第5話 紅子ちゃんの本当
紅子は鼻を鳴らしつつ、「でも」と口を尖らせた。
「なんでなんすかね。なんであたしなんでしょう」
「紅ちゃんが誰も疑わないって分かっているから。誠実にこたえてくれるイメージがあるんだよ」
「でもあたし、ホントはそんな、ちゃんとしてないです」
「ちゃんと、って?」
「さっき、そういう話になったんすよ。ちゃんとした家があって、ちゃんとした友達がいて、ちゃんと学校に通ってて、って。あたしが、なんかそういう、ちゃんとした生活をしてるから――でもそれが、あたしが世間知らずのお嬢様だから人を騙せるほどの頭がない、みたいに言われてるみたいで、嫌だったんです。後ろめたいことがあった方が、不幸な生い立ちの方が、人間として複雑なんすかね、って」
「あー……なるほど。そう解釈しちゃったのか」
コーヘイが「一理、あるにはあるけど」と息を吐く。
「確かに、どいつもこいつも、擦れてるというか、捻くれてるというか――とにかく、自衛のために嘘をついたことのある人間は、他の、自衛のために嘘をつきそうな人間のことを、信用しにくいのかもしれない。それって根性が曲がってるってことなんじゃないかと思うけどなぁ」
紅子はコーヘイに向き直り、コーヘイのシャツの袖をつかんだ。
「ていうかまず、あたしがホントはそんなちゃんとしてないんすよ」
「あれ、そうなの? 紅ちゃんも何か嘘をついちゃったことがある?」
そう問い掛けるコーヘイの声には、責める色合いは微塵もない。
コーヘイの二の腕に顔を押しつけた。コーヘイは今日も長袖のシャツを着ている。コーヘイのシャツの袖に紅子の涙が染み込んだ。
誰にも――本当にまったく誰にも、言ったことのない話だ。学校の友達にも、ネットの友達にも、言ったことのない話だ。
コーヘイには、話せそうな気がした。
「あ……あたし、あたし、本当は、」
「うん、本当は?」
「本当は、今の家の子じゃないんです」
今頃、両親は警察に駆け込んでいることだろう。兄は外泊を許可したことで自分を責めているだろう。祖母と四人、家族総出で紅子を捜しているだろう。
紅子は、四人が、紅子が本当に大切だからそうしているのだと、信じていなければならなかった。
紅子が問題を起こすことで、児童相談所や家庭裁判所を巻き込んだ騒動になることを恐れているのだ、とは、思わずにいなければならなかった。
信じなければ、紅子は生きていけない。
「しょっ、小学生の時、に。今の家に、養子として引き取られたんです」
紅子の髪を撫でているコーヘイの手が、一瞬だけ、止まった。
「今の、新しい、戸籍上のお父さんとお母さんと、あと、お兄ちゃんとおばあちゃんは、すごく優しいんすよ。ホント、めっちゃ大事にしてくれてるって思います。ご飯も服も用意してくれるし、どんなことでも上手くできれば褒めてくれるし、ピアノだって習わせてくれるし、学校だって高い学費払ってくれてて……、」
誰にも言ったことのない話だった。
「でもあたし、ホントはそこの家の子じゃないんです。施設から貰われてきた子なんです。今のお父さんとお母さんが引き取ってくれたから――今のお父さんとお母さんがあたしを気に入ってくれてるから、あの家で暮らしてるんすよ」
「そうだったのか」
「だからあたし、絶対、絶対、今の家族を疑ったりしちゃダメだ、って。みんなみんなあたしが可愛くてあたしが好きだから優しくしてくれるんだって、そう思わなきゃ、あたし、おかしくなるって――みんなホントは世間体とか法律とか何か変な下心とかあるからあたしを可愛がってるわけじゃないんだって思ってなきゃいけなくて……!」
「紅ちゃん……」
「周りの人を疑うのホント嫌。誰を信用してよくて誰は信用しちゃダメとか、もう嫌なんです。みんなみんないいひとであたしのことが大好きなんだって思い込んでなきゃあたしはダメなんです」
「そっかぁ」と呟きつつ、コーヘイが体勢を変えた。紅子はコーヘイの腕から顔を起こさざるを得なかったが、その分真正面から抱き締めてもらえた。
「人それぞれ、事情、っていうものが、あるよね。決めつけは良くないよね。上っ面だけ見て――紅ちゃんがどれだけ悩んで苦労して今の紅ちゃんを作ってきたか知らないで、紅ちゃんだから大丈夫ーなんて、失礼なこと言ってるよねぇ。僕も言ってたかな、ごめんね」
紅子はコーヘイの腕の中で首を横に振った。
「でもね、紅ちゃん。嫌なことは嫌って、もっと早く言っても良かったんだよ。紅ちゃんもこんなにつらいんだ、っていうのを、もっと分からせてやらないと。そりゃもう、泣き喚いて、泣き叫んで、みーんなお前らが悪いんだって、その辺にあるものを手当たり次第投げてでも、主張して良かったんだ」
「けど――」
「いいんだ。たまには悲劇のヒロイン病になろう」
それは、《ぁゃ》がよく口にしていた言葉だった。
《ぁゃ》が、時々、世界で一番可哀想なのは自分だと思い込みそうになる、と言っていた。自分は悲劇のヒロインで、本当につらい立場にあるのに誰にも分かってもらえず、悲しい、悲しい、悲しい、ばかりになってしまうことがある、と。《ぁゃ》は自分のそんな精神状態を『悲劇のヒロイン病』と呼んでいた。
誰かが、それでもいいんだよ、と言っていたのを思い出した。たまには一晩くらいそんな気持ちに浸って泣き喚いた方が、自己愛を守るのには良いかもしれないよ、と。どんな形でもいいから、自分を甘やかさないと――そう言っていたのは、誰だっただろう。
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