第6話 大泥棒たちを見送る紅子ちゃんたち

 ほぼ同時に寧華が動いた。

 拳銃を移動させつつ、声を低くして「勝手な真似をするな」と言った。


 拳銃の先端の向こう側を見る。

 むつみがこちらへ歩み寄ってきていた。

 彼は、紅子が震え上がったほど冷たい寧華の視線をものともせず、長い脚で堂々と近づいてきていた。

 歩きながら、自分のデニムのポケットから小さなプラスチックケースを取り出した。

 透明なケースの中には、青いSDカードが納まっていた。

 そこまで見て、紅子は、むつみにソフトの入ったSDカードを預けていたことを思い出した。


 理世が「あら」と呟く。


「アンタが持ってたの」

「紅ちゃんから預かっていたんです。こんなものを持っていたら紅ちゃんが危ない目に遭うのではないかと思いましてね」

「いじらしい判断ね」


 理世は紅子に対して語りかけていた時とはまったく異なる鋭い声で「よこしなさい」と言った。むつみが「はいはい」と言ってSDカードを差し出した。


「1ギガ? またコンパクトにまとめたわね」


 SDカードを眺めて、理世が呟く。むつみはそれを険しい表情で見つめているだけで何も言わなかった。


 理世が、包み込むように優しく、SDカードを握り締めた。

 そして、微笑んだ。


「ありがとう。助かるわ」


 次の時だった。


 急に暗い影が覆いかぶさってきた。


 紅子はただ硬直していた。


 ほんの一瞬のことだった。

 理世の唇が紅子の額に触れた。

 ほんの、それだけのことだった。


 呆然として何も言えずにいる紅子に対して、理世が「じゃーねー」と手を振る。


「おニン、ずらかるわよ」


 寧華が「知道了ヅィーダオラ」と笑った。


 冴が「逃げる気ですか」と怒鳴った。

 直後、寧華は冴に向かって何のためらいもなく発砲した。

 冴は突然のことに悲鳴すら上げられなかった。

 晴太と恵人が悲鳴を上げた。


 銃弾は床を射抜いていた。冴のサンダルの指先から三センチのところに突き刺さった。


 それを皮切りに銃声が三度響いた。

 一発目は冴の左頬をかすめるように飛び壁に穴を開けた。

 二発目は晴太と恵人の間をすり抜けるようにして流し台に穴を開けた。

 三発目はむつみの左腕近く作業台の上に穴を開けた。


 誰の身体にも傷はつけなかったが、寧華が正確に的を絞って威嚇発砲をしたのは明らかだ。

 動いたら殺される。


 玄関の方から「何かあったんですか!?」と問い掛ける複数の声が聞こえてきた。


 理世と寧華が走り出した。


「ご苦労様ーっ!」

再見ザイジエン!」


 明るく笑いながら駆け出す二人の表情は楽しそうでしかなく、もはやここで何が起こったのかさえ忘れてしまいそうだったが、


「――そうはいかせますかっ!」


 二人の姿が厨房どころか食堂からも消えたところで、ようやく冴が動き始めた。やっと走り出した。

 冴の後を追い掛け、むつみと晴太も食堂を出た。

 紅子と恵人も、ようやく動けるようになった足を動かして皆に続いた。


 玄関でまた銃声が響いた。

 辿り着くと、そこで、山岳警備隊の文字の入ったヘルメットをかぶっている青年たちや長野県警の文字の入ったジャケットを着ている青年たちが蝋人形のように固まっていた。


「なに、何事ですか、いったい」


 彼らの問いに答える余裕のある者はない。全員が玄関の扉を出る。


 外に消防隊と書かれた大型車が二台新たに登場して待機していた。すでに車が通過できる状態になっているのだ。


「やられとる」


 晴太が呟いた。

 彼の視線の先を辿ると、消防隊の車両のタイヤが二台とも四つすべてパンクさせられている。寧華が撃ったのだろう。


 ついでに、黒く四角い何かも落ちている。紅子のミリタリーの知識はゲームアイテムとして外観だけを調べた程度のものだが、それでも何となく分かった。寧華はマガジンを装填し直したのだ。この隙に銃弾を最大数まで取り戻した。


 エンジン音が聞こえてきた。

 見ると、もともと止まっていた四台の車のうち一台が急発進していた。


 助手席の窓が開いた。

 顔を出したのは寧華だ。

 彼女は妖艶な美貌に合わない無邪気なあどけない声で「呵呵はは」と笑いながら拳銃を突き出した。

 銃弾が次々と残り三台の車のタイヤに突き刺さる。


 運転席には理世が座っていて、かなり乱暴なハンドルの切り方をしている。「ちょっとおニン、アンタ振り落とすわよ!?」と怒鳴っているが、寧華は気にせず笑って「大丈夫ヨ、アンタとは鍛え方が違うからネ!」と叫ぶようにして答えた。


「まっ、待ちなさいッ!!」


 理世が「待てと言われて待つ奴はいませーん!」と答えた。そして開通したばかりの道へ向かって猛スピードで突っ込んでいった。


 寧華が大きく手を振った。


「楽しかったヨ、また遊んでネ!」


 晴太が「何もおもろないわっ、二度と出てくんなやッ!」と叫んだ。


 土砂で埋まっていた場所で作業を続けている人々がいた。その人たちに対しても、寧華が発砲した。当たりはしなかったようだが、銃声に驚きおびえた人々はそれぞれ悲鳴を上げながら崖に背をつけて道を開けた。


「ばいばいきーん!」


 あっと言う間に、車が遠ざかっていった。


 皆が皆呆然と、何が起きたのか理解できないといった顔をして、突っ立ったままでいる。

 本当に、いったい何だったのだろう。


 最初に状況の概要をつかんで動き出してくれたのは、たった今到着したばかりの方の、長野県警の人々であった。

 責任ある立場だと思われる中年の男性が、「車回せ」「署に連絡しろ」と年若い青年たちに指示し始めた。

 恵人が「ちょっと、冴さん」とたしなめて、冴が初めて「あっ、あ、どうしよう私」と慌て出した。


 警察官たちと消防隊、消防団の面々が冴を囲んで事情を問い詰め始めた頃、むつみと晴太、恵人が、やはり呆然と突っ立ったままでいた紅子の方へ歩み寄ってきた。


「まあ……、とりあえず、紅ちゃんが無事で良かったよ」


 恵人は「何にもできなくてごめん」と肩を落とした。ようやく我に返った紅子は慌てて「しょうがないっすよ」と答えた。


「もうっ、あたしの方が、ぜんぜん、ぜんぜんっ、何が起こってんのか分かんなくてどうしようって感じでしたし!」


 晴太が「冴さんもそんな感じやったな」と呟く。むつみも「あの人本当に警察官なんだよね、大丈夫だよね」と囁くように言う。恵人が溜息をついた。


「理世に渡ってしもうたなぁ」


 晴太の言葉で、紅子は綾乃のSDカードを思い出した。

 はたして本当に良かったのだろうか。

 冴辺りに聞けば、彼女としては不本意だろうが、紅子自身の身の安全を優先すべきだったと慰めてくれるに違いない。そう思うと、紅子が頷こうが頷くまいが、むつみは理世にSDカードを差し出していたかもしれない。

 そう、考えていたところだった。


「渡ってないよ」


 あっけらかんとした声で、むつみが言った。

 三人の視線が、むつみに集中した。


 むつみが、「だから、渡してないよ」と、繰り返した。


「……え、えっ?」


 混乱する三人を前にして、むつみがジーンズのポケットに手を突っ込む。厨房でSDカードのケースを取り出したのとは反対側のポケットだ。

 ややして、まったく同じ形、よく似た色の、SDカードが出てきた。


「……どうなってん?」


 晴太の問い掛けに、むつみが微笑んだ。


「理世には、僕が作ったお気に入りMAD動画集をプレゼントしました」


 晴太が噴き出した。恵人がまた呆れ返った溜息をついた。むつみは明るい声で笑った。


「ほんとノンくんはっ、殺されても知らないよ!?」

「いや、ええやろ。めっちゃノンらしいわ、さすが!」

「理世、楽しんでくれるといいなぁ」

「そんなわけがありますか」

「気づいたらめっちゃキレると思うで」


 「まあいいでしょう、危険は去ったんです」と、むつみが締めくくった。

 そして、何も言わずに、紅子の手首をつかんだ。

 紅子の手首を持ち上げて、紅子の力なく開かれたままだった手の平にSDカードを押しつけて、強引に握らせて――


「さて、後はおまわりさんたちに任せて、僕らは一回中に戻りましょうか」


 大きく伸びをしたむつみに、他二人が「そうだね」「賛成」と同意した。


「さすがに、あのままの慎悟さんを一人放っておくわけにはいかないし、ね」

「あかん、理世と寧華のインパクトがでか過ぎて忘れとった」

「うう、悔しいけど、右に同じく……」


 晴太と恵人は軽いノリではあったが、紅子は、何も言わなかった。


 手の中のSDカードを、強い力で握り締める。


 自分たちにとってはひとつの終わりだったが、慎悟にとってはひとつの始まりなのかもしれない。


 紅子の胃の辺りに、鉛のように重い何かが残った。

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