Ⅲ-5 受難相して汎称す
「ただいま。持って来たよ」
開け放ちにしておいた扉をくぐって声を掛けると、そこには熱心な様子でノートに鉛筆を走らせるエルネスティーと何か話してる男の人の姿。トレーをサイドテーブルに置いて進捗を訊ねた。
「問診が終わったわ」
「何かわかった?」
「記憶に関する事は無い。後遺症があるのか手足の痺れと頭痛が少しするそうよ。薬を取ってくるからマルールに食事を任せたいけど、いいかしら」
「うん、いいよ。男の人……えっと、名前は」
「ひとまずジョンと呼んでもらうよ。古い言葉で名無しを意味するそうだ」
「了解、ジョンさんだね。エルネスティーは薬取って来ていいよ。手足が痺れてるんじゃスプーンも上手く持てないだろうし、わたしが食べさせとくから」
「ええ。でもゆっくり時間をかけるようにして。急に食べ物を胃に入れると戻してしまうかもしれないから」
「うん。いってらっしゃい」
エルネスティーを見送ってから、さて、と器を手に取ろうとした時、ふとジョンさんがこちらをじっと見つめている事に気がついた。
「どうしたの? わたしの顔に何か付いてる?」
「いや……、こんな若い女の子に食べさせてもらえるなんてな、と思って」
「はあ。最近よくいるんだよね、そう言って口説こうとする男の人。ジョンさんもその口でしょ」
「いや、はは、まいったな」
まったくう、と思いながらなみなみとコーンスープが盛られた皿を手に取った。
「食べさせていい?」
「ああ、頼む」
スプーンで一口掬って彼の口に持っていくと、そのまま口元を寄せて食べてくれる。エルネスティーに言われた通り、時間をかけて少しずつ飲み込んでいるようだった。口端がほんの少し弧を描く。
「あの、ジョンさん」
「ん、なんだ」
「その、こんな事になってごめんなさい」
わたしが謝るとジョンさんは怪訝な表情をしてみせた。突然謝罪される意味がわかっていないらしい。
「こんな事って言うが、俺がこうなったのは誰かのせいなのか?」
「えと……わたしが森で猟をしている時、間違ってジョンさんを撃っちゃって、それで弾が頭を掠って、衝撃のせいでジョンさんは記憶を失って」
「森で猟、君が。でもどうして間違えたんだ?」
「見間違えちゃったんだ、猪と。見かけた時ちょうどジョンさんの後ろ姿が雪を掘っている猪に見えたから」
「猪か。まあこんな結構な体躯だからな。仕方無い。それにしてもどうやってここまで運んで来たんだ」
「担いで来たよ。雪の森じゃ馬車も荷台も立ち往生しちゃうから」
「そいつはまた難儀だな。大変だったろ」
「それは否定しない……」
苦笑いしながらやんわりと答える。思い返せば重かったような気もするけど、あんまり必死だったからよく覚えていなかった。いつだったかエルネスティーを階段でおぶった時もそこまで重いとは感じなかった。だから、今回も覚えていないという事はそれほど苦ではなかったかもしれない。
「それよりスープ食べちゃおう。これおいしいでしょ、エルネスティーが作ってくれたんだよ」
「エルネスティーってのは、あの青いクロークを着て、目の周りに真っ黒い刺青をしている変わった少女か」
「え、あ、うん」ジョンさんに改めて容姿を説明されてふと気付いたけど、たしかに「変わった少女」だ。「エルネスティーは何でもできちゃうんだよ。賢いしかわいいし、わたしが一番好きな人なんだ」
そう言うわたしに、ジョンさんはにやりと笑った。
「女が女を好きなのか」
「そんなの関係無いよ。でも……」
「でも?」
わたしはそこで言い留まってしまった。前からずっと心に抱いてきた気持ちが出会って間も無い人にわかる訳がない。それでもジョンさんはじっと待ってくれて、催促する素振りは見えなかった。わたしが顔を俯かせると、食事の続きがしたいと顔で示してくれた。どうやら多くを聞くつもりはなかったみたい。
コーンスープを数口ほど、ゆっくりとジョンさんに食べさせていたらエルネスティーが帰って来た。手には色とりどりの錠剤や粉のお薬が載せられた小さなお皿とお水のコップを持っている。まるでお薬のサラダディッシュ。
「食事が終わったら、これを飲んでもらいます」
「それ全部をか」
「ええ。手足の痺れを緩和するだけでなく、脳機能の一時的な補助になる薬や痛み止めもあるので、我慢して飲んでいただくしか」
目を背けたくなる薬の量にわたしは思わずジョンさんの顔を見るが、当のジョンさんはそこまで気にしていない風だった。それどころか、鉄面皮でずいとお皿を差し出すエルネスティーに爽やかな笑顔すら向けている。
「なるべくお腹に食べ物を入れてから、後でマルールに飲ませてもらってくださいな」
「ああ」
「じゃあマルール。少しの間彼の事は任せたからよろしくお願い」
「え、またどっか行っちゃうの」
唐突に告げられたおまかせ宣言に、わたしは思わず問い直した。
「薬の材料を買う用事を思い出したの。それにジョンさんの着替えだって、ミゼットおばさんに用意してもらったのを取りに行かなきゃならない」
「そっか……。じゃあ行ってきて。ジョンさんはわたしにどんと任せちゃってさ」
わたしがお薬のお皿を置いて胸に握りこぶしを当てた。エルネスティーにちょっぴり不安そうな目を向けられつつも、わたしが笑顔を見せると小さく溜め息を吐いて微笑んでくれた。そうして彼女を見届け、ジョンさんにスープを食べさせる作業に戻った。
「マルールだっけな。どうもありがとう」
「いいよ。ジョンさんを大変な目に遭わせちゃった事に比べたら、こんなの」
コーンスープを食べさせてからジョンさんはお薬を飲んで、それから神妙な様子で言い放った。
「それにしても、俺の記憶が抜け落ちたなんてな」
「ほんのちょっとでも思い出せない?」
「さあ、さっぱりだ。名前すら」
ジョンさんは片手で頭を抱えた。包帯を巻かれた頭をさすり、大きな溜め息を吐いた。
「実はわたしもね、ジョンさんとはちょっと原因が違うんだけど、記憶喪失なんだよ」
「君も?」
ジョンさんが怪訝な表情で聞き返したので、わたしは他愛無い話のひとつとしてこの数ヶ月間の経緯を話す事にした。アンルーヴ手前の崖で足を滑らせて大怪我を負い、そこで偶然エルネスティーに助けてもらった事、起きてみたら記憶喪失になっていた事、いろんな人と出会って助け合った事、少しの旅をした事、喧嘩したり、笑ったり、泣き合ったりした事。本当に色々な経験を話した。それら全てジョンさんは熱心に聞いてくれた。
「記憶を忘れちゃって、もしかしたらわたしには家族とかいたんじゃないかなって思う時もあったけど、戻らないなら戻らないなりに生きようって最近は思い始めてる」
「前向きでいいじゃないか。きっと誰も咎めやしないさ」
「うん。そうだといいな」
アンルーヴへライフルを抱えて向かっていたのはエルネスティーを殺すためかもしれない。それにわたしのパパはわたしに人の殺し方を教えていた人だ。そんな不安が鎌首をもたげているのは変わらない。でもそれは今の時点では不確定要素に過ぎない。
今本当に大事なのは、わたしはエルネスティーが好きで、彼女とずっと一緒にいたいって事だけ。
「ねえ。ジョンさんにも家族とかいたのかな」
何気なく呟いて、彼は答えた。
「どうだろう。ただ、誰かと一緒にはいたような気がするんだ」
「誰かって」
「それはわからない。ただ一緒にいて楽しかった……そんな感覚がある」
一緒にいて楽しかった。感覚的なもの。感覚的な誰か。ジョンさんにはやはり親しい家族のような存在がいたのだろうか。こんな風に思うのは後ろめたいけど、やっぱりちょっと、羨ましいな。
「誰かと一緒にいたなら、早く記憶が戻るといいね」
「そうだな」
それからわたしはジョンさんに必要なものが無いかを尋ねた。すると彼は、自分の所持品は無かったかと聞いていた。それでわたしは快く頷いた。ジョンさんの私物は部屋の一角にまとめて整理していて、それらを抱えてイスに座り直した。大きな革のコートにブーツ、携帯食料と衣服と生活用品が少し入った背嚢、それと、バッグに包まれた重たい何か。
衣服や生活品は手に取って一瞥するだけで特に興味を示さなかったジョンさんも、バッグの中身には興味が湧いたらしい。手に取ってしばらくしげしげ見つめた後、彼はおもむろに呟いた。
「これの中身は何か知っているか?」
わたしは首を振った。「ううん。重たいし大事そうに入ってるから、中を見たりはしてないよ」
するとジョンさん「そうか」と答えると「中を見てみても?」と聞いてきた。
わたしはもちろん同意した。元よりこれはジョンさんのものなのだから、わたしが否定する理由は全く無かった。彼はバッグの葢を開け中身を覗き込んでみた。
「どう?」
「いや、これは……」怪訝な様子。「何かの部品なのか、鉄の箱みたいなものが入ってる」
「それ、わたしにも見せられる?」
ジョンさんがあまりにも複雑な表情を見せるものだから、ついそう提案してしまった。それでもジョンさんは意に介さずわたしにバッグを差し出してくれる。手渡されたその中身を見てみると、たしかにジョンさんの言う通り鉄の塊のようなものが入っていた。幾つか色付きのスイッチが付いているだけでそれがどんな機能なのかは掠れていて読めない。それに、のっぺりしていて味気無い。
「思い出す事ある?」
「いや……」
依然訝しげな様子でバッグから出てきたものを見やるジョンさん。
「手掛かりになりそうなのはこれしかないけど、どうする?」
「そうだな……。考えたところで思い出すような記憶でも無いみたいだし、ひとまず水が飲みたいんだがいいかな。まだ少し喉が渇いているみたいだ」
見ると、水差しの水はすべて無くなっていた。先程の食事と薬の服用で飲みきってしまったらしい。それでなくともジョンさんは一週間も目が覚めなかったのだから、喉が渇いて仕方ないのは理解できた。わたしだって一度死んでから目覚めた後の食事量の変化は自分でもわかってしまうほどだった。
「ごめんね、気付かなくて。今持って来てあげるからちょっと待ってて」
「ああ、頼むよ」
わたしは水差しを手にキッチンへと向かった。それからもう一度水差しの中身が無くなるまで二人で色んなお喋りをした。ジョンさんの面倒を見て寝かし付けた頃合にエルネスティーが出先から帰って来たようで、わたしたちは休憩がてらキッチンで一服する事にした。
それで、ジョンさんから聞いた僅かな情報を伝えると、彼女は一瞬悲しそうな表情を見せてこう言った。
「私の周りには、何かを失った人ばかり集まってしまうのね」
「え、えっと。そんな事無いと思うよ」
「いいわ。慰めを貰うための言葉ではないから。事実だもの」
どうしよう。何か声を掛けてあげたいのに言葉が上手く出てこない。それに、どうしてエルネスティー、さっきからこんなに悲しそうなんだろう。
「……」だめだ、わかんない……。
「マルール」
「あっ、はいっ」
「夕飯はジョンさんの分も作るから少し多めになるけれど、鮭が多く減っても構わないかしら。今夜はクリームシチューにしようと思うけど」
「ジョンさんには早く元気になってもらわないとだし、全然構わないよ。あでも、イクラのソイソース漬けだけはジョンさんには内緒だからね」
「ええ。わかった」
もしかして何か不満があるのかな。エルネスティーはわたしと一緒にいて何が欲しいんだろう。平穏な毎日、美味しいご飯、楽しい会話、些細な事件。それともやっぱり、エリク、なのかな。
わたしは小さく首を振った。そして飲み干したカップをシンクに置くため立ち上がった。カップをシンクに置いて振り返るとテーブルにコーヒーの丸い染みが残っていて、それを布巾で綺麗に落とした。
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