第4話 大丈夫じゃなくなってしまった紅子ちゃん
急ぎ過ぎていた。
階段の踊り場でカーブする時にバランスを崩した。足の置き方が定まらず二、三段ほど跳ねるように下りるはめになった。そこから下はステップを踏むことすらできなくて、紅子はかかとだけで一度に二段も滑った。
それでも最後まで転げ落ちてしまわなかったのは、真正面から受け止めてもらえたからだ。
青年の腕が紅子に伸ばされた。脇の下に手が差し込まれた。持ち上げるように抱えられた。
コーヘイだった。
「……びっくりした」
彼の方がそう言った。
紅子には何も言えなかった。驚き過ぎて言葉を発する余裕がなかった。
「どうかした? 何かあった?」
穏やかな声で問いつつ、紅子の体を、階下、ホールの床に下ろす。
紅子は何とか床に立った。ただし足はまだ震えている。
コーヘイはまっすぐ紅子を見つめていた。
「何があったのかな? 僕で良かったら話を聞かせてくれないかな」
語り掛ける声は本当に優しい。
綾乃の手紙や今までのむつみと晴太とのやり取りを思い出した。
コーヘイは少なくとも初期メンバーの一人だ。危険だ。絶対に信用してはいけない。
けれど紅子にはもう疑う気力がない。
コーヘイがホールのソファを指し、「少し座ろう」と促す。
「話したくなかったら、無理して話さなくてもいいけど。今の状態で、ひとりでふらふらするのは、ちょっと、危ないと思うんだ。落ち着くまで、少しだけ。僕がここで周りを見ていてあげるから」
紅子にとってはコーヘイもただの優しいお兄さんなのだ。
「訊いてもいい?」
「はい」
「今、何が一番大丈夫じゃない?」
「大丈夫じゃない、って?」
コーヘイが苦笑した。
「こういう時、大丈夫? って訊くと、大丈夫じゃない時ほど、大丈夫、って答えちゃうでしょう。そこで話が終わっちゃうでしょう。どう見ても大丈夫じゃなさそうな時には、何が大丈夫じゃないのか教えてもらってから、ゆっくり、少しずつ、大丈夫に近づいていくのがいいかな、って。僕のポリシー」
走っている間に引き始めた涙がふたたび盛り返して、紅子の視界を歪めた。
「全部大丈夫じゃないー……っ」
叫びながら、紅子はコーヘイに抱きついた。
コーヘイは「そっか、そっか」と囁きつつ、紅子を抱き締め返した。
紅子はむつみと晴太がどうでもよくなってしまった。
今目の前にいる優しい人を信じたくなった。
あからさまに誰かを疑っている人を信じられるほど――自分を疑うかもしれない人や自分に作為的な意図をもって接する人を信じられるほど紅子は楽観的でもなかった。
冴が警察官であることを明かした後からの話をすべてコーヘイに話した。
むつみが紅子の部屋を訪ねてきたこと、むつみから清正が《露輝》だろうと教わったこと、むつみに綾乃から託された手紙を読ませたこと、マスキングテープとともに謎のソフトが渡されたこと――誰が誰なのかを当てるための推理が始まったこと、《露輝》を殺したのが《Lise》ではない可能性があること、晴太も巻き込むと言って声をかけたこと――晴太とむつみと三人で話をし始めたこと、シズカに声をかけられて逃げたこと――晴太の部屋で、三人で話をしたこと――一連の流れを、余すことなくコーヘイに打ち明けた。
むつみが《NONE》であることと晴太が《晴》であることは伏せた。しかし、二人がコーヘイに対して強い疑念を抱いていることは明かした。紅子からすればそこも気に喰わないのだ。
何せコーヘイは今も穏やかな笑みのまま黙って紅子の話を聞き続けている。
コーヘイは悪人ではない――自分自身がそう感じている。
どれだけ騙されてもいいから、自分の感覚を信じたい。
晴太の部屋を出て階段を転げ落ちそうになったところまで話し終えたのを確認してから、コーヘイがようやく口を開いた。
「ひょっとして、ムツミくんはノンなのかな」
コーヘイの言葉に、紅子は目をまん丸にした。自分はどこかでむつみが特定されるような情報を口にしてしまったのだろうかと、慌てて自分の言葉を反芻した。
紅子の様子に気づいて、コーヘイが慌てて「あ、ごめんね、紅ちゃんがムツミくんを庇って黙ってたなら、申し訳ないけど」と言う。そこまでするような義理はない気もしたが、コーヘイが誰なのか分からない以上、誰が誰なのかの情報はみだりに出すべきではないと思う。焦る。
コーヘイの言葉はあくまで穏やかだ。
「男なんてプライドがないとやっていけない生き物だからね。ましてノンはすごくプライドが高そうだったから、こんなことを僕が紅ちゃんに言ったってバレたらますます嫌われそうだけど」
ちょっとだけ笑ってから、小さな声で言う。
「きっと、今一番怖いのは、彼なんだと思うよ」
「怖い……?」
「だって、彼、P2に入ってからまだ三ヶ月経ってないでしょう。たぶん、一番、メンバーについての情報を持ってないんだよ。外部交流もあんまりしてないようだったし――ハルくんとはちょっとやり取りしてたみたいだったかな……?」
コーヘイが「そうか、ハルくんはセントくんなんだよね、だからか」と独り言を言う。お見通しだったらしい。
「ノンこそ、後悔してるよ。もう少し誰かとつるんでおけば、こんなに怖い思いをすることもなかっただろうに、って」
ソファに座っている自分の腿に肘をつき、コーヘイが困ったように笑った。
「紅ちゃんは、胸を張っていいと思うよ。紅ちゃんは、ムツミくんを助けてあげたんだよ。紅ちゃんだけが、安心させてくれる存在だったんだねぇ」
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