第1話 むつみお兄さんと紅子ちゃんin《ぁゃ》の部屋 1
ついていけていない。
紅子は、元は綾乃の部屋であった自分の部屋のベッドに、仰向けに寝転がっていた。
特に何もないのに、天井を眺め続けていた。
どれくらいの間こうしているのかも分からない。冴が部屋を出ていってすぐ横になって以来、ずっとこの体勢のままだった。
何にも考えられない。
分からないことだらけだ。
慎悟の言うとおりみんな紅子には優しい。誰も紅子を疑っていないということ、何らかの形でフォローしようとしてくれていることは分かる。冴でさえ、紅子の手荷物を調べに来た時は「犯人が紅さんに罪をなすりつけようとしてわざと何かを持たせているかもしれませんから」という断りを入れたし、他のメンバー同様にアリバイのない紅子の行動について細かく探りを入れようとしない。
紅子は
紅子は、自分が事件の渦中にいると感じていなかった。
紅子に分かるのは、綾乃が殺されたこと、清正が殺されたこと、この別荘から出られないこと――この三点だけであり、誰が何を言っていて、誰が何をしていたのか、ことごとく頭から抜け落ちてしまっていた。別荘に辿り着いてからのおよそ二十四時間の記憶が断片化していると言ってもいい。
ひどく疲れた。眠ってしまいたいと思った。
しかし、自分はここに来てからどれくらいの時間この部屋で横になって過ごしているのだろう。眠い気はするのに、眠れない。
他のみんなは何をしているのだろう。
自分は、仲間はずれだ。
寝返りを打った。
考えないようにしよう、と思った。
言うなればこれは連続殺人事件だ。一般的な高校生である自分は関わらない方が良いに決まっている。
別荘に辿り着いた直後、一度だけ、兄にLINEを送った。以来、外部の誰とも連絡を取っていない。
予定どおりであればこの時刻はもう帰路についていたはずだ。今頃山梨県か、もしかしたらもう都内だったかもしれない。
家族が自分の捜索願を出していたらどうしよう。
いや、そうであってほしい。
帰りたい。
すべてを忘れ去って、ただのプログラミングオタクの女子高生として生活していた頃に戻りたい。
ドアをノックする音が聞こえてきた。冴か慎悟が様子を見に来たのだろう。
いつもなら心強く思っただろうが、今は鬱陶しく感じられ、体を起こすのも億劫で、なかなかベッドを下りられなかった。
どうにかドアの前に立ち、ドアを開けた次の時だ。
紅子は目を丸くした。
「こんにちは。今お時間いいかな」
そこに立っていたのは、慎悟でも冴でもなかった。
ムツミだった。
「事情聴取は終わったんすか」
「何とかね。で、冴さんには部屋から勝手に出ないようにと言われてきたんだけど、どうしても紅ちゃんに会いたくなって、来ちゃった」
ムツミは小さく首を傾けて微笑んだが、紅子に微笑み返す余裕はなかった。呼んでいない、帰れ、と言う気力すらもなかった。
どうしてこの男はいつもこうなのだろう、思えば吊り橋を渡っている時からそうだった――この男がすべての元凶の厄病神である気さえしてきた。顎を持ち上げ彼の顔を眺めているだけで疲れが倍増する。
紅子が黙って睨みつけているうちに、ムツミは自分のデニムのポケットをまさぐった。
やがて一枚のカードを取り出した。
紅子に向かって差し出した。
「これで信用してもらえるかな? 紅ちゃんとしてはこれで僕は信用に足る人間になれるかな」
カードを受け取った。
紅子は目をさらに丸く大きく見開いた。
ムツミが差し出したカードは、写真入りの学生証だった。
「とーきょーだいがく」
「いや見てほしいところはそこじゃない、ううんそこに意義が見出せるならいいけどね、在籍している身からすると大学名程度で人間を信用しない方がいいと思いはする。――まあ、所属も立派な個人情報ではあるかな、うん」
「ムツミさん、東大生だったんすか」
「そう。老け顔だからかあんまり大学生に見られないんですけど、実はまだ大学二年生でぴっちぴちの二十歳なんですよ」
「そうじゃなくて、」
「僕としてはそういう問題です」
「もうちょっと下を見てくれる?」と言われて、視線を下に滑らせた。
大きな文字で氏名と、小さな文字で生年月日が書かれていた。
「
ムツミ――むつみが名乗った。
「《NONE》です」
一人腕組みをし、紅子を見下ろしている、その、眼鏡の向こう側の目が、珍しく、真剣そうに見えた。
「もし、紅ちゃんが、僕を信じてくれるのなら。少しの間、部屋に入れてもらって、二人きりで話をさせてもらいたい。ダメかな」
笑っていなかった。
いつもマイペースで、警察官の冴の言うことを聞くどころか冴を泣かせる勢いで喋り、自分のこともからかってばかりだったむつみが、真剣な目をしている。
手の中のカードを見下ろした。
身分証明書だ。
誰も自分の本名やハンドルネームを名乗りたがらなかったのに、
「冴さんにも見せていないものなので、返してもらえるとすごく嬉しいんだけど、お守り代わりに持っていたいなら、ここを出るまで預けておこうか」
自分にだけ、見せてくれた――教えてくれたのだ。
紅子は急いで首を横に振った。すぐに学生証を返した。
「えとっ、あっ、あたしは飯田紅子といいまして、普段は《紅》と名乗っていて、学校は神奈川県の学校法人――」
「あー、いい、いい。紅ちゃんが紅ちゃんなのは分かるし、地方出身で都会の高校の名前を言われてもぜんぜん分からないから」
「入ってもいいかな」と問われた。
「ここで立ち話をしていると、誰が聞いているか分からないからね」
紅子は大きく頷いた。ドアを大きく開け直し、むつみを中へ招き入れた。
紅子の素早い反応を見て、むつみの方がなぜか複雑そうな顔をして「身元が割れているとは言え、よく簡単に入れるなぁ」とこぼす。紅子はすぐに「だって、誰が聞いてるか分かんないって、むつみさんが言ったんじゃないすか」と訴えた。「信用してもらえたようで嬉しいよ」と言い、むつみが溜息をついた。
「あ。紅ちゃんの個人情報はどうでもいいって言っちゃったけど、やっぱり、最後にもう一個だけ、教えてもらってもいいかな」
「はい、何すか?」
「学校、確か、女子校、って言っていたような気がするけど――セーラー服のお嬢様学校だったりする?」
紅子は小首を傾げて、「セーラー服の女子校で、周りはみんなお金持ちの家の子です」と答えた。
むつみが小さくガッツポーズをした。
「そんな学校いくらでもあると思うんすけど、何か意味があるんすかね」
「いや、僕のモチベの問題だから気にしないで。あと僕がこんなことを聞いたということは他のみんなにはナイショで、特に冴さんには」
「はあ」
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