第8話 美青年とチェスをするむつみお兄さん 2

 黒い駒たちの上を、長い指がさまよった。

 少し時間を置いてから、今度はビショップが前進した。


「平野清正さんの遺体が発見された時――あなたが最初に平野清正さんの遺体の画像を脳内に保存した時刻は、読み込めますか?」

「もちろん。昨日の午前十一時二十八分、ここで、君と、セントくんと、冴ちゃん、紅子ちゃん、慎悟さん、それから僕の六人が、昼食のために全員を起こそうという話をし始めた辺りから動画の再生を始めよう」


 白いクイーンがもう一歩詰める。


「あなたには、平野清正なる人物がP2の誰に相当する人物で、誰にどうやって殺されたのか、分かっていますよね」


 オサムの手が、止まった。

 オサムの目が、むつみの目を見た。


「あの部屋の状況を完璧に再現できるあなたなら。証拠や矛盾だらけのあの部屋のからくりに、気がつけるはずだ」


 オサムは何も言わなかった。ただ、黒いビショップを動かしただけだった。


「平野清正さんは《露輝》だった。それに異存はないですね?」

「根拠は?」

「きっかけはあなたが見つけた煙草だ。煙草をカートンで持ってくるような愛煙家は、P2にはロキしかいない。しかも免許証の住所は神奈川県横浜市だった。京浜東北線で通勤する神奈川県民はロキだけだ。極めつけは、犯人の動機です。犯人の心情を思えば、まず、ロキを殺そうと思うでしょう」


 白いクイーンをまだ移動させつつ、「冴さんにも確認しました」と続ける。


「やはり頭部の打撲だけではありませんでした。胸部を鋭い刃物で十数ヶ所も刺されていたそうです。そこまでするほどの強い怨恨、と考えたら、ね」


 眉根を寄せ、「異論はないよ」と答える。


「次に、犯人はどうやってロキこと平野清正の頭蓋骨を砕いたか。この殺人事件は、密室トリックもアリバイトリックもないけど、凶器だけはなぜか消失している。それから、あの部屋に本来あるべきものも」


 「教えてください」と言いながら、白いポーンで詰める。


「あなたの記録には、煙草の吸殻は写っていますか?」


 即答だった。


「ない」

「机の上のケースには吸った形跡もある、ただし携帯灰皿には吸殻が残っていない、ということはつまり――」

「あの部屋には、他の部屋にはない、灰皿があったはずだ」

「そう、それで後頭部を殴れば相手を撲殺できるほど重くて頑丈な灰皿が」


 むつみが、「ちょうどあんな感じの」と言って、カウンターの上を指した。そこには、直径二十センチもありそうな大きさの、ガラス製の灰皿が置かれていた。


「あの灰皿、あなたが入浴するためにここを通過した時には、あそこにありましたか」

「なかったよ」

「あなたたちがここで大富豪をしていた時には?」

「……あったね」


 オサムは「んー」と唸ってから、黒いルークを進めた。

 黒いルークが白いナイトに押し退けられ、チェス盤から退場した。


「ロキは客室に灰皿がないことに気づいた。部屋の中でくらいは自由に吸いたいと思ったロキは、灰皿を借りに来た。それで、犯人は彼をロキであると認識した。しかしロキはまさかそんなことが殺されるきっかけになるとは思わなかったので、犯人が客室を訪ねてきた時、何の疑いもなく招き入れ、脳髄が飛び散って死んだのか、大量失血で死んだのか、とにかく、あっさりと殺された」

「僕もまったく同じ状況を想像している」

「問題は吸殻と灰だ。犯人は、灰皿を鈍器として使用した後、灰皿だけでなく、吸殻や灰まで片付けてしまった」

「そう。それが、自分が犯人だという決定的な証拠になるとは知らずにね。それだけのことを短時間でこなせる人間は、たった一人しかいないんだ」

「刃物のありかも目星がつきますね。何のことはない、とても簡単な話。ただ――今は、明かせない」

「そう。今は、明かさない。――紅子ちゃんが、可哀想だから。そうだよね?」


 黒いクイーンが、とうとう、重い腰を上げた。


「そこだけは、僕もルールを守ろう。君に敬意を表して。もうしばらく――少なくとも、道路の復旧のめどが立つまでは」


 むつみが笑った。


「ありがとうございます」


 白いナイトが、一気に詰め寄った。

 オサムが目を丸くした。

 黒いキングのいるマスに、白いナイトが押し入った。


「チェックメイト」


 むつみが満足げな笑みを浮かべた。


「一番あなたの口から聞きたかったことばは、それでした」


 オサムも肩をすくめて、おどけた笑みを見せた。


「負け惜しみをしておくよ。言っておくけど、僕に勝っても何の自慢にもならない。何せ、僕は、今までに見てきたチェスの試合動画の中から、今の自分の状況に当てはまりそうな動画を検索してきて、当てはまったとおりに駒を動かしていただけなんだから。僕にあるのは検索スキルであって作戦立案能力じゃない」

「僕の行動は検索に引っ掛からなかったんですね」

「君はどこまでも嫌味な奴だね」


 「次に同じことをしたら今度は僕が勝つだろうけど」と、オサムが言う。


「その時には、君はまた新しい動きをして僕を混乱させるんだろう」


 その表情は満足そうですらある。


 むつみは「次があるとは思いたくないんですけどね」と言ってから、話の続きをした。


「オサムさん、犯行時刻、自分の部屋にいなかったんですよね」

「きっとね。いたら音が聞こえていただろうからね」

「どこにいたんですか?」

「それを訊くのは野暮だよ」


 オサムが白も黒も関係なく駒を掻き集め始めた。むつみは立ち上がって伸びをしながらそれを見下ろした。


「あやさんを殺した犯人は僕にはまだ分かりません。同一犯かもしれないし、ロキやリセかもしれないし、他の誰かかもしれない。ただ、ロキを殺した犯人はたった一人しかいないし、そのたったひとりは、たぶん、まだ他にも殺したいメンバーがいるはずだ」


 オサムはまた一人でチェスをするつもりらしく、チェス盤に駒を並べ始めた。


「僕とあなたが今した答え合わせが本当に真相だったら、犯人が次に殺したいのはリセです。犯人は今、血眼ちまなこになってリセを探しているはずです」

「ロキを殺した犯人があのひとだったとして――動機も僕たちの想像どおりだったとして。その場合、優先順位の二番目がリセになる理由は何だろう」

「あやさんが紅ちゃん宛に遺言のような手紙を遺しています。そこには、ロキには特に気をつけるように、と書かれていました。二番目に気をつけるように言われていたのはリセでした」

「なるほど。充分過ぎるね。リセこそ人を見る目を養った方が良さそうだ」


 むつみが二回戦目に応じることはなかった。半ば無視するようにして、階段の方へ歩き始めた。


「――殺されないでくださいよ」


 オサムが目を細める。


「優しいんだね」

「これ以上死者を増やして紅ちゃんを怖がらせるのだけは避けたいんです。それくらいは分かっていただきたい」

「安心するといいよ。女子高校生を泣かせて悦ぶ趣味はない」


 「では失礼します」と言い、むつみが階段を上がり始めた。

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