第3話 真相を聞く紅子ちゃん 1

 寧華と慎悟の間で仁王立ちになった者があった。

 むつみだ。


 寧華の唇の端が下がった。


「私の邪魔をする気か」


 「退け」とすごんだ寧華の前で首を横に振る。


「あなたにとっては余計なお世話かもしれないけど、この件はあなたの労力に見合う話ではありません」

「余計なお世話だ。私にとって日本人の一人や二人大した数ではない」


 後ろから「寧華」と呼ぶ声が響く。


「ストップ」


 寧華が振り向いて「理世」と呟く。彼女が目を少し大きく開いて驚いた顔をしているのが逆に現実離れしているように感じる。


「ノンの言うとおりよ。おやめ。わざわざオマワリやこどものいる前でやらなきゃならないことじゃない、弾を無駄にしないこと。戻って、アタシの隣にいて」


 理世の指示を聞き、寧華が舌打ちしながら銃口を下ろした。なおも慎悟を睨みつけたまま、一歩ずつ後ずさるようにして理世の傍へ戻る。


 慎悟の右手が、血に染まった包丁へ伸ばされた。けれどその動きにスピード感はない。震えてしまっていて握ることさえできるのか疑わしい。


 むつみが包丁を蹴り飛ばした。包丁は二、三メートルほど床を滑っていき最後は壁に衝突して止まった。


「どうして邪魔をするんだ」


 慎悟がうめくように言う。


「そいつのせいで綾乃は死んだんだ」


 まるで呪いの呪文のようだった。


「あんな奴、何の反省の色もない、こんな風にひとを侮辱して、辱めて踏みにじってへらへら笑っていられる、あんな奴なんか、」

「そうですね」


 むつみは慎悟の言葉を簡単に肯定した。


「だからこそ、無駄ですよ」

「あんたに何が分かるッ!」

「分かりませんよ。理解できません」


 むつみの声は淡々としている。


「こんな状況に陥ってもまだへらへら笑っていられる理世も、だからと言って殺してしまおうと思えるあなたのことも、僕にはまったく理解できません」


 「ただ一つだけ確実に言えるのは」と、彼は冷めた目で言った。


「分かり合う気がないなら、関わり合うだけ無駄、ということです。僕はそんな、無駄で不毛でエネルギーを消費するだけの現場に、こんな大勢の人間が関与し続けていることを、膨大な浪費だと考えているので。間に入らせていただいて、とっとと話を済ませたいと思いました」


 賛同したのは理世だった。「ありがたいわ、さすがノン、賢い子ね」と微笑む。むつみは理世の顔を見ることもなく「理世に褒められたって何にも嬉しくないですけどね」と返した。


「どう……いう、」


 引きつった表情のままの恵人が言う。緊張のあまりか声が言葉らしくならない。


 それを皮切りに時が動き出した。

 状況についていけていなかった面々が、それぞれに「何やこれ」「どういうことですか」と騒ぎ出した。


 紅子の脳味噌も動き出した。


 あの慎悟が――《ぁゃ》の兄でありずっとここでの滞在をサポートしてきていた慎悟が、血を流しながら呪いの言葉を喚き散らしている。


「そいつは社会のゴミだ! そんな奴を生かしておいたらまた被害者が出るんだ、さっさと殺した方がよっぽど社会のためなんだ!」


 むつみはあくまで冷静だ。「そうでしょうね、そうでしょうとも、僕もそう思っていますよ理世に関しては」と言っている。


「こいつがいなかったら綾乃は死ななかった」

「何人殺してもあやさんは生き返りませんよ。それに復讐は法で認められてません」

「法律なんてどうせ守ってくれない」


 そう、慎悟の言うとおりだ。

 綾乃は法律を信じなかった。だから法律に守ってもらえなかった。

 綾乃は誰も信じなかった。だから誰にも守ってもらえなかった。


「それは使い方次第の――」


 冴が途中まで言い掛けたのを、紅子は遮った。


「何も守ろうとしなかったあやが何かに守ってもらえるとは思えないです」


 慎悟が目を丸く見開いた。


 紅子の頬を、また、生温い液体が伝った。


「生き返りたくないと思うんすよ。この世界は、あやにとって、面白くも何ともないことばかりの世界だったから。殺すだけ、無駄です。あやのためにはならないです」


 慎悟はまだ「でも……でも……」と何かを言い掛けてはいるが、その瞳はあちらこちらをさまよっており、焦点が合っていない。動きも極端に鈍くなり、最後は床に膝をついてしまった。


「『何人殺しても』、って」


 恵人が震える声で言う。


「もしかして、ロキを殺したのは、慎悟さん……?」


 恵人の質問に答えたのはむつみだ。


「そうです」


 慎悟は何も言わなかった。


「ロキを殴り倒す時に灰皿を使ったのが失敗でしたね。飛び散った灰や吸殻を片付けるのに掃除機をかけていたら、ねぇ。ただの宿泊客である僕らでは誰もこの建物のどこに掃除機があるかなんて分からないじゃないですか」


 晴太が「確かに」と納得の声を上げた。


「ロキが自分で慎悟さんを部屋に入れたのかもしれませんけど、慎悟さんなら最悪部屋のマスターキーを持っていますし。おまけにあの血の海を作るのに使った包丁だって、」


 壁にぶつかって沈黙した包丁を指す。


「それをここから持ち出して、使って、洗って、何食わぬ顔でここに戻していたら――と考えます、と。まあ、その日来たばかりの僕らにはできない芸当ですよね」


 その包丁で朝食を作っていた恵人が、顔面蒼白になって口元を押さえた。


「ロキだって、慎悟さんをただの手伝いだと思っていたなら、慎悟さんに灰皿を借りられないか訊いていたかもしれませんしね。で、慎悟さんがあやさんから、P2で煙草を吸うのはロキだけだ、と聞かされていたら、慎悟さんにはロキだけは一発でロキだと分かるという仕組みだ」


「そうだ、あの男」


 慎悟が血走った眼で言う。


「綾乃を殺しておきながら、よくも平気でここまで……! それで能天気に灰皿はないかと聞いてきて、他の連中には内緒でって、馬鹿じゃないのかと」

「馬鹿ですよ、本当に」


 慎悟の言葉に反応して、紅子が繰り返した。


「綾乃を殺しておきながら……?」


 紅子に視線が集まる。


「あや、ロキに、殺されたんすか。ロキが、あやを殺したんすか」


 慎悟は吐き捨てた。


「そうだ、あの男のせいで」


 つい先ほどまでの慎悟は、紅子にとっては優しい兄代わりだった。

 今そこにいるのは、復讐心に取り憑かれた得体の知れない怪人だ。


「綾乃さんはロキに――平野清正に殺害されたんです?」


 むつみの問い掛けに、慎悟が「そんなようなもんだ」と答える。

 「そんなようなもんって何や」と鋭く投げつけたのは晴太だ。


「あやは誰にかは分からんけどこの中の誰かに殺されたっちゅう話やなかったんけ」


 慎悟が初めてうつむき、視線を下に落とした。

 「仕方なかったんだ」と呟いたのは、自分に言い聞かせるためだったのだろうか。


「綾乃さんは――いったい――」


 冴にまで問われて、慎悟が重い口を開いた。


「――本当は。本当に、自殺、したんです」

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