第3話 厨房に集まったひとびと 2

 紅子が髪をドライヤーで乾かし終え厨房に辿り着いた時には、朝食に使用されるすべての食材が銀の作業台の上に並べられていた。


 コーヘイが銀のボウルを抱えている。

 ボウルの中で揺れる卵の黄身は六つしかない。けれど、とき卵にしてから、その中に刻まれた葉野菜を放り込み、掻き混ぜると、かさは倍以上に膨れ上がった。

 菜箸の動き、素早さや切れの良さに、プロフェッショナルという言葉を連想してしまう。


 熱されたフライパンに葉野菜のかたまりが盛られる。

 油で焼かれる音がする。

 料理の音だ。


 ボウルはすぐに洗われ再利用された。まな板の上で細切れになっていた豚肉と小麦粉がえられた。


 左手でフライパンを揺すりつつ、右手で鍋に水を張る。沸騰するのを待っているのだろうか、手元に鰹節の大袋を用意する。


 紅子が自分の隣に大きな影の存在を感じて顔を上げると、むつみがいつの間にか、先ほどとは違うTシャツを着て立っていた。純粋に感心した声で「さすがだ」と呟いていた。


 綺麗な円形に仕上がった卵料理を、まな板の上に置く。

 ほぼ同時と言っていいほどすぐボウルの豚肉をそのままフライパンに並べる。

 沸騰した鍋の湯に鰹節を過剰ではないかと思うほどふんだんに投げ込む。


 全部同時進行だ。紅子には真似できないだろう。


 家庭料理に対する慣れと、マルチタスクに対する慣れ、この二つを完璧に体得していたであろうメンバーは、《P2》にはたった一人しかいない。


 八枚のディッシュプレートが完成した頃、ちょうど、炊飯器が甲高い電子音を鳴らした。


 厨房にいた全員が、黙ってその様子を見守っていた。


 「一気にこんな人数分をさばいたの初めてかも」と呟いてから、コーヘイが顔を上げ、困ったように微笑んだ。


「こんなもので、よろしいでしょうか。自分のキッチンじゃないから、使い勝手が分からなくて、あんまりうまくできなかったけど。彩りも微妙だけど。それなりに食べられるものにはなったとは思う、よ」


 紅子は大きく首を横に振り、笑って言った。


「すごいっすよ! なんだかショーを見てる気分でした。さすが、」


 一瞬だけ、ためらった。けれど、誰もが確信していると紅子も確信できたので、


「ケイト……」


 コーヘイ――《KATE》が、「ありがとう」と苦笑した。


「それから、ごめんなさい」


 「冷めちゃうから、ご飯を盛る前に」と、《KATE》が言う。


「少しだけ、お時間、ください。僕は、みんなに、謝らなきゃ、いけない。ずっと、黙ってたことを。僕が、もっと、しっかりしていたら……、」


 声が、震える。


「ロキだって、……もしかしたら、あやちゃんだって。死なずに、済んだかも、しれないのに。僕が、見捨てた、せいで」


 「本当に、ごめんなさい」と、彼は深く頭を下げた。


「コーヘイさんが、ケイトやったんか」


 晴太がすっとんきょうな声を出す。


「ケイト来とらんもんやとばっかり思っとったわ。誰か、影武者やないけど、またメンバー外の人間がおるんちゃうけと」

「そう――だろうね。ハルくんは、そう思うだろうな、って、ずっと思ってたよ」


 むつみが「『ハレ』なんですよ」と言う。


「こいつ、《晴》と書いて、『ハレ』と読むんです。――という話をした時、ケイトはいなかったんですね」


 「そうだったのか、ごめんごめん」と、彼はまた、困った顔をした。


「僕、旦那が帰ってくるとすぐ落ちちゃって、深夜はあんまりいないでしょ。初期メンバーのくせに、いろんなところで擦れ違ってるから、知らないことだらけだと思う。まして、ハレくんとは、時差があるから……一番話をしたことがないよね」


 それから、暗い目で付け足す。


「旦那が、ものすごい嫌がるんだ。まだ理世なんかと付き合ってんのかよ、って」


 晴太が眉間に深い皺を寄せた。


「なんや……、その。《KATE》って、ほら、向こうやと、女の人の名前やんか。キャサリンとかの愛称で」

「中学の時、それもネタにされていじめられたなぁ」


 晴太が黙った。


「本名なんです。恵人けいと――恵まれた人、と書いて、ケイトと読みます。宮沢みやざわ恵人。字面だけなら、どこからどう見ても男だと思うんだけど――実際親も、宮沢家の長男は代々恵むという文字を入れるもんなんだ、って言って名付けたそうだし」


 「みんな女だと思ってたんだよね」と言う恵人の声が、暗く重い。


「理世や寧華ニンファは最初から知ってたから、僕も何にも気にせずに旦那のことを話してたんだ。最初にいたメンバーもあんまり気にしない人たちだったし……。でも――あんまり死んだ人のことを悪く言いたくないんだけど。ロキがね。かなりのホモフォビアだった」


 紅子の脳内に、清正と恵人のやり取りが鮮明に思い起こされた。

 ――どう責任取る気だこのカマ野郎!

 そう叫んだ清正から、恵人は逃げ出した。


「だから僕は、極力、そのテの話はしないように気をつけてた。でも理世がすごい振ってくるから、どうしてもスルーしきれなくて――変なところを少しずつ伏せていくうちに、新規の子たちにネカマだと思われ始めたな、というのを感じていながらね、何にも、言えなかった」


 「だから踏み込めなかった」と、恵人が自分の額を押さえる。


「あやちゃんが危ない橋を渡っているのも分かってた。どうしても止めなきゃと思って急いでSメを送ったよ。でも僕はスカイプで音声通話できないんだ、男だということがバレたらと思うと怖くて」


 むつみが「そういうことだったんですか」と肩を落とした。恵人はまた「ごめんなさい」と繰り返した。


「ましてあやちゃんは腐女子だったでしょう。旦那とのやり取りを根掘り葉掘り聞かれたらっていう恐怖もあった。こんなことになるならそんなプライド捨ててカムすれば良かったって何度考えたことか」


 綾乃の手紙の文面が、紅子の脳内に、何度も何度も繰り返し流れる。

 綾乃の言うとおりだった。一番追い詰められていたのは恵人だったのだ。


「実は僕も長野出身なんです。もっともっと北、北信州の、本当に小さな村の」


 恵人は早口で「だから夜は寒いと思って長袖を持ってきたんだけど」と言った。


「あの集落ではセクシャルマイノリティとして生きていけなかったんです。僕には両親の期待に応えて結婚して跡継ぎを作るということができない。だから東京に行って自由になろうって、そう思って、長野の何もかもを捨ててここまで来たのに――」

「皮肉なものよねぇ」


 まったく新たな声が割り込んできた。


 厨房の中の空気が凍りつくのを、紅子は肌で感じ取った。寒気がした。


 紅子とむつみが一、二歩ほど恵人の方へ歩み寄ったために、厨房と食堂をつなぐ出入り口のところに人間が入り込める程度のスペースができていた。

 そこに、二人分の影が新たに登場していた。


 紅子もむつみも、それぞれ左右に退いた。

 二人の方もまた、それぞれ、出入り口の右側と左側を陣取り、阿吽の像のように立っていた。


 そして、笑っていた。


「アイヤー、ごめんヨ。結局恵人が全部作ってくれたか、何にも手伝えなかったネ。美味しそうネ、さすが毎日だーりんのために作っている人の手料理は違うネー」


 シズカが――《ニンファ》が、笑っていた。


「恵人の人生ってホントにカワイソウ。あれだけ嫌いって言ってた長野でいまさらこんなことを言わされてるんだものね。ま、あやちゃんが長野って言い出した時脊髄反射でおっけーって言っちゃったの他ならぬアタシなんだけどー! どう? 数年ぶりの長野は~!」


 オサムが――《Lise》が、笑っていた。


 全員集合だ。

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