第4話 状況を把握して泣いてしまう紅子ちゃん

 紅子には、慎悟が何を言っているのか、まったく分からなかった。

 耳から頭に音が入ってきているのに、その意味を理解できない。理解することを、頭が拒んでいる。


 眼鏡の青年が、「へえ」と声を漏らした。


「もうちょっと、詳しく説明してもらえます?」


 慎悟がうつむきつつ頷く。


「綾乃は、六日前に、埼玉の自宅を出て、こちらに向かったんですけど……、次の日の夜、僕が、掃除は進んでいるのかとか、ガスや電気は大丈夫かとか、確認のためにLINEを送ったんです。でも、既読がつかなくて――だからおそらく、その時点では、もう……。翌日の昼、長野県警から連絡があって、その日の早朝、地元の村人が、川に綾乃が転落しているのを発見したとの報せを受けました。すぐそこの川で、です」


 慎悟が窓の外を指す。吊り橋が見える。


「川まで、高さが、だいたい十メートルあるそうです。なので――頭部が、その、潰れて……即死、だったのではないかと……」


 他の六人は何も言わなかった。すでに同じ話を聞いているのだ。


 眼鏡の青年は「言われてみればこの数日P2であやさんを見ていなかったな」と呟いてから、慎悟に質問を続けた。


「慎悟さんは、綾乃さんがオフ会のためにここへ先入りしたことを知っていたんですね?」


 慎悟が縮こまって「はい」と頷く。


「どうして人死にが出ているのに中止させようとしなかったんですか? 綾乃さんの使っているパソコン用のメールアドレスとツイッターアカウントだったら全員が知っていますし、メンバーによってはスカイプのIDとスマホの番号も把握していると聞いています。そういうツールがあるのに、どうして、綾乃さんが亡くなったことを連絡しなかったんですか?」


 「この様子だとたぶん、僕だけでなく全員が知らずに来たんですよね」と彼が言う。責めるようでもない、淡々とした、滑らかな語り口調であることが、逆に怖かった。

 怖いと感じた。

 紅子の中に、少しずつ、感情が戻ってきた。


「すみま、せん。そこは、僕の、独断です」


 慎悟の目が潤む。


「警察は事故か自殺だと見てあまり熱心に捜査をしてくれなかったんです。でも僕は、綾乃は殺されたんだと思っています」

「根拠は?」

「綾乃自身が、出掛ける直前に不穏なことを言っていたんです。どうしても会って話したい人がいると――あんたのやってるソレは犯罪なんだよと言ってやりたい人がいる、と。あと、できることなら警察に突き出してやらなきゃ、とか。ここ二、三ヶ月くらい、なんだかすごく思い詰めた様子で、精神的にとても不安定で――でも今回、家を出る時には、なんだか吹っ切れた顔をしていたから――ここで、綾乃が何らかの決着をつけられるならいいなと、そう思って送り出したのに――」

「なるほど。つまり、P2には何らかの犯罪に加担している奴がいて、綾乃さんはそれを知って良心の呵責かしゃくに悩み、今回はそいつに自首を勧める決意を固めてここまで来たのに、そいつに口封じとして殺された、と」

「はい」

「大した推理ですね」


 関西弁の彼が「それはお前やろ」となじった。

 麻のシャツの青年が「僕らが二回聞いてようやく理解したものを」と苦笑する。

 眼鏡の青年は「推理小説が好きなんで」と、淡白な回答をした。


「だから、僕が代わりに全員を集めて、綾乃のしたかったことを――それから、綾乃を殺した犯人を、と――」

「それだけで容疑者扱いされるのは困りますね。死者を冒涜ぼうとくする趣味はありませんが、綾乃さんは普段から情緒不安定な方だったので」


 青年の言葉に、紅子も慎悟も体を震わせた。

 彼の言うとおりだった。紅子は《ぁゃ》――綾乃が双極性感情障害を患っていて複数の薬を服用していると聞いていた。死にたいと漏らしたこともある。いつか本当に死んでしまうのではないかと紅子は心配していたのだ。


「――綾乃が、皆さんに送信していたメールを、見ました」


 慎悟が、震える声で続けた。


「ここの、住所が、書いてありました。そもそもここの住所自体、うちの親族しか、知らないはずなんです。その上、ここに一週間前から綾乃が滞在しているということを知っている、となったら――僕と、僕と綾乃の両親、それから――あなたたちしかいません」

「なるほど」


 眼鏡の青年が、腕を上に持ち上げた。頭の後ろで両手を組んで、伸びをした。「やれやれ」と息を吐く。


「動機も、お膳立ても、ばっちりあるわけだ。P2のメンバーのうちの誰かには」


 全員が、黙った。


 動き出した紅子の脳味噌が、今までに慎悟が流した情報を拾い集めて、意味を解析し始めた。


 《ぁゃ》は今、ここにはいない。

 四日前、遺体で発見された。

 十メートルほど下の川に転落した。

 殺された。

 《ぁゃ》は今、ここにはいない。

 《ぁゃ》はもう、ここにはいない。

 《ぁゃ》はもう、どこにもいない。


 突然視界がかすんだ。ぼやけた。世界中が滲んだ。

 頬が何か熱いもので濡れた。


 誰かが「紅ちゃん」と囁いた。


「あやに、会えないんすか」


 何人かが、うつむいた。

 手前に座っていた女性が立ち上がろうとした。


「あっ、あたし、あやに会うの、一番、楽しみにして、たの、に」


 頭に温かいものが触れた。

 眼鏡の青年が、紅子の頭を撫でていた。


「紅ちゃん、あやさんと、一番仲良しだったのにね」


 我慢できなかった。こらえていたものが一気に噴き出した。


「うあああああ」


 誰よりも《ぁゃ》に会いたくて――《ぁゃ》に、自分がいるよと、自分は《ぁゃ》の友達だよと、直接顔を見て伝えたくて、こんな遠くまで来たのに――


 青年がずっと頭を撫でていた。今度は不思議と腹が立たなかった。その手が優しく頼もしく感じた。小さい頃兄に撫でてもらっていたのを思い出した。


 紅子はしばらくの間、涙も鼻水も気にせず、声を上げて泣き続けた。

 それをたしなめる者は誰もいなかった。

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