第5話 理世と紅子ちゃん
しばらくの間声を発する者はなかった。静寂だけが厨房に重苦しくのしかかっていた。
そんな静寂を打ち破ったのは、意外にも――というより、おそらく誰ひとりこのタイミングで来るのは待っていなかったであろう、救援の掛け声であった。
「すみませーん! 消防の者でーす!」
大きな太い声とともに玄関の扉が開けられる音がする。
「まずい」
むつみが呟いた。
その後ろで恵人が「冴さん早く!」と投げ掛けた。
冴はなぜ今名前を呼ばれたのか分からなかったようで、「えっ」と呟いたきり動きを止めてしまった。
寧華が拳銃を構え直した。銃口で一同を舐め回すように構えた上体を動かした。
「動くな」
晴太が慌てた顔で両手を上げる。
紅子も晴太同様こわごわと両手を上げた。生まれて初めて銃口というものを向けられた。血の気が引くのを感じる。
理世が歩き出した。その足取りは堂々としていて何ら悪びれない。
理世が紅子の方へ向かってくる。
寧華もまた歩き出した。拳銃はそのままに、理世の傍へ控えるようにしてついてくる。
紅子はなぜ自分がターゲットになっているのか分からず、頭の中が真っ白になるのだけを感じていた。何が起ころうとしているのか、何の想像もつかなかった。
理世が紅子の一歩手前で立ち止まり、微笑んだ。
「紅子ちゃん」
返事ができずにいる紅子へ、「そんな怖がらないでよ、アタシと紅子ちゃんの仲でしょ」と訴える。その声は優しそうですらある。
「紅子ちゃん、あやちゃんから預かったものがあるんじゃないかしら」
理世が一人腕組みをする。余裕に満ちた笑みで紅子を威圧する。
「アタシの脳味噌の代わりになるソフト。あやちゃん、完成した、オフ会に持ってくる、って言ってくれてたのね。ついでに、紅子ちゃんにも見せてあげたい、って。紅子ちゃんとアタシと三人で動作確認をしてから、納品してくれることになってたのよ」
「教えてちょうだい」と依頼する言葉が、命令にしか聞こえない。
「アタシの頭の『箱庭』をどうしたのか、紅子ちゃんなら、あやちゃんから、聞いているのよね?」
必死で考えた。理世が何を言わんとしているのか、意味を理解しようとした。
ソフト。
完成した。
動作確認。
納品。
『箱庭』。
"Miniture Garden"。
「あっ」
マスキングテープとともに渡されたSDカードの存在を思い出した。綾乃の部屋で、むつみと二人で中身を見て、用途が分からずに閉じたものだ。
あのソフトは本当に理世だけが使い道を知っているソフトだったのだ。
理世が「その顔は知っている顔ね」と指摘する。
「それさえ渡してくれれば、アタシはもう、お
理世がそこまで言ってようやく、冴が状況を理解したらしい。紅子の視界の外で動いたようだ。
だが寧華が冴の行動を許さなかった。寧華の銃口が紅子の斜め後ろにいる冴の方を向いた。
それきり、紅子の背後から音が聞こえてくることはなかった。
「それ、は――」
それを手にしたら犯罪に使われる、とか、それを手にしたら逃げられる、とか、考えなかったわけではない。
しかしそんな公共の利益は紅子にとってはおまけの話だ。
「あやが、あたしにくれたものなんですけど……」
理世は満足そうに「紅子ちゃんは可愛いわね」と笑った。その美しい笑みには悪意を感じられなかった。
「でもね、ごめんなさい。それはアタシがあやちゃんと一対一で話し合って作成してもらったものなの。それさえ渡してくれれば、紅子ちゃんにはこれ以上迷惑をかけることはしないわ」
「アタシにとっても紅子ちゃんは可愛いのよ」と、理世は言う。
「紅子ちゃんを困らせる奴はアタシにとっても敵よ。だから安心して。紅子ちゃんが素直にアタシの言うことを聞いてくれるならこれで終わりにする」
「つらい気持ちは分からないでもないの」と、目を細める。
「でも、今回だけはアタシを助けると思って譲歩してほしい。紅子ちゃんは賢いから、これが紅子ちゃんにとって実害のある話じゃないってこと、分かってくれるわね?」
紅子は考えた。
相手は犯罪者だ。
警察官の前でもいけしゃあしゃあと自分の目的を遂げようとする。この日本社会で拳銃を所持する女性と結婚生活を営んでいても何の罪の意識を感じない。他者の尊厳を踏みにじり、嘲笑う。
許してはならない存在だ。
そうと分かっているのに――
紅子は、頷いた。
頷いてしまった。
使い道のないソフトを持っていても仕方がない。
しかも悪事に用いられる予定だった不吉なソフトなどウイルスと一緒だ、自分のパソコンで起動することはないだろう。
譲りさえすれば、この場から解放される。
寧華の拳銃の銃口が自分に向かって火を噴くこともない。思っていたより寧華は理世に従順であるように見えた。理世が迷惑はかけないと言っている以上寧華も紅子に危害を加えることはないと思える。
それに、何より――紅子が、綾乃から自分が貰ったものだと主張した時に、理世が見せた笑顔には、なぜか悪意を感じられなかったのだ。
理世は紅子には優しいのだ。
目の前にあるものを信じる。
自分を信じてくれなかった綾乃より、今目の前で自分と対話している理世を信じる。
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