Ⅲ-18 当事者たちの思惑

 パパには昔から不思議なところがあった。


 例えば毎日の変わらない習慣──起きる時間、寝る時間、夕飯の時間──どんなにバラバラの時間でも、起きるのはわたしより早く、寝るのはわたしより遅く、夕飯は日の入りからきっかり二時間後で、大抵はそこらで仕留めたウサギがメインディッシュに、缶詰めの保存食として出回っている栄養調整されたかぼちゃのスープがたまに付いてくる。


 パパはスケジュール帳を持ち歩いていつも仕事の事を考えていた。わたしが仕事でいない時はパパも何かの仕事をこなしていたみたいだけど、何の仕事かは知らなかったし、深く知ろうとも思わなかった。


 それにパパは絶対に嘘を吐かない。わたしと違ってパパは、はぐらかす事はあっても嘘を吐くような真似はしなかったと思う。何が真実かなんてわからなかったけど、この直感は何となくはずれじゃないって思ってる。


 だから今、わたしが首に痛いほど刃を当てられているのも、パパにとっては決して嘘ではない。


「お前ほんと肝心な所で詰めが甘いよな。どうして最後、踏み込みを甘くした?」


「……っ」


「やたら動くな。服が乱れる」


「……仕切り直そう」


「いや、腹が減った」


 当てがっていたナイフを首から離し、パパはわたしを支える手を自らの腹に当てた。


「俺の手料理は久し振りだろ」


「いつもウサギを焼いただけだった」


「ここに来るまで立ち寄った商店のクソジジイが俺を騙そうとした。手土産さ。魚と野菜の缶詰もある。今日はご馳走だ」


 パパは歩き出し小屋へと向かった。今すぐにでも逃げ出したい。でもそれはきっと無駄な足掻きだ。


 それでも手紙の日までには、何としても逃げ出さなきゃ。



━━━━━━━━



 次の日、私はよく眠れず日が昇る前に起きた。パパは既に起きていて、小屋の中のストーブを使って食事の準備をしながらナイフの手入れをしていた。気配で気付いたパパが目もくれず言った。


「起きたか。水汲みに行ってこい。この辺りならお前、よく知ってるだろ」


「……」


「ついでに顔も洗って来るんだ。顔に蛞蝓なめくじ這った跡残ってるぞ。見つけたら潰しといてやる」


 私は言われるまま古バケツを手に外へ出た。早朝の雪の森はほとんど無音で、鳥のさえずりも聞こえない。微かな音を頼りに歩いて数分、湧き水のように岩場から溢れるそれはせせらぎになって沢に向かって伸びていた。この辺りでは水源は全部崖の周囲の沢に繋がっているから、これを辿れば町へ帰るのは簡単だ。


 バケツに水を汲んでから水面に映る顔を見た。蛞蝓の這ったような跡が二つ、確かに顔に残っていた。冷たい水を掬って顔に浴びせかけると、そんな跡すぐに消えてしまう。どうして泣いていたのかは思い出せない。広い草原を歩いていたらかわいい野ウサギを見つけて、追いかけていたらそのうち海に出て、崖から飛び下りて鳥みたいに飛び始めた楽しい夢を見ていた筈なのに。


 エルネスティーの介抱のおかげか、熱はだいぶ引いていた。まだ体が重い感じはするけど、気にする程の事でもない。頭痛も熱と一緒に引いていったけど、体の痛みは続いている。胸の刺すような痛みと、右脇腹の熱い痛み。


 お腹が冷えるのを我慢してシャツを捲って右脇腹を見た。


「またおっきくなってる……」


 Legion Graineを移植した箇所、熱が出てから最初は薄く浮き出ていたものが次第に濃く伸びて、蛇や蔓みたいな不規則で不器用な形になって、黒い模様がどんどん広がっていた。多分これがエルネスティーの言っていた模様なのだろう。触っても押しても引っ掻いても、熱いスープをこぼしても冷たい雪を当てても、黒い部分は何も感じない。それで、何だか自分の体じゃ無くなっていく感覚もする。乗っ取られていくような、少しずつ足場を崩されていくような、脆い感覚。


 もしかしてエルネスティーの模様もそうなのかな。全身が黒い雫模様に侵されて、体が黒く埋め尽くされて、痛いのも熱いのもよくわからなくなってるのかな。


 わたしと一緒にベッドで眠った時、わたしの体の温度、エルネスティーはどう感じたのかな。


「……もうわかんないのに」


 何でこんな事考えちゃうんだろう。


 レティシアと、パパと、Legion Graine。三重苦に挟まれた、悪夢みたいな現実に引き戻されただけなのに。


「──レティシア!」


 急に呼ばれて肩が飛び跳ねた。見ると声のした方からパパが大股で歩いてやって来ていた。


「遅い。何やってる」


「ごめん……ちょっと、考え事……してて」


「お前が考え事? 冗談きついな」


 さっさと来い、飯が出来た、と言って踵を返すパパ。


 パパの言う通りかもしれない。わたしが考え事なんて性に合わない。パパの言う通りに従って生きるか、素直な気持ちに従って生きるか、多分その二つだ。その二つが間違い無く存在していて後者を選べないのは、後者を選んだところでパパの脅威が消える訳では無いからだろう。誰かと一緒にいるという事は、当然その脅威が自分にとって一番残酷な結果に直結する、という事でもある。


 わたしは服を整えて立ち上がった。バケツを持とうとよく見ると、表面の錆が落ちて水の中に漂っていた。一旦その場に捨て新しく汲み直すと、今度は綺麗な水になる。


 既に先を歩いていたパパが来た時の足跡を辿りながら言った。


「飯食ったら昨日の続きだ」


 わたしは注意深くバケツを持ち直し、それから足跡の無い場所を歩いて行く。小屋へ近づくにつれ漂って来るかぼちゃのスープの匂い。小屋の扉を開けると予想通りストーブの上に開かれた缶が二つ置かれて、その中からコトコト湯気が立っていた。


 パパは缶詰のパンを投げ渡して適当な位置に陣取った。わたしもバケツを置いてストーブを挟んだパパの対面に丸太の椅子を引っ張り座る。パンの缶詰を開けて中身を取り出して、空になったそれを横に置いた。


「レティシア」


 ちぎったパンをスープに浸し、一口目を付けようと口に持ってきた時だった。パパが急に名前を呼んだ。


「お前、町ではどんな風に過ごしてたんだ」


 何でそんな事聞くんだろ、と咄嗟に思った疑問はしかし口からは出て来ない。


「普通に生きてた」


 普通に生きてたって何だよ。そんな答えでパパが納得する訳無い。案の定彼はもう一歩踏み込んでさらに聞いてきた。


「青い魔女のとこに厄介になってただろうが。どうなんだあいつ。町は過ごしやすいのか」


 言葉に詰まる。どういうつもりなんだろう。


「答えろよ」


「……答えたくない」


「どうしてだ」


「言えない。言いたくない」


「随分と強情になったもんだ」


 パパはそれからまた黙々と食事を始めた。意味がわからない。昔から不思議だと思う態度はパパには多かったけれど、こんな会話は初めてだった。依頼の成否や仕事の技術、体調についてその塩梅を尋ねてくる事はあったけど、それらの事務的な問いとは一切関係無いを聞いて来るなんて今までに一度だって無かった。


 これも二年間でパパが新しく学んだ事なんだろうか。親身になったふりをして必要な情報を聞き出す、その手法はますます残虐な時代になるからこそ役に立つと踏んだのかもしれない。人の温もりや優しさを求める人はわたしが知り合った人にも沢山いる。そこでようやくパンを口に放り込んだ。保存食用のそれを温め直しただけの代物は、味が薄くてちょっと薬品みたいな臭いがする。それでもわたしがいなかった二年間なんてパパにはどうって事無い時間だったはずだ。


 そこから一言も話さず二人して食事を終えて、夕方まで休憩無しで訓練をした。


 明日は必ず、逃げ出さないと。



━━━━━━━━



 その日はよく眠れた。朝から晩まで訓練してたら疲れるのも当然だ。Legion Graineでも疲労はどうにもならないと、エルネスティーと木の実拾いに行った時に彼女が言っていた。それでよく寝た分、前の日より体調がいい気がする。


 小屋の中を見渡してもパパの姿は無かった。またわたしより先に起きて何かしているのかもしれない。昨日の内に用意しておいたバケツの水で顔を洗って外に出た。昨夜も足跡が消えるくらい雪が降ったのか、小屋から続く真新しい足跡はひとつだけ。ずっと森の方へ向かって伸びていた。早朝の狩りにでも出たのだろう。食事の準備もされていなかったのがその証拠だ。


 パパはいつ頃小屋を出たんだろう。もし出て行ってすぐなら都合がいい。今日は絶対に、ここから逃げ出して行かなくてはならない。貰った手紙の通りなら今日がその日時だ。


 わたしはポケットに手を入れた。


「あれ」


 無い。


 ポケットの奥にしっかり入れておいたはずの手紙が無い。


 もしかして昨日の訓練で動いている内に、ポケットからこぼれ落ちてしまったのだろうか。そんな事無い。だって寝る時も確認した。だとすると小屋の中?


 小屋に戻って隅々まで探し回った。ストーブの陰、積み上げられた丸太の奥、枯葉袋の中、大して物が置かれている訳でも無い茶色ばかりの小屋の中で真っ白な紙が見つからない訳が無い。


「まさか……」


 どうしてわたしが手紙を持っていた事を知ってたんだろう。パパの前では取り出さないようにしていたから、知っている訳も無い。ただ手紙がないのは事実で、パパがそれを読んでいたら──いくら土地勘が無くたって手紙に書いていたのはこの辺りだし、歩き回っていれば辿り着いてしまう。ひらけた場所で、森の中では珍しく空をはっきり望める場所。エルネスティーと天の川を見た広場。


 あれはエリクからの手紙だった。きっと家の中にこっそり入って書き置きして出て行ったんだ。確かにエリクから依頼を受けて約束の一年が経とうとしている。でも、エルネスティーの前から消えて一度も会わなかった彼が、どうして待ち合わせの手紙なんか書いたんだ。エルネスティーは死んじゃいない、わたしはエリクの依頼を果たしていないのに。


 とにかく、パパは手紙を読んでエリクの待つ場所へ向かったに違いない。エリクはそこでエルネスティーを待っている。そしてエルネスティーも、多分わたしを探して回り、わたしはパパを追う。


「っ……」


 みんな何考えてるか全然わからない。


 でもこれだけは確信できる。もうこれ以上、みんなを誰とも会わせちゃいけない。


 わたしはライフルを持って小屋を飛び出した。

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