第1話 朝ご飯を食べる一同


 夢を見た。

 どこか分からない部屋の中で、《ぁゃ》と――綾乃と会っていた。

 綾乃は、慎悟が見せてくれた写真の姿で、スカイプでよく聞かせてくれていた愛らしい声を出していた。

 そして、紅子を強く抱き締めてくれた。

 綾乃の体が温かかったのか冷たかったのかは、紅子には分からないままだ。

 綾乃は紅子を抱き締めたまま、ごめんね、と繰り返した。

 ごめんね、ごめんね、ごめんなさい。

 紅子も綾乃を抱き締め返した。そして答えた。

 絶対に許しませんからね――




 ドアをノックする音が響いた。


 紅子はまぶたを持ち上げた。


 そこはカーテンの引かれた部屋の中だった。夢の中の、窓もドアもないのに異様に明るかった部屋ではなかった。


 紅子は、ベッドの上で上半身を起こすと、膝を抱えた。


 夢の中ではなく、現実の中で会って抱き締めたかった。

 紅子はきっと、一生許さないだろう――綾乃を殺した者も、自分の知らないところで勝手に殺された綾乃自身も、だ。


「――紅ちゃん? まだ寝てるのかな……」


 ドアの向こうから声がした。

 慎悟の声だった。


 紅子は一度膝をまっすぐ伸ばしてから、ベッドの下に足を下ろした。

 スリッパに足を突っ込み、ドアの方へと向かった。


 ドアを開けると、案の定そこに慎悟が立っていた。


「あ、起きてたか。おはよう」

「おはようございます」


 少しずつ、慎悟の顔から表情が失われていく。顔を合わせた瞬間は穏やかな笑みを浮かべていたのに、気づいたら目元が悲しげに変わっていた。


「……何か、嫌な夢でも見た?」

「えっ?」

「悪い夢は人に話した方がいいっていうからさ」


 急にどうしたのかと思ったが、慎悟の顔を見上げているうちに、自分のまぶたが重いことに気づいた。

 手の甲で触れようとしてようやく、頬が濡れていることを知る。

 相当泣いていたらしかった。

 夢を見ながら泣くのなど、物心がついて初めてのことかもしれない。

 恥ずかしくなって両手で顔を隠した。


「さすがに、疲れてる――に決まってるか。今、シズカさんとサエさんが朝食を作ってくれてるんだけど、後で部屋まで持ってこようか?」


 首を横に振り、手の平越しのくぐもった声で「大丈夫っす、行きます」と答えた。


「あやに泣かされたんすよ」

「あや? 綾乃に?」

「そう。なんか、あやが夢に出てきて。なんかめっちゃ謝ってたけど、あたし、そういうの、なんか、直接会って、言ってほしかった、って。あやに、なんかこう、めっちゃ、文句、言っちゃって、なんか――なんか、」


 大きな手で、頭を撫でられた。


「紅ちゃんは悪くないよ。……紅ちゃんの、言うとおりだよ。綾乃もきっと、今頃、直接会って言いたかったって、思ってる、と思う」


 またもや目頭が熱くなったが、これ以上の醜態を晒すわけにはいかなかった。昨夜もさんざん泣いたのでいまさらのような気もするが、とにかく、今日はもうしっかりしなければと自分をたしなめた。


「あざっす、もう平気っす! すぐ顔洗って準備して食堂行くんで! 食堂で待っててくださいっ!」


 顔を上げた紅子を見て、慎悟は苦笑した。「無理はしないようにね」と囁くような声で言ってから、食堂の方へ歩き出した。

 慎悟の背中を見送ってから、紅子は大きく息を吐いて肩から力を抜いた。




 食堂のドアを開けると、六人掛けテーブルのうち二卓にそれぞれ四人前と五人前、朝食が並べられていた。

 焼き魚、卵焼き、冷ややっこ、味噌汁、そして盛られた白いご飯――純和風の、旅館や民宿で出される、理想の朝食だった。


 コーヘイとムツミが配膳を手伝っている。

 セントはすでに一席を陣取り、高みの見物をしている。


 あくびをしたコーヘイに、ムツミが「寝不足です?」と問い掛けた。


「昨日はいろいろ考え込んじゃって、なかなか寝つけなくて……」

「まあ、あれだけいろいろあればねぇ」


 セントが「そうやな」と賛同する。


「オレも寝つかれんかった、神経ぴりぴり。あ、白米おかわりある? あと海苔のり

「そのわりには元気そうだけど」

「なんやいけず。そっちは寝れたんけ?」

「エアコンをつけなくても涼しいって環境は素晴らしいなーと思いながら寝ました」

「神経通ってないのんとちゃう?」


 ホール側の方のドアが開けられた。

 入ってきたのはオサムだ。

 大きなあくびをしながら、だるそうにすり足で歩み寄ってくる。女性ホルモンの過多を疑うほど艶やかな黒髪は、寝癖で毛先が方々を向いていた。美人が台無しだ。


「うっわ、朝からこんなに食べられるかな……」

「オサムさんもちゃんと寝られませんでした?」

「僕は普段からちゃんと寝ない人だから……むしろこれだけいろいろあったら早々に眠くなれるんじゃないかと思って期待していたのに、結局三時くらいまで寝なかった、いつもどおりにね……」


 セントが「マイペースやなぁ」と呆れ声を出した。オサムが「君には言われたくないな」と返した。


 窓の外は快晴だ。まだ八時台だが、青い空、緑の木々の向こうに、白い雲が浮かんでいる。蝉の鳴き声はせわしいものの、開放された窓から入る風は涼しい。

 本来この辺りは避暑地であり、夏のリゾート地なのだ。


 厨房からサエが出てきた。丸いトレイの上に小さなグラスを九つ載せている。

 続いて慎悟が顔を出す。麦茶の入った二リットルサイズのペットボトルと『信州りんご100%』というラベルの貼られた一升瓶をそれぞれの腕に抱えている。

 最後に、透明感溢れる氷水のピッチャーを持ったシズカが出てきて、後ろ手でドアを閉めた。


「ほとんどシズカさんが作ってくださったんですよ」


 慎悟がそう言うと、シズカが胸を張って「味わってお食べ」と言った。


「せっかくの私の手料理だからネ」


 紅子が「シズカさんは料理上手なんすね」と呟くと、シズカは満足げに「和食だったら何でも作るヨ」と答えた。


「家のヒトが日本食好きでネ、家で作る時はいつもこんな感じヨ」

「へぇ……で、サエさんは何を担当してたんすか?」


 サエの肩が跳ねるように震えた。


「……ご飯を炊きました……」

「なんか……すいませんでした……」


 それぞれが適当に椅子を引き、座っていく。席がひとつずつ埋まっていく。


 食堂にいた全員が席に着いた時、一つだけ、空席ができた。


 紅子は辺りを見回した。確かに全員座っている。けれど一食余っている。


 誰かが食堂に来ていない。


 順繰りに顔を眺めた。

 紅子のいるテーブルに座っているのは、オサム、シズカ、サエ、セント、そして紅子だ。隣のテーブルに座っているのは、ムツミ、コーヘイ、そして慎悟である。


「あれ、カトーさん、いないんすか?」


 紅子が言ってようやく、他の面々も人数が足りないことに気づいたらしい。「そう言えば」「忘れてた」と呟きながら辺りを見回した。


「一応全部屋ドア越しに声をかけたんですけど、カトーさんのところも、返事がなかったんですよね」


 答えたのはサエだ。


「オサムさんとかセントさんとかも最初は無反応だったので、寝てるのかな、と思って、そのままにしちゃったんですけど……」

「あー寝てそう」


 箸を手に取りつつ、オサムが言った。


「だって、P2のメンバーで、朝に強い奴、いないよね。いつもみんな夕方くらいから集まり始めて深夜まで騒いでたし。強いて言えば、毎朝ちゃんと学校に通っている紅ちゃんくらいで」


 口々と「紅ちゃん毎日立派やで」「僕もしょっちゅう二度寝をしては仕事に遅刻しかけてる」「もう何度仮病を使って寝直したことか」と話し出した面々を眺めて、紅子は溜息をついた。紅子もさほど朝が得意なわけではなかったが、確かに、いつも使っている通学電車に乗り遅れたことはない。


「ちゃんとしたご飯食べられるー聞いて体引きずって来てんやんか」

「右に同じく。もう、食べたら寝直す気満々」


 サエが「まだ寝るんですか」と呆れた声を出した。シズカが「食べるために起きるという強い意志は評価する」と言ったので、だらしのない男性陣は「やったー」と喜んだが、紅子も箸の先を噛みながら鼻で息を吐いた。


「いくら待っても起きない奴は起きない。冷める前にいただこう」


 ムツミのその言葉をきっかけに、全員が「賛成」「いただきまーす」と言いながら箸を手にした。

 味噌汁をすする音、魚をほぐすのに苦戦する声――ほがらかでなごやかな雰囲気だ。


「魚は昨日の朝そこの川で獲れた魚なんですよ。塩焼きでも美味しいって村のおじいさんたちが言ってたんですけど、どうですかねぇ」


 慎悟のそんな解説に、各人がそれぞれの言葉で喜びを表わした。


 紅子も、少し甘い卵焼きを頬張りつつ、シズカの料理の腕を噛み締めた。卵焼きが美味しい寿司屋は何を食べても美味しい、と兄が言っていたのを思い出す。四角く整った黄金色のフォルムといい、ちょうどいいだしと砂糖の加減といい、紅子には真似できない卵焼きだった。

 《ぁゃ》にも食べさせてあげたい。

 この場に《ぁゃ》がいたら、どんな反応をしただろう。

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