第1話 《Lise》というひと 1

 《Lise》はもはや左手を隠していなかった。

 《Lise》の左の手の甲には大きな赤いはねの蝶が彫られていた。一瞬赤い痣かと思ったが、翅の紋様は確かに蝶だ。紅子の目にも淫靡に見える。


「お待たせ。皆さんお待ちかねの《Lise》よ」


 彼は、ドアにもたれかかりつつ、昨日までの口調とは一転して――しかし《P2》のメンバーにとっては《Lise》の口調として慣れ親しんだ言葉遣いで、流暢に喋り出した。


「何人かはお気づきだったみたいだけど、アタシを名指しで吊るし上げるの勇気いるでしょ? そろそろタイムリミットみたいだし、ケイティも我慢できなくなっちゃったみたいだし、これ以上お互いに顔色を窺ってギスギスするのも嫌だから、アタシの方から最後のご挨拶にお伺いすることにしたわ」


 形の良い唇を尖らせる。


「みんな酷いわぁ、アタシはただただ純粋に温泉でだらだらしながらみんなとお酒を飲みたいだけだったのに。なぁんでそんなにアタシのこと信用してくれないのよ」


 隣で《ニンファ》が「普段の行ないでしょう」と笑う。《Lise》が「失礼しちゃうわね」と眉間に皺を寄せる。


 厨房の奥の方にいた冴が動き出した。よほど慌てたのか一度作業台に衝突して派手な音を立て脇腹を押さえてうめいたが――その上よりによって《Lise》に「あらヤダ痛そうな音、大丈夫?」と声を掛けられてしまったが――冴はめげずに《Lise》を睨みつけた。


「あなたがリセだったんですね……!」

「おっそーい! アタシ、ずーっと冴ちゃんのこと待ってたのにぃ! 泥棒稼業を始めて以来ずーっとインターポールのとっつぁんみたいなのに追い掛けられるの憧れてたのよ? でも冴ちゃんじゃちょっと不安~!」

「何ふざけたことを言ってるんですかっ! あなたのせいでどれほどのひとがつらい思いをしたと思って……っ、殺人事件まで起こしてっ」

「それよ。そこのところはっきりさせないでこのまま解散しちゃったら、アタシ殺人で指名手配されちゃうじゃない。今のうちにはっきりさせておかなきゃ」


 《Lise》が片目を閉じ、ウインクをした。


「ね、ノン?」


 嫌々ながらもウインクを受け取ったと思われるむつみが、頬をひきつらせつつ「ええ」と頷いた。


「コロシはアタシのポリシーに反するわ。ソレはアタシの仕事じゃない。ましてロキは運動不足の社畜と言えども成人男性よ? 仮に殺したくなったってアタシの細腕で殺すのは不安でしょうが」


 「至極しごくごもっとも」と呟いたのは、悔しそうな顔をした恵人だ。


「やり口が理世じゃないと思ったんだ。理世なら殺人なんて途方もない労力割いてまで何かをやり遂げようとはしないだろうな、って」

「あらヤダケイティ、アタシのことそんなに高評価してくれてるの」

「やるなら寧華だろうな、とも思った。けど、それこそだよ。寧華なら、もっときれいにやるよね?」


 恵人と《ニンファ》の目が合った。恵人の表情は固く強張ったままだが、《ニンファ》は真っ赤な口紅の唇の端を持ち上げて妖艶に微笑んでいる。


「ついてこれてない子たちがいるみたいね。一から自己紹介をしてあげましょうか」


 紅子や晴太、冴や慎悟を順繰りに見て、《Lise》が漫然と笑んだ。


「アタシの名前は上条かみじょう理世りせ。『世界を理解する』と書いてリセというの、素敵だと思わない?」


 冴がいつになく鋭い声で「その偽名は聞き飽きましたよ」と言う。《Lise》――理世が「やだ、怖い顔しないで」と応じる。


「アタシにとってはアタシの本名は上条理世であってるの。ただ残念ながら日本の戸籍にその氏名で該当する人物はいないわ。この名前はアタシの産みのママがつけてくれた名前なんだけど、ママはアタシを産んだ時出生届を出すっていうアタマがなかったみたいでね。おかげでアタシは今の戸籍上の親と養子縁組をするまでいわゆる無戸籍児だった」


 語る理世の様子は楽しげで誇らしげですらある。


「アタシが社会に認知された時アタシはもう十四歳だったの。おかげで義務教育はまったく受けていないわ。もちろん高校やその後も、学歴という学歴がなぁんにも」


 そして冴に向かって指を振り、「戸籍上の名前は戸籍上のパパとママがくれたぜんぜん違う名前よ、ぜひとも探してちょうだい」と告げた。冴はそれを聞いて下唇を噛んだ。理世が高笑いをする。


「職業は、そうね、情報専門の大泥棒、ということにしておこうかしら。お金さえくれれば、どこからどんな情報でも持ってくる。どんな情報でも売りさばく情報屋、というのが売り文句よ。あ、アタシの個人情報以外ね。まあアタシの個人情報なんて表社会で生きてきた皆さんに比べればすーっくないことこの上ないんだけどね」


 「詳しい業績は冴ちゃんが昨日説明してくれたとおり」と省略する。冴の顔が真っ赤に染まる。


「何が業績ですかっ、犯罪歴じゃないですかっ!」

「冴ちゃんに認めてもらえて光栄だわ。冴ちゃんみたいな新人ちゃんしかマークしてくれてないっていうのはちょっと悲しいけど、その分活動しやすいからチャラよね」


 何かを言い掛けた冴を遮り、《ニンファ》が「そろそろ私の話をしてもいいかな」と壁から体を起こす。


「私はワン寧華ニンフア上海シャンハイ生まれ、上海育ち。『上海で一番有名な王氏』の末子にして長女で、日本での活動の全権を大哥タークオに任されているヨ」


 《ニンファ》――寧華が明言しなかったので、紅子には最初分からなかったが、むつみが「理世の最大の取引先なんですね」と言ったことで頭の中に雷鳴が轟いた。


「ご明察」


 「今のところ理世の蓄積している情報より稼げるものはないネ」と微笑む寧華の表情は美しい。


「最終的には私が理世の脳味噌の全部を買ってあげようと思っているヨ」


 理世は能天気にも「やっだ、ヤンデレ? 爆買い怖いわぁ」と呟いたが、寧華は動じない。


「麗しい夫婦愛ネー」

「ふうふあい?」

「ああ、アタシたち、夫婦なの」


 冴が「は!?」と叫んだ。晴太も「自分ら結婚しとったんけ!?」と声を裏返す。理世が肩をすくめる。


「おニンが日本の永住権を欲しがってたからあげたのよ。中国と日本を行き来するたびに偽造パスポートや偽造ビザを作り直すの面倒臭そうだったし、ねえ?」

「理世すごい軽いからネ、こんな便利な日本の男はそうそういないと思ってお願いしたヨ。まさかここまで簡単に承諾するとは思っていなかったけど」


 理世は「しょせん紙の上だけの話でしょ~」と言ったので、隣の寧華が「問題ないネ」と頷く。


「お互い束縛は嫌いだし、体の相性も良いし、何より理世の脳味噌に情報を保存したい放題というのが楽、いいお金になるヨ」

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