科書。

女の子の泣き声と、下卑た複数の笑い声。

ぐしゃぐしゃになった可愛い顔と、笑っている友達と笑ってない私。

夕暮れのオレンジと、時間が止まってしまったような教室。

なんでだろう。

愛しいあの人を、思い出した。


❇    ❇    ❇


酷い頭痛がした。

枕元の時計を見る。午前2時。

私は少しの間ぼうとした後、水を飲むために二階のキッチンへ向かった。

最近、嫌な夢をよく見る。

可愛い女の子を数人でいじめている夢だ。場面は決まって夕暮れの教室。

持ち物を壊したり、バケツ一杯の水を頭からかぶせたり、体操着をビリビリに破いたり……陰惨で典型的ないじめのワンシーン。主犯は、やはり決まって私。

周りの友達はサディスティックに笑っているのだけれど、主犯たる私の心は何故だか何も感じていないのだ。

嬉しくもなく悲しくもなく、ただひたすら無の状態。

土を這う虫を眺めるような、嫌悪にも似た起伏のない感情。

泣いている女の子の顔にある人の面影を見て、夢は終わる。

そして酷い頭痛で目が醒めるのだ。

何故あんな夢を見るのだろう。

誰かをいじめた経験なんて、ないというのに。


コップの中の水を飲み干し、また少しの間ぼうとする。

恋しいあの人の顔が脳裏に浮かぶ。

かっこよくて、凛々しくて、誰よりも女の子らしい、あの人。

どうしようもない私の存在を、欠けている部分を満たしてくれる大切な存在。

あの人がいないと、私は。

また頭痛がした。

寄せては返す波のような鈍い痛み。

私は、誰かに助けて欲しいのかもしれない。

ぼんやりする頭の中で、そう思った。

❇︎    ❇︎    ❇︎  

「結局さ、VBRとCBRの決定的な差はなんなのかな、兄さん」

「そうだねぇ、CBRは固定ビットレートだから、無劣化の音楽ファイルを最高音質である320kbに設定して変換した場合、無音の状態であろうと音が出ている場合であろうとビットレートが割り当てられるから、言ってしまえばすべての音が最高音質である代わりに起伏のないファイルになるだろうね。もちろん、ファイルは大きくなっていく。一方VBRは可変ビットレート。だから無音の状態にはビットレートを割り当てず、音が出ている部分にだけ余っているビットレートを割り当てられるんだ。だからCBRと比べればファイルサイズは小さい。無劣化のファイル一曲分を10メガバイト程度に収めようとした場合、VBRの方がCBRよりも音質がいいというのが一般的だ。もちろん聞こえ方には個人差があるし、僕もどちらかというとVBRよりもCBRの方が臨場感あって好きだよ。」

なかなかマニアックな会話だ、我ながらそう思う。

会話の相手は篠崎美記。僕の妹だ。

6歳下で、訳あって大学中退、その後臨時職員として働いている。

……臨時職員とは名ばかりで、実際は気が向いた時に働いているだけだ。

デスクに置いてある僕のMacに別アカウントを勝手に作り、ネットサーフィンをするのが日々の日課だ。要するにニートである。

容姿しか褒めるところがない。

「兄さん、syaaに新しいEACファイルが上がってるんだけどどれがいいかな?」

こいつ最悪だ。堂々とtorrentサイトで違法ダウンロードすることを宣言してやがる。

「買えよ割れ厨。お前みたいなやつのせいで音楽業界は後退していくんだ」

「何言ってのさ兄さん。クソみたいな商業主義と売れるものしか作らないアンチクリエイター精神が勝手に後退させてるだけでしょ。AなんとかBとかさ」

はあ。返事の代わりにため息をひとつ。

ちなみにEACとはExtra Audio Copyの略で、日本語に訳すと無劣化複製。lossless copyとも表記される。

さっきはダウンロードした無劣化ファイルをVBRかCBR、どちらの方法でエンコードするか話し合っていたのだ。

ちなみにこの知識、生きていく上で全く役に立たない。

「ところで兄さん。あの女の子の依頼、本当に受けるの?」

「ああ、もちろんだ。何か不満かい?」

「だって兄さん、ああ言うお涙頂戴案件は絶対に受けないじゃん。なんでかなっと思ってさ。……ああ、もしかして」

「邪推はやめろよ美記。別にお代以外のものは要求しちゃいない。分割払いで頂くからあの子にも払える」

「……払えるなら、でしょ?」

本当に嫌なやつだ。解雇してしまおうか。ほとんど働かないくせにそこらのサラリーマンより貰ってるし。

「ごめんごめん兄さん。そんな怖い顔しないでよ。冗談だって。」

「口は禍のもと、好奇心は猫をも殺す、過ぎたるは猶及ばざるが如し、だぞ」

「佳人薄命も付け足しておいてよ」

そう言ってウィンクをひとつ。本当、顔だけはいい。

「軽口はそれぐらいにしろよ。……それより、例のアカウントは準備できたか?」

「当たり前だよ兄さん。足のつかないTwitterアカウント3個に、他人の電話番号で作ったLINEアカウント3個。どれも現実のコミュニティーに完全に根付いてるものばかりだよ。誰も中の人の不在を疑っていない、ね」

「そうか。ありがとう」

なんの感慨もなく、ぼんやりとした高揚を覚える。

現在時刻は午後6時。クーラーが効いた事務所の中で、僕と無関係に進む窓の景色に目を移す。

夕焼けと車とスーツ姿の人形。僕らはきっと彼らにはなれないが、けれど彼らも僕らにはなれない。

当たり前の不透明等式。

当たり前に進む人生という名の過去の堆積。

テレビはやはりどうでもいいニュースを読み上げていた。

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