cap.3
❇︎ ❇︎ ❇︎
「幸せでした。本当に、本当に好きだったんです。」
なんだか、聞いている僕まで赤くなってしまった。
目に涙を溜めて話す朝霧さんの姿に、あてられてしまったようである。
四捨五入で三十路だというのに。
朝霧さんの話は1時間に及び、テーブルの上のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
カップの中の黒い液体が、僕と朝霧さんの顔を映している。
メモを取るのはこの場合失礼に当たるだろうと判断し、机の端に置いて置くことにした。
「そうでしたか。石森さんと素敵な恋愛をされていたんですね。」
僕の言葉に耐えきれなくなったのか、朝霧さんは下を向いて泣き始めた。
音もなく、静かに。
朝霧さんのスカートにはらはらと落ちる涙が、この上なく清浄なもののように思えた。
これは相談料金の話を出せる雰囲気ではないな。
タダ働きの予感を頭の隅で感じ取る。
「続き、話せますか。コーヒーを入れなおしますね」
2人ぶんのカップを手に取り、ソファーから立ち上がる。
事務所の隅にある流し場に冷めたコーヒーを流し、コーヒーメーカーのスイッチを押す。
外から聞こえる蝉の合唱と、低く唸る空調の機械音。
真夏の午後の容赦ない日差しが、窓から微かに漏れていた。
「……はい。だい……じょうぶ……です。」
途切れながらも返事をしたことに少しだけ安堵し、新しいコーヒーをカップに注ぐ。
この年代の少女は特に傷つきやすい。
少女、それも十代の半ばという年代は、透明であるがゆえに脆く、そして染まりやすい。
世間の不条理さに少しずつ気付き始め、それでもまだ「世界は自分の思い通り」という幻想を捨てきれない、そんな時期。
だから純粋すぎる子供たちは、目の前の現実に耐えきれず心を病んでしまう。
同じように心を痛めた依頼者の対応をしていくうちに、カウンセリングの真似事のような話し方を覚えてしまった。
……誰かの相談役になる資格なんて、ないというのに。
「少しずつでいいから、話してみてくれるかな」
「……そのあと暫く付き合っていたんですけど、7月に入ってから急に、クラスメイトの佐沼くんっていう男子のこと好きになったって言い出して、一方的に別れを切り出されたんです。彩月に嫌われるようなことも一切していませんし、佐沼くんだってパッとしない普通以下の男の子なんですよ」
なんであんなやつと……そう自分に言い聞かせるように呟く朝霧さん。
実際のところ、人間関係において決定的に亀裂が入るような出来事というのは、本人は気づけないものだ。
自分の主観というフィルターを介してでしか人生を歩めない僕たちは、だから他人が嫌だと思っていることには無頓着である場合が多い。
もっとも、朝霧さんみたいな年代の少女にはまだわからないことかもしれないが。
「はい、コーヒー。まだ熱いから気をつけてね。ミルクと砂糖は?」
「両方一つずつお願いします」
「わかった。……はいどうぞ。ところでさ、朝霧さん。君はその佐沼浩一くんと知り合いなのかな?」
ソファーに腰を下ろし、彼女の目をまっすぐに見つめる。
「……え?」
「いやさぁ、社交的で常識的な価値観を持っていそうな朝霧さんが、佐沼浩一くんって子のことを「パッとしない」だとか「あんなやつ」とか評しているのをみて、ちょっと不思議に思ったんだ。いや、自分が交際していた女の子を取られてしまった、という点を鑑みれば不思議じゃないかもしれない。でも「普通以下のやつ」って言ってたよね?少しでもその彼のことを知っていなければ、そういう感想は出てこないかなと思って、さ。小学生か中学生の頃の同級生なのかな?」
「それは。……いや、どうなんでしょう。高校に入ってから知り合った……ううん、中学の頃にもいたような気が、……いや、たとえ同級生だったとしても、あんなやつ覚えてなんかいないと思います。記憶にも残らないような、印象の薄い陰キャラですから」
気付けば彼女は泣き止み、淹れたてのコーヒーをぼんやりと見つめていた。さっきまでのいたいけな雰囲気は消え去り、無表情という仮面が顔に張り付いている。
ビンゴ。
やっぱりか。僕は小さく呟いて、パンと手を鳴らす。
彼女はハッとした後、元の表情に戻った。
「いや、いいんだ朝霧さん。覚えていなければそれで。一応調査をするにあたって、必要な要素かもしれないと思っただけなんだ。」
「そうなんですか。そうですよね、大事なことですよね。すいません、なんだか中学の頃のことを思い出そうとすると、ぼんやりするんです」
「そっか、それは大変だね。医者に診てもらったほうがいいかもしれない。さて、依頼についての詳細をお話しします。」
僕は朝霧さんの依頼を一部、受けることにした。カップルの破局など人が不幸になるような依頼は基本的に受け付けていないということ、今回の場合は佐沼浩一くんと石森彩月さんの関係性を調べ、どうすれば彼女が戻ってくるかというアドバイスに止めるということ、料金設定は高校生ということを配慮して分割払いにするということ等を説明する。
最初は難色を示したものの、最終的にはそれで合意してもらった。相談料金の話は、なんだか気が引けてできなかった。
「ありがとうございました、篠崎さん。よろしくお願いします」
礼儀正しく挨拶をして、朝霧さんは事務所を出る。時計を見てみると午後四時を過ぎたところだった。
眼鏡を外し、ソファーに身を投げる。
考えてみれば、今日は普通に学校があったのではなかろうか。夜な夜なウィスキーを煽り昼頃に起きるという社会人失格な生活をしているから気づかなかったが、今日は普通に平日である。まさかピンポイントで開校記念日だったということもあるまい。ああ見えて朝霧さんはなかなかの不良少女なのかもしれぬ。あの年代の女の子の対応はいささか疲れるぜ。
そんなことを考えて、僕は少しだけ眠ることにした。
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