Ⅲ-11 其は誰が為の名か

 小さな白い猪に導かれるように私は馬を駆った。煉獄病の流行の際にマルールに寄り添っていた白い猪は、今目の前を走るそれよりもずっと大きかったと記憶している。この白い猪は一体何なのか。


 考えても始まらない。私は離されまいと再度馬を奮い立たせた。やがてタイヤ痕が現れ、白い猪はその痕を一心不乱に辿って行く。白い猪とタイヤ痕を追えば必ずマルールを見つけ出せる。その不確かな根拠。


 少し先を走っていた猪が急に立ち止まった。慌てて馬から降り身を屈んで前方を見ると、あの時の大きな白い猪がトラックに体当りして横転させている。中から命からがら出て来たであろう男の人たちが銃で対抗するも、鋼のように硬い毛皮に守られ皮膚を僅かに擦る程度らしい。目立った傷は見当たらず、猪は牙を振りかざし銃撃する人を次々と蹴散らしていた。


 けれど、相対する男の人たちの様子がおかしい。ふらふらで雪に足を取られながら応戦している。顔色が悪かったり、銃の扱いがわからない風だったり、急に動きが止まったり──何らかの機能障害が出ている様子だった。


 それでも成す術無く一部始終を見ていると、不意にトラック前方の運転席のドアが開いた。中から出て来たのは赤髪の女性、そして、ジョンさんと小脇に抱えられたマルール。彼らは車を降りるとさらに森の奥へ向かおうとしていた。察すると同時に私は馬に飛び乗りトラックを迂回するように走らせた。


「待ちなさい!」


 前方に三人を捉えさらに声を張り上げる。すると赤みがかった茶髪の女性がジョンさんからマルールを引き剥がし、身を翻してその首にナイフを突き付けた。私はそこで馬を止めた。


「ジョンさん……」名前を呼ぶと、苦々しい表情をした。


「……すまない」


「アンタがエルネスティーとか言う女?」驚きと嘲笑に満ちた顔。「まさか本当に生きてるとはね。アルファが世話んなったが先に手を出したのはこのアホ面だ。仲間二人を手に掛けた、償いは受けてもらわないと」


 仲間二人──咄嗟に思い出したのはラスカシェロスでの一件だった。まさかあれから仲間を見つけてここまでマルールを探しに来たなんて。あれからもう数ヶ月は経とうとしているのに。


 けれど、と思う。もしこれが私の研究が引き起こした戦争の成れの果てなのだとしたら。もはや誰のものでもなくなってしまった怒りの感情が、争いを次なる争いへの火種へと変質させている。個人的な怨みの範疇で復讐に身を焦がすだけの、戦争継続の歯車として人々に組み込まれてしまった。


 本当に、私は。


 本当に、大切な事を放り投げて、何一つ知らないまま生きてきてしまっていた。


「それでも……」


 身勝手だとわかっている。


「マルールは返してもらいます」


 女性が笑った。痛烈な、刺すような笑みを。


「何言ってる。こいつは元々Cold Boar、あたしの仲間だったんだよ。丁度を探してた。罪滅ぼしはこいつの働きで償ってもらうさ」


 Cold Boar。マルールがずっと恐れていた事のひとつ。


「あなたはマルールの……」


「あたしかい? この子のさ。レティシアと名付けたのはあたし。だからこの子の生き方はあたしが決めてやるんだ。トワイズに預けたのは間違いだったね、とんだバカ女になっちまった」


 マルールの、生き方──。


「エルネスティー……そこにいるの……?」


「マルール!」


 首に得物を向けられたマルールが目を虚ろにさせながら呟いた。状況の判断も付いていないかもしれない。


「あんたら二人とも口閉じな。ジール」


「姐御、本気か?」


「ああ本気さ、やっちまいな」


 驚愕の表情で女性を見るジョンさん。彼は腰から拳銃を取り出し、躊躇したような一瞬ののち振り抜きの勢いで発砲し、弾が腕を僅かに逸れ馬の胴体へと着弾した。突然の痛みに暴れた馬は私を雪に放り投げバランスを崩し自らも倒れる。肺の辺りから溢れる血、この場ではもう助からない。


「……え」


 しかし次の瞬間には予期しない事が起きた。巻き戻したかのように傷口から弾が出て来て血の流れが止まり、荒々しい息遣いが収まると、馬はゆっくり立ち上がる。それから乱れたたてがみを振って整え、また優雅に待機してみせた。


 雪に埋もれたまま、私はマルールを見た。煉獄病の発生の際、森の中でシャツの右脇腹に血を滲ませ倒れていたマルール。あの時もしかしたら、何らかの理由で死に瀕した馬にLegion Graineを移植したのかもしれない。


 呆気に取られているのはジョンさんたちも同じだった。咄嗟に立ち上がった私は女性に向かって駆け出すと、勢いのまま体当りして厚い雪の上に組み敷く。多勢に無勢だとわかっている。ジョンさんに拳銃を向けられている事も。


「っ……どうしてこいつに肩入れする?」


「わかりません」


「わからない? 正気の沙汰じゃないね」


「それはあなたたちも同じではないでしょうか」


 マルールが手に掛けてしまった二人はどちらも急所を正確に捉えるものだった。いくら至近距離でも内太腿の大動脈を寸分の狂い無く撃ち抜くのは並大抵の技術ではない。そんな事、彼らの方が余程よくわかっていたはずだ。どんな人となりを想像していたとしても、数ヶ月を費やして追い掛け、罪滅ぼしを願うのはそれこそ正気の沙汰と思えない。いとも簡単に命が消える時代に身を寄せていればこそ。


「笑えるよ、死ぬのが怖くて生きてられるかってんだ。ジール」


 私の側頭部に拳銃を向けているジョンさんは黙っていた。気配でもわかるほどに銃を持つ手が震えているのがわかった。


「ジール、殺られる前にやれ。それがあたしらの生き方さ。あたしたちが持つのはガキのおもちゃじゃない。いい加減その小さいイチモツくらい自分でしごけるようになりな」


「──いくら撃たれても助けてもらった恩義は本物だ。それは、やっぱり裏切れない」


「アンタを助けたのはあたしだよこいつらじゃないあたしの言う事を聞くんだ。でなきゃその生耳、後で引き千切ってやる」


 それでもジョンさんは頑なに引き金を引こうとしなかった。銃口は相変わらず向けているけれど。


「ジョンさん……」


 そこで耳に飛び込んできたのは、またも弱々しく呟くマルールの声だった。 


「わたしが、二人を殺した……エルネスティーは関係無い……だから……酷い事しないで……」


 マルール。「私は──」


 咄嗟に答えようとしたが、下に組み敷く女性が大きく声を張り上げた。


「はっはっ! 大した肝っ玉、心意気だけは達者だね! いい事思い付いたよジール。その子の手足に一発ずつお見舞いしてやりな。達磨になっても使えない訳じゃない。それならできるだろ?」


 顔の横に鈍色の銃口が見えた。マルールを向いて、その手はやはり震えていた。この人は本当に撃ちたくないのかもしれない。


 だから咄嗟に言い放った。


「ジョンさん、マルールは」


「え?」


「マルールは、殺せません」


「何言ってるんだ、いきなり」


 銃口をこちらに向け直してジョンさんは慄いた。すると女の人が顔を愉快そうに歪めながら言った。


「そいつは本当かい? 青い魔女、アンタが不老不死だって事は知っていたが、まさかレティシアまで同じになっちまったとはね」


「姐御、もう、俺にはさっぱり。だってお伽噺だろ」ジョンさんが掠れた声で戦慄わなないた。銃口をどちらに向けるべきか考えあぐねているようだった。私とマルールの間の虚空を小刻みに揺れ動き、定まらなくなっていた。


「イェクから聞いてた。パンダ模様の青い魔女に助けられたって」


「……」


「アンタがエリクと名付けたからCold Boarは離散した。生きるために寄り集まっていた、あたしたちの絆はバラバラになった。こうなったのは全部アンタのせいなんだよ、青い魔女」


 私のせい、その通りだ。全部、何もかも私のせい。


「あなたは、生き方、とおっしゃいました」


「あ?」


「私が彼女にマルールと名付けたのは、その理由はお分かりですか」


「……」


 マルールという名前は。


「忘却……忘れて欲しいと願いました。不運も忘れてしまうほど、それ以上に幸せであれと」


 これまでの全てを捨て去ってしまいたいと、今でもそう願っている。


 下に組み敷く彼女が言った。


「……幸せな喜び。あたしは、クソ同然の事ばかりの世界でそれでも忘れて欲しくなかった」


 そう言い終え左眼のレンズからふと光が消えた。彼女は沈黙し、それから告げた。


「アルファ」


「あ、姐御、俺どうしたら」


「どうやらあたしたちはまんまとこいつの手の内で転がされてたみたいだよ。……周りを見てごらん」


 ジョンさんが周囲を見渡し力無く得物を落とした。それから両手を後頭部で組んで雪の上に膝を着いた。私は馬乗りになって組み敷いていた彼女の体から立ち上がり、マルールの方へ駆け寄った。


「マルール」


「エルネスティー……酷い事、されなかった……」


「ええ。もう大丈夫」


 熱がある。頬が赤い。額にも大粒の汗をかいている。私でさえ時折風邪のような微熱が現れる事はあるが、休まなくとも半日と経たず平熱へ戻ってしまう。Legion Graineを取り込んでいる体でここまで酷い発熱は初めてだ。


 一体、この一晩で彼女の体に何が起きたの。


「エルネスティー殿、マルール殿は無事かね!」


 事態が収束した事でこちらへ駆け寄るベルトラン町長、それにシュトートと白い猪。私はマルールを抱き起こしながら言った。


「ええ、ですが原因不明の熱があります。早く戻って安静にしないと」


「ううむ。それなんだが」


 私がマルールを支えながら立ち上がるとベルトラン町長は苦渋の表情を見せた。


「同伴の医師の見解によると、どうやらあの女性の仲間たちは何らかの中毒症状が見られるようだ。十数人余りが適切な治療を受けられていないらしい。トラックは横転して使えない。あの二人も拘束し、できれば彼らを先に町へ運びたいのだが……」


 様子がおかしいと思ってはいたが、そう考えると有毒ガスを吸引した可能性がある。悠長に構えてはいられない。


「勿論です。そちらを優先に」


「感謝する。この場所から少し行った所に薪用の材木を保管する山小屋がある。少々手狭だが外にいるよりは良い。そこで待っていてくれ、じき戻る」


「ええ、わかりました」


 私はマルールを立たせ、肩を貸しながらゆっくりした足取りで山小屋を目指した。言われた方向へ少し歩くと木々の間から件の山小屋が見えたので、一旦そこに身を寄せる。シュトートたちは外で待つのか、雪遊びを始めたのでそのままにしておいた。


 山小屋の中には大量の丸太と枝、粗い目の網でまとめられた枯葉の山と簡素なストーブがあり、枝と枯葉を並べて備え付けの火打石で火を点けた。狭い小屋は数分も待つとすぐに暖かくなり、マルールも幾分落ち着きを取り戻したかのように見える。


 丸太の山に身を預け、項垂れながら細く粗い呼吸を繰り返す姿を見て私はふと立ち上がった。小屋の中にあったバケツに雪を満載し、ストーブの熱で溶かしたそれに外したマフラーを浸ける。絞って額や首に滲んだ汗を拭うとだいぶ心地好くなったのか、依然朦朧としながらも話せるだけの意識を取り戻した。


「ここは」


「山小屋よ。少し問題が起きて留まってる。すぐ帰れるわ」


「そっか……わかった……」


 そう言うと、またすぐ彼女は力無く項垂れた。


 けれども、次の瞬間にはそのまま話し掛けてくる。


「聞いてたよ。わたしの」


「……」


「ね、エルネスティー」


 マルールは大きく息を吐き、力を込めて立ち上がり私へと倒れるように身を預けてきた。


「ちゃんと、意味、考えて付けてくれてたんだね」


「ええ」


「ほんとに……」


「マルール?」


「その……な……」


 弱々しい声になって、それからずるりともたれ掛かって、マルールは気を失った。

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