第2話 《Lise》というひと 2

 晴太が「からだのあいしょう」という部分を拾ってしまいむつみに頭を叩かれた。

 けれど理世はわざわざ「それよ」と晴太を指差した。


「実は昨日大ウソついちゃったんだけど」

「理世の場合昨日だけじゃないでしょ」

「恵人はお黙り。アタシとおニンだけは、実はロキが殺された時のアリバイがあるのよ」


 「えっ」と呟いた冴に対して、「アンタたち二人で口裏合わせてるんでしょって言われちゃったら返す言葉もないけど」と前置きしてから言う。


「アタシたち、解散してから夜中の二時過ぎくらいまでずっと一緒にいたもの」

「二人で何を――」

「何をって、セックス」


 絶句した一同の空気を気にせず、寧華が「生理前はしたくなるから」と真顔で主張した。理世が「おかげで爆睡しちゃったじゃない」と一人腕組みをする。


「ずっとおニンの部屋から出してもらえなかったのよ。だから、自分の隣の部屋で何が起きてたかーなんてぜぇんぜん分かんないわ。犯行の真っ最中に自分の部屋にいたら何か聞こえたかもしれないのに、残念。搾り取られて疲れ切って三時くらいから翌朝おニンに叩き起こされるまで熟睡してた」


 「そういうことだったのか」と納得した様子を見せたのはむつみだけだ。「だからそんな野暮なこと訊かないでって言ったじゃない?」と理世が口を尖らせる。


「このに及んでそんなことしてたの」


 恵人が深い溜息をつく。理世が「アンタに言われる筋合いはないわね」と切り返す。


「アンタは今回一人だったからおとなしくしてただけでしょ。遊び相手になってくれる手頃な男がいなかっただけでしょうよ」


 理世の言葉に、恵人が両目を見開いた。


「可哀想なケイティ。アタシがおニンとばっかり遊んでて最近アンタと遊んであげれてないから拗ねてるのかしら」

「理世……っ」


 理世が笑う。わらう。わらう。


「ロキは誘わなかったの? 煙草を吸う男は好みじゃないんだっけ?」

「何を言って――」

「それとも本当に『更生』しちゃったの? つまんないわ、旦那に操立てしてモノガミーだなんて。昔は毎晩キメキメでパーティしてたのになあ」


 恵人の顔から血の気が引いていくのが目で見ていても分かる。理世はなおも続ける。


「ねえ恵人、アタシに話って結局何だったの? アンタが新宿二丁目で一番華やかだった頃のことを口止めしたいっていう話を蒸し返したかったの?」

「やめ――」

「アタシの脳味噌からアンタの痴態を消すことなんてできないのよ、それはアンタが一番よく分かってることじゃない」

「理世」

「だいたい恥じることなんか何にもないわ。理解のないアンタの今の旦那が面倒臭いの。いいじゃない、またいつでも誘ってちょうだいよ、寧華が中国に帰ってる間は愛人にしてあげる」


 高笑いをした理世の隣で、寧華が「寂しいネ」と呟く。


「私は三人でもOKヨ」


 理世が「こいつはダメよ」と断言した。


「女がいたらまるっきりたないから」


 作業台の上で拳を握り締め、恵人が黙った。拳が震えている。見開かれた両目も血走っている。言葉は出ないようだった。


 何も言えずにいる恵人に代わって「いい加減にしなさい」と怒鳴ったのは冴だ。


「あっ、あなた、こんな風にひとを侮辱して……っ、こんなことが許されると思ってるんですか!?」

「侮辱?」


 理世はなおも笑い続けた。


「これが侮辱だって? 笑っちゃうわね。アタシからすると日常茶飯事の、当たり前の生活、当たり前の行為が、冴ちゃんからすると侮辱に相当するのね。それこそ差別なんじゃないかしら?」

「どういう意味ですか」

「多様性よ、多様性」


 理世が両手を広げる。


「生きていくために何が必要かってひとによって違うの」


 冴が「生きていくために必要?」と繰り返すと、理世は「冴ちゃんには必要なかったのかもしれないけど」と返した。


「この世には冴ちゃんみたいなエリートには分からない落伍者の世界があるのよ。アタシはその世界のシステムを理解しているだけ。その世界の隙間を縫うようにひらひら飛び回っているだけなの。そういう生き方もあるんだってことを、たまには、表の社会の連中に思い知らせてやったっていいじゃない」


 その、次の時だった。


 突然、小さな戸の開閉する音がした。


 銀色の何かが鈍く光った。


 一番反応が早かったのはむつみだ。

 彼はまるでこうなることを予測していたかのように駆け出した。


 恵人もほぼ同時に動いたが、彼の場合はそれを目の前で見て本能的に危険を察知し反射で身を引いただけだ。流し台に背中を向けたまま手をついて道を開けた。


 恵人が退いたことで空いた空間に暗い光の線が走った。


 刃が空気を裂いた。

 包丁の刃だ。


 むつみがその刃に辿り着く前に、動いた者があった。

 寧華だ。

 彼女はロングスカートの大胆なスリットに手を差し入れると、ガーターベルトとともに腿へ取り付けられていたホルダーから何かを取り出した。

 赤いマニキュアの塗られた寧華の白い手には似つかわしくない、黒く無骨な色の、しかし小型で今彼女が取り出さなかったら誰も存在に気づかなかったであろう――拳銃だ。


「殺してやるッ!!」


 包丁が宙を切ってからその叫びが放たれるまで、コンマ数秒のことだっただろう。現に、紅子と晴太どころか、冴や理世までその場に突っ立ったまま何もできずにその瞬間を過ごした。


 寧華が引き金を引いた。

 小さな銃声が厨房に響いた。


 包丁のを握り締めていた手の甲から、赤い血液が噴出した。


 包丁が床に転がった。


 同時に叫び声が上がった。その叫びはことばにはなっていない、手を撃ち抜かれた痛みに対して反射的に出た咆哮だ。


「本性を出してきたネ」


 寧華が言う。


「私の前で理世に勝手なことをする奴は許さないヨ」


 拳銃を握り締めたまま、静かに、静かに、一歩ずつ歩み寄る。

 その瞳は読めない。紅子には寧華に感情があるように思えない。


 拳銃というものを初めて見た。

 拳銃というものを人間に向けて平気な顔をしていられる者というものも初めて見た。


 平気な顔を、感情のない目を、向けられている慎悟の、憎悪と嫌悪と恐怖と恐懼がないぜになった赤黒い顔も、紅子は、初めて見た。


 慎悟が、流血を続け震える左手を右手で押さえたまま、寧華を見上げ、睨みつけている。

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