第2話 厨房に集まったひとびと 1
「それにしても」
むつみが扉の方を見る。
扉の上部にあるガラスの小窓から朝の日光が差し入っている。
「緊急事態もそろそろ終わりかもしれない。紅ちゃん自身のオフライン事情の話をゆっくり聞ける時間、そろそろ作れるかもしれないよ」
小首を傾げて「どういうことっすか?」と問い掛ける。むつみが「案外早かった」と答える。
「道路の向こう側。人がいた。麓の村の消防団や長野県警の救助隊の人たちだと言ってた」
紅子は目を丸くした。
「慎悟さんと冴さんに報告しないと。地元の人たちが、これくらいならよくあることだからあと二、三時間もしないで人間が通れるくらいのスペースは作れると言ってくれているんだ」
「ここから出られるってことすか」
「そういうことだね」
「良かったね紅ちゃん」と、むつみが微笑んだ。
「少なくとも、紅ちゃんはこれで危険からはおさらばだ」
紅子は「でも」と眉尻を垂れた。
「ノンは、リセを捕まえたかったんですよね」
紅子の言葉に肩をすくめる。
「大丈夫」
「ちょっとがっかりじゃないすか」
「うまくいけば捕まえられるかもしれないよ。この、残り二、三時間で」
それを聞いて紅子は笑みを浮かべた。
むつみが「あともうちょっと」と言う。
「昨日の夜オサムさんと少し話をしたんだ。それでオサムさんについてはいくつか確信を持てたけど、最後に――コーヘイさんのことだけは、よく分からないままでね。この朝食の場で全員すっきりさせられたらな、と思っているんだけど」
「コーヘイさんすか」
「オサムさんが言うには、紅ちゃんは昨日あの後ここでコーヘイさんと一対一でお喋りしていたそうだけど。その時のことで、紅ちゃん的に、何か引っ掛かったことはあった? このひと、あのひとじゃないかな、と思うようなことは」
紅子は少し考えた。
コーヘイと話している間紅子は確かに何かを感じていた。誰かと話していた時を思い出すあの感覚だ。しかし自分の気持ちを落ち着けるのでせいいっぱいで、その感覚が何をきっかけに生じた感覚かまでは考えていなかった。
コーヘイは、いったい誰なのだろう。
「悪いひとじゃないと思います」
「それは、そうだね。そうかもしれない。けど、もうちょっと具体的に、たとえば、過去のこんな話をしていたとか、紅ちゃんとしてはこのひとこんなこと言ってるけど本当かなって疑問に思ったとか、何かあった方が嬉しいな」
紅子は手を打った。
「コーヘイさん、ハレのこと『ハル』って呼んでました」
むつみが口を閉ざした。
「コーヘイさんって初期メンバーの誰かなんすよね。なのに、《晴》を『ハル』って読んでるんだ、って思って、ちょっとびっくりしたっす」
「それだ」
「やっぱりあっていたんだ」と、むつみが言った。
「最初から紅ちゃんやあやさんの女の勘を信用しておくべきだったんだ、これだから野郎と二人きりは良くない」
「えっ、何か分かったんすか!?」
「これで全員揃った!」
少年のように目を輝かせたむつみが、紅子の手をつかんで「ありがとう!」と言う。よほど嬉しいらしい。紅子も、彼が何を知ったのか分からなかったが、その表情を見ると何となく満足だ。
「慎悟さんは今どうしているか知ってる?」
「厨房で朝ご飯の準備してますよ」
「分かった、厨房に行って救助の話をして、それから、最後にもう一回温泉に浸かることにするよ」
むつみに「紅ちゃんも温泉に入ったら」と言われて、紅子はようやく、この別荘に来てからずっと従業員用のこじんまりとした浴室を使ってばかりで大浴場を使っていないことに気づいた。これが最後のチャンスかもしれない。
紅子が「はーい」と元気良く返事をすると、むつみが食堂へ向かって駆け出した。
冷蔵庫の前で、慎悟と晴太が溜息をついた。
冷蔵庫の中には、ある程度の食材はある。次の朝食だけでなく、最悪昼食までもつ分量はあった。だが食材一種ずつを見ていくとまとまった数量ではない。
「シズカさん下りてきてくれんかな……」
腹を鳴らしながら、晴太が言う。
「まともに料理できるひと、シズカさんしかおらんねんな、今のとこ。そこだけは本気で尊敬する」
「オレ一人暮らし始めてから食生活あかんくて、普通一人暮らし始めたらサバイバルスキルで料理始めるて聞いたけど」とぼやいた晴太の隣で、慎悟が「僕はそもそも一人暮らしをしたことがないんですよね」とうなだれる。
「料理、できなくはないんですけど、趣味の域というか――たまには親孝行しようと思い立った時とか、母親が留守で綾乃も料理ができないから仕方がなくとか、そんな状態でしたので、難しいことを言われると……」
「慎悟さんほんっまに偉いな……」
後ろから手が伸びてきた。冷蔵庫のドアが閉められた。
突然のことに驚いた慎悟と晴太が振り向くと、コーヘイが苦笑していた。
「開けっ放しにしておくと電気代を喰いますよ」
「あっ、おはようございます……?」
「おはようございます。朝食、作れないんですか?」
「いえ、白米はもう炊飯にセットしてありますし、全員メニューをばらばらにすれば昼までもちそうな気はするんですけど、その、ばらばらにして勝手にとってもらうのはどうなのかな、と思って」
晴太が「セルフにしてしもたら」と提案したが、コーヘイがすぐに「その場合君が一番偏った食事をしそうだからやだな」と顔をしかめた。晴太は素直に「ハイ」と頷いた。
「おはようございます!」という威勢の良い声が響いた。声の主は冴だ。
冴は、意気揚々という言葉の似合う歩き方で厨房に入ってくると、慎悟に「話ができました」と報告した。
慎悟が立ち上がる。
「復旧、できそうですか」
「はい! およそ二時間程度、十時過ぎには開通する予定です。人命の安全確保が最優先なので動ける人から順次救助していきたいとのことですが」
晴太が「とりあえず生きてはる人は全員動けると思うで」と口を挟んだ。冴が「不穏なことは言わないでください」と叱る一方で、慎悟も「一応、皆さん体の方はお元気そうですので、一分一秒を争う必要はなさそうですけど」と言う。
「二時間後まで、オレの胃、待てるやろか。朝飯……」
「あさめし……? 朝食の分、間に合いそうにないんですか?」
「シズカさんがまだ部屋から出られないので、料理のできる方がいなくて……冷蔵庫の中身も、セットで簡単に出せるものはなくなってしまいまして……」
冴はまず「シズカさんの身にも何かが!?」と表情を強張らせた。
慎悟と晴太が顔を見合わせた。
「いえ、反応はあったんですが」
「何か問題が――」
「えーっと――言うてもええんかな……オレこういうのどうなんって思うんやけど……」
「まあ……冴さんは女性ですし、シズカさん自身があんな軽い言い方でしたから、たぶん、いいんだと……、……僕が言いましょうか……」
慎悟が声のトーンを落として説明した。
「その、急に、生理になってしまわれたそうで。片付けと着替えでそれどころじゃない、とおっしゃっていました」
冴は「なるほど、それはそっとしておきましょう」と流した。慎悟と晴太が安堵した表情を見せた。
「冴さん料理まるっきりできんの? 冷蔵庫の中身でちゃっちゃと何や作るとかできん?」
晴太の言葉に、冴がたじろぐ。
「そ。それは、主婦歴の長い方が
「そうやな。冴さんにふるのはあかんかったな」
「う、うう……申し訳ないです……」
三人のやり取りを黙って聞いていたコーヘイが、「こういう状態の冷蔵庫ってどういう状態なんだ」と言い、冷蔵庫を開けた。
コーヘイが中を眺めていたのは、ほんの一、二分だった。彼は「あー、だいたい分かりました」と言って再度ドアを閉めた。
「いいですよ、僕が作ります」
「コーヘイさん、料理、なさるんですか?」
「はい」
コーヘイが、どこかもの悲しげな表情で微笑んだ。
「週六で料理をしてるくらいですから、任せてください」
「お料理、お好きなんですね」
「好き、と言いますか、主夫歴、もう、四年目ですから。それに――本当はきっと、あやちゃんはこうして、僕に作ってもらいたかったんだろうから――」
「約束、守るよ」と、コーヘイが呟き、また、冷蔵庫のドアを開けた。
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