第7話 美青年とチェスをするむつみお兄さん 1
ホールの一人掛けソファに、オサムが座っている。
むつみが階段を下りてくる。
オサムの目の前にあるローテーブルには、チェス盤が広げられていた。これも慎悟がペンション時代に使っていたと言って持ち出したものだ。
オサムは一人で白い駒と黒い駒を並べていた。
むつみがオサムのすぐ傍に立った。
オサムとチェス盤を見下ろしながら口を開いた。
「お相手しましょうか?」
オサムは顔を上げず黒い駒を握ったまま答えた。
「僕、弱いよ。つまらないと思うよ」
「巧拙はどうだって構いません。僕は今、あなたとゲームをしたい気分なんです」
むつみもまた、無表情だった。
無機質な空間に時計の針の音だけが鳴る。
「では、お願いしようかな」
オサムが上体を起こしてむつみの顔を見た。
二人の視線が合った。
オサムが微笑んだ。
「手加減、よろしくね」
むつみはオサムの向かいにある一人掛けソファに腰掛けた。
オサムがチェスの盤上から一度すべての駒を下ろした。
「白と黒、どちらがお好き?」
「僕は白にします。先手必勝ということで」
「こちらの出方を窺わなくてもいい?」
「どちらにしても一緒です」
「そう」
オサムの右手が黒い駒を並べていく。左手は使わない。水色のサポーターに覆われた左手はチェス盤に添えられただけで何もしなかった。
むつみも、白い駒を拾い上げ、並べていく。
チェスの足がチェス盤を叩く硬い音がする。
「答え合わせをしませんか」
むつみの提案に、オサムは手を休めることなく「どうして僕と」と問うた。
「カトーさんの遺体が発見された時、迷わず部屋に入っていったので。こういう現場に慣れているのかな、と思いまして」
「さすがの僕もこういう形で死体が出てくるのに遭遇したのは初めてだったよ」
「でも冷静でしたよね。状況を把握しようとしていた。修羅場をくぐり抜けてきたんだろうなと思いました」
オサムは「そちらこそ」と唇を吊り上げた。むつみは「僕はただのへたれですよ」と返した。
「へたれ、か。――紅ちゃんにフられたみたいだね。さっきここでコーヘイお兄さんに泣きついているのを見掛けたよ。君の話をしていたみたいだ」
「そうですか。間に挟まりたかったな」
チェスの駒が十六対、正面から向き合った。
「では、始めましょうか」
「どうぞ、よろしくお願いします」
白いポーンが一歩進む。
「状況を把握、というのは、少し違う」
黒いポーンも一歩進む。
「僕はひたすら動画を撮っているだけだ」
「動画ですか。スマホで?」
「いや。この目で」
別の白いポーンが一歩進む。
「見たものを脳内のメモリ領域に保存しているだけ」
やはり、別の黒いポーンが一歩進む。
「超記憶症候群、って聞いたことはある?」
「いえ」
「臨床例が少な過ぎてまだどういうメカニズムかも解明されていないらしいんだけどね。脳の障害のひとつだ」
「サヴァン症候群は知っている?」という問い掛けには、むつみは「ええ」と頷いた。
「発達障害の一種で、もっとも極端な『天才』と呼ばれる人々の状態のことですよね」
「昔はそれの一形態だと考えられていたらしい。でも、知能指数に極端な偏りはなく、日常生活を送る上では健常者と大差ない。異常が見られるのはあくまで記憶に関することのみだ。したがって別個のものとして異なる病名がつけられた」
とうとう、白いルークが動き出した。
「どんな障害なんです?」
黒いビショップが動き出した。
「簡単に言うと、忘れられない障害だ」
白いポーンが動き出す。その後ろに控えているのはやはりビショップだ。
「記憶がまったく消えたり褪せたりしない。経験したこと、体感したこと、とにかく身の周りで起こったすべてのことを忘れることができない」
「夢のような能力じゃないですか」
「それがそうでもないんだよ」
黒いビショップが一歩後退する。
「僕は他人に共感することが苦手だ。感じている時の流れの速度が周りの人たちと違うみたいなんだ。僕にはみんなと一緒に感動することができない。特に、僕には『懐かしむ』ということができない」
白いポーンが生け贄に差し出される。
「僕は僕というものを発見できた三歳になる少し前くらいから今に至るまでのすべての時間を同等のものとして記憶している。時計やカレンダーというものを学習した七歳の時からはできる限りセットで。でも、僕にとって日付や時刻というものは、それこそ、時計やカレンダーと一緒だ。すべてが等間隔。五分前と五年前の差異が認識できない」
黒いナイトが白いポーンを屠った。
「時々、僕は自分が成長しているのか不安になることがある。毎日鏡を見てしまう。おかげでナルシストだと勘違いされることもある。僕が知りたいのは、今日の僕が昨日の僕と比べて変化しているかであって、現状という一時点はあまり関係がないのに」
直後、黒いナイトが白いビショップに屠られた。
「『天才』でもない。繰り返すけど、いわゆるIQというものは凡人の域を出ていない。それこそ、ノンやハレの方がずっとみんなの思い描いている『天才』に近いはずだ。僕はただ記憶して――記録していくだけであって、忘却という能力が欠如している。欠陥だ」
黒いポーンの頭を撫でつつ、「親は何度も知能検査やCTスキャンを受けさせてくれたけど」と微笑する。
「知的障害者でもなければ、精神障害者でもない。この社会は僕にとってとても暮らしにくい」
黒いポーンが置かれた。
「カトーさんの――平野清正さんの遺体を発見した時、あなたは写真を撮っていましたよね」
今度はさらに別の白いポーンが動いた。
「あなたの能力――あなたの『障害』があなたの言うとおりのものであったら、写真を撮る必要はなかったのでは」
「逆だよ。僕は何かのおりには必ず写真を撮るようにしている。撮らないと疑われることになる」
黒いポーンがまた一歩進む。
「疑われる、とは」
「写真なんか見なくても、僕はいつどこに何がどう存在していたか、忠実に再現することができる。でも、健常者にはそれができない。したがって、善良な健常者の皆さんは思うわけだ――あいつが作為的にこの状況を作ったのか、それでここまで鮮明に覚えているのか、と」
「なるほど」
「だから僕は写真を撮る。必要に応じて動画も。僕が見たありのままを――僕の海馬に保存されているそのままを、第三者にも見せることができるように」
白いルークがまた動いた。
「写真には、当時の状況だけでなく、日付と時刻も記録されるし、今時GPSが仕事をしてくれれば緯度や経度まで保存されるようになった。僕は僕がそこにいたこと以外何もしていないということを主張しやすくなったんだ」
黒いナイトが逃げ始める。
白いクイーンが、とうとう動き始めた。
「あなたの記憶障害の概要は、把握できました。ここから先は、あなたの海馬にある画像もしくは動画についての情報と、それにもとづいたあなた自身の意見や感想を聞かせてください」
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