第1話 むつみお兄さんと仲直りをする紅子ちゃん
紅子は決心して自室のドアを開けた。
目の前のことを信じようと思った。
この二日間ともに過ごしたむつみを信じ続ける。
コーヘイの言うとおりだ。
《NONE》は誰を信じたらいいのか分からなかったのだろう。彼はまだ入って三ヶ月弱で、誰がどんな人間なのか把握できていなかった。自分の情報もほとんど開示していなかった。唯一スカイプで通話したことのある《晴》でさえ、ここに来て最初に話し掛けたわけではなかった。
そんな中唯一の
同時に――自分はむつみに流され過ぎていた。もっと逆らって抗って歯向かって意見を戦わせても良かったはずだ。
自分は《NONE》の知らないメンバーの情報を知っている。メンバーのことばを見ている。自分は自分なりの手札を眺めて信じる情報を選別していた――結局のところすべてを信じてしまっていたところは反省すべきところだが、むつみに真っ向から否定されてなお受け入れる必要はなかった。
自分が本当はどんな人間なのか語っても良かったのだ。それでも自分の発言すべてを受け入れるのかとヒステリックになってでも問い詰めれば良かった。
何も言わないよりはきっとマシだった。
むつみともう一度最初から話をしよう。
胸を張って従業員スペースの廊下を歩いた。
厨房に行くと、慎悟が冷蔵庫の前にしゃがみ込んでいたので、紅子は威勢良く「おはようございますっ!」と挨拶した。慎悟は驚いた顔で振り向き「おはよう?」と上げ調子で返した。
食堂にはまだ誰もいなかったが、おそらく慎悟が一人で朝食の支度をしていたのだろう、カトラリーとランチョンマットはテーブルの上に並べられていた。
食堂も出て、ホールに辿り着いた時だった。
玄関のドアベルが鳴り、扉が開いた。
入ってきたのは、首に巻いたタオルで汗を拭っているむつみだった。
「あ、おはよう」
紅子は出鼻を
「外、出てたんすか」
かける言葉に悩んだので、紅子はとりあえず世間話程度にそう問い掛けた。むつみがタオルを両手で取りながら「軽く走ってきた」と答えた。
「有酸素運動で脳内の血液の酸素濃度を上げようかと」
「案外体育会系なんすね」
「高校の時空手部だったんだよね」
筋肉質である理由が分かった。身体能力の面ではおそらく《P2》で最強だ。
「――こういう、頭の中がぐちゃぐちゃしてきた時には、体を動かすに限るよ」
少し視線を逸らして言ったむつみを見て、紅子は本来の目的を思い出した。
「あっ、あたし、ノンに会って謝らなきゃって思っててっ!」
突然頭を下げた紅子に驚いたらしい、むつみが眼鏡の向こうで過剰に瞬きをする。
「朝ご飯で集合する前に、二人で。ちゃんと、話をしなきゃいけないって、思ったんです」
むつみは苦笑して身を屈めた。むつみが膝に手をつかないと目線の高さが一致しないのは紅子にとっては少々ショックだったが、むつみの表情が穏やかだったので恐ろしくはなかった。
「それは、僕の方だよ。紅ちゃんに何て言って謝れば許してもらえるか考えていた」
「ノンも?」
「そう」
「ごめん」と、彼は囁いた。
「僕が知りたいことばかり根掘り葉掘り引っ張り出した上に、紅ちゃんの都合はほとんど聞かないで――本当に紅ちゃんにとってプラスになっているのかきちんと確認しないで、僕のペースで話を進めていたな、と。反省しました」
そして、「つらい思いをさせちゃったかな」と問われた。
「余計に混乱したかな。不愉快なこともあったかな。僕もあんまり空気が読める方ではないから――そういう言い訳は、まあ、いいんだけど。紅ちゃんを置き去りにして、機嫌を損ねたか――」
「違います」
紅子は力強く言った。
「あたしがいけないんです。あたし、言わなかったから。あたし、ホント、すぐ流されちゃって。ペラい情報の話しかしなくて――もっとこう、何か違うことも話さなきゃいけなかったんじゃないかって。特にあたし自身のことは、あたし自分からは何にも――」
「僕が聞かなかったからね」
首を横に振る。
「あたしが言わなかったんです。今日からは、ちゃんと言おうと思いました。聞いてください。って、伝えたかったんです」
むつみが目を細めた。
「紅ちゃんに興味がなかったわけじゃないんだ」
「優先順位の問題っすよ。昨日までは、あたし個人の話より、他のメンバーの情報のが大事だと思ってた、ってことでしょう?」
「うーん……、そう言われてしまうと、うん、ごめん……」
「いいんすよ」
紅子も唇の端を持ち上げた。
「その分、ノンは、あたしのこと、知ってる、って思ってくれてたんすよね。あたしのこと、信用してるから。こういう緊急事態の時には、あたしのことを掘り下げて信用できるかどうか試さなくてもいいんだ、って、思ってくれてたんすよね」
「紅ちゃん……」
「って、あたしは解釈しました。それでいいすか、あってますか? 緊急事態じゃなくなったら――全部解決したら、今度はあたしの話も聞いてくれるんすよね」
上体を起こして、むつみが「してやられたなぁ」と笑った。紅子にはそれがどういう意味か分からなかったが、
「ありがとう」
次に真正面から向き合った時のむつみの笑顔が穏やかだったので、
「本当に、紅ちゃんのことを、頼りにしていたから。このまま嫌われたらどうしようかと、心配していたんだ」
紅子もまた笑った。
高額紙幣しかなくてバスの運賃が払えないと焦っていた時に、むつみが黙って紅子の分の運賃も払ってくれたことを思い出した。
本来の彼は、ああいう気遣いのできるひとなのだ。
バス賃の分くらいは彼のために何かしてやろうと思った。
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