第2話 トランプで盛り上がる人たちを眺める紅子ちゃん

 朝食後、その場にいたメンバーで一度別荘の周辺を探索した。


 まず、土砂崩れの現場を確認した。

 幸いにも、さらなる土砂崩れは発生しなかったようだ。

 紅子は今朝知ったのだが、別荘から二キロほど行ったところに、車が通行できるような鉄橋があるのだそうだ。車に乗ってきた人々が利用した鉄橋である。

 その鉄橋に至る道路は一本道で、わずかにカーブしている上、遮るものは何もない。

 したがって別荘からでも見ることができる。

 別荘から鉄橋の間で通行不能になった箇所は、とりあえず目で見て分かる範囲内では、昨夜の一ヶ所だけだった。

 だがそのたった一ヶ所が幅十数メートルにわたっている。

 泥の波は、巨岩も大木も、流れてきた経路にあったのであろうすべてを呑み込んで押し寄せてきていた。

 そしてそれらが、別荘からほんの数十メートルしか離れていないところで、小さな山を作って固まっている。堅いのかもろいのか、固いのか緩いのか、硬いのか柔らかいのか、素人目では分からない。

 この土砂の山を自力で乗り越えて向こう側へ出ようとするのは自殺行為だろう。

 もし数十メートルこちら側であったら、この土砂に、別荘ごと呑み込まれていた。

 土砂崩れの爪痕を生で見たのは、生まれて初めてのことだった。

 紅子は、戦慄し沈黙することしかできなかった。

 紅子以外の面々も、何も言わずに呆然と眺めていた。土の臭いが立ちこめる中、コーヘイだけが小声で「この程度で済んで良かった」と呟いていた。


 次に、吊り橋を確認した。

 昨夜スマートフォンのライトで探った時はかろうじて向こう側にぶら下がっていた吊り橋が、谷の底へ落ちていた。いずれにせよ渡れる状態でなかったが、川岸に力なく流れ着いている板を見ていると、とどめを刺された気分になってつらかった。

 八人が吊り橋の残骸を見下ろしていたところ、向かい側の道路を路線バスが通過していった。紅子が乗るつもりでいたバスだ。

 バスの背中を見送る。SOSを出す隙も与えてくれない。溜息の合唱となった。


 最後に、別荘全体を一周回った。脱出できるところは本当にないのか、どこかに抜け道はないかと、総出で探し回った。

 どこにもなかった。

 別荘の正面は川の流れる谷、別荘の背面は高さ十数メートルほどある崖、崖の上は山林で、民家は目では見えない。


 諦めて、別荘の中へ戻った。

 一刻も早く誰かが気づいて救助隊を呼んでくれることを祈るしかない。


 服が汗で湿っていて、気持ちが悪かった。紅子が「シャワー浴びたい」と呟くと、他数名からも「僕も」「私も」と声が上がった。


「あーでも、一泊しかしないつもりだったから、着替えがないな」

「洗濯機、使ってください。すぐ乾きますよ、たぶん」


 外は快晴だった。別荘の中にいる面々の雰囲気とは裏腹に、底抜けに明るい夏の空だった。




 紅子がシャワーを浴び、ホールに戻ると、セントとオサムとサエの三人がトランプをしていた。

 オサムが無邪気に「革命!」と言ってカードを同時に四枚ローテーブルへと叩きつける。

 セントが「何しやんねん!」と頭を抱える。

 サエは「やった! ありがとうございます!」と先ほどまで泣きそうだった顔に笑みを浮かべた。


 ローテーブルを挟んで、テーブルの前後に一人掛け用のソファが一組、テーブルの左右に二人掛け用のソファが一組、それぞれ配置されている。

 サエとオサムが一人掛け用のソファに座っており、セントは一人で二人掛け用のソファを占拠している。


 セントの向かい側、紅子からは背もたれしか見えなかった二人掛け用のソファへ歩み寄った。

 ムツミが優雅に寝転がっていた。

 長い脚を折り畳むように組み、文庫本を読んでいる。

 タイトルは『ツァラトゥストラはかく語りき』だった。どこかで見たことがある。教科書に載っている哲学か何かの本の気がする。


「そいつの腹の上座ってええよ。嫌やったらオレの隣な」


 言いつつ、手札を一枚場に出した。

 サエが「出せる!」と喜びの声を上げすぐさま一枚を引き抜く。

 直後、オサムが「あがり!」と言って最後の一枚を叩きつけた。

 他二人が悲鳴を上げた。


「なんやオサムさんトランプめっちゃ強いやん」

「人生の荒波をいちかばちかのギャンブルで乗り越えてきた男なんでね」

「結婚したくないタイプナンバーワンですね……」


「盛り上がってますね」


 紅子は、結局、ムツミが転がっているソファの背もたれに肘をつき、もたれながらも立ち続けることにした。


「Wi‐Fiも使えんし時間潰せんて話してたら、慎悟さんがペンション時代に使ってはったカードゲームとかボードゲームとか出してきてくれはってん」

「UNOもあるけど、紅ちゃん、UNO、やったことある?」

「ありますけど――」


 そんな気分ではない、と言うのははばかられて、それとなく視線を逸らした。


 ホールにいるのはこの四人だけだった。


 ホールの様子を見回す。

 エントランスカウンターの上には、役立たずの固定電話と、大きなガラス製の灰皿、メモ帳が置かれている。

 玄関には大きな白い下駄箱が設置されている。下駄箱の反対側にある棚には、リスやウサギなどの木製の小動物がいた。

 辿り着いた時の様子と何も変わらない。まるで何もなかったかのようだ。


 あちこちを眺めている紅子に気づいたらしい。ムツミが本を自分の胸の上に置き、「他のメンバーを捜してる?」と問うてきた。


「コーヘイさんとシズカさんなら寝直すって言って自分の部屋に行ったよ」

「……朝食の時、ご飯食べたらもう一回寝る、って言ってたのって、オサムさんとセントさんじゃなかったでしたっけ」


 サエが「そうですよ、寝てもいいんですよ」となじると、二人は「そんな大昔のこと持ち出さんでええやん」「朝の爽やかな日の光を浴びて体を動かした結果目が覚めたんだ」と答えた。

 サエが紅子の方を向き、「こういうおとなになったらダメですよ」と言う。やけに否定的だ。トランプで負けがこんだのであろうか。


「カトーさん、ぜんぜん起きてこないんすね」

「こんな時にまでよく寝ていられますねぇ」

「どいつもこいつもまともな神経の持ち主じゃなかったということさ」


 背後で食堂のドアが開いた。

 振り向くと、慎悟が顔を出していた。


「皆さんお揃いで――なさそう、ですね」

「どうかしました?」

「いえ、そろそろ十二時が近づいてきたので、昼食の用意をした方がいいかな、と思いまして」


 オサムとサエが自分の腕時計を見た。それぞれ「もうそんな時間か」「気づいてませんでした」と呟く。


「すみません、僕一人でちゃっと用意できればいいんですけど――どなたかに手伝っていただかないと、まともなものは作れないので……。インスタント系の、簡単なものならいくらでもあるんですが――」

「ええんちゃう? 毎日カップ麺食っとった奴もおったしな」


 セントの切り返しに、《晴》がいつも電気ポットの湯量を気にしていたことを思い出した。


「コンビニのうなったら死ぬとか言うてる奴とか、一日一食は絶対外食やった奴とか」


 慎悟がそこで、「そんなだったんですか」と驚いた声を出した。


「綾乃が、一人すごく料理の上手な方がいる、と言ってたんですけど……確か、ケイトさん、だったかな」


 その場にいた面々が一斉に「あー」と合唱した。慎悟が「何かあったんですか」とたじろぐ。


「そいつ、主婦だから。愛するだーりんのために毎日毎日せっせと料理をしていて、たまに手料理写真をアップしては飯テロだ何だと騒がれていたんだけどね。今は、名乗り出られないと思う。自分がケイトだとバレたら、各方面から吊るし上げられるから」


 ムツミの「本当にね」と言う声とセントの「それな」と言う声が重なった。


「少なくとも僕は吊るし上げたい。どうやってあぶり出そうかわりと本気で考えている」

「僕もいろいろ問い詰めたいですね。やましいことの塊ですよね」

「手荒な真似しとうないんやけどな。男やったらグーや」


 紅子は沈黙した。

 《ぁゃ》の手紙に残された追伸を思い出していた。

 《ぁゃ》が《KATE》に謝りたかったこととはいったい何だったのだろう。あの温厚を絵に描いたような《KATE》がいったい何をどうしたらこうしてしざまに言われなければならないのか。

 すぐに思い直した。

 《KATE》は《Lise》の顔を知っているのだ。《Lise》を炙り出すためには、《KATE》も炙り出す必要がある――のかもしれない。


「朝はシズカさんが作ってくれていたんでしたよね」


 ムツミの言葉に、サエが消え入りそうな声で「一応私も手伝いましたけど……」と呟いた。その件に関しては、誰も掘り下げようとはしなかった。


「いずれにせよ、一回全員起こしてきます? シズカさんと、コーヘイさんと――あと、カトーさん?」

「もうええやろ、起こしたれ」


 四人がめいめいに立ち上がり、階段の方へ向かった。

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