Ⅲ-1 時に当たりてこれを悔やめば

「エルネスティー!……あれ?」


 家に着くなりキッチンに向かい、エルネスティーを呼んだ。しかしキッチンはがらんとしていて紅茶の残り香さえしない。どうやらここには長く居座っていないらしい。わたしはダイニングテーブルの上に男の人を横たわらせると、エルネスティーを探した。


 実験室、書庫、シャワールーム、色々探して見付からずピンと来たのは彼女の自室。思い立って行ってみると、ドアに下げられたプレートは「ノックしなさい」の面が向けられていた。


「エルネスティー、いる? いるなら出て来て」


 ノックして呼び掛けるとドアがゆっくり開いた。


「帰ってたのね。どうしたの」


 シャーレとピンセットを手に出て来た彼女にわたしは落ち着いて説明した。


「あの、実は狩猟中に間違って人を撃っちゃって、エルネスティーにすぐ診てもらいたいんだ」


「今どこに?」


「家まで運んでキッチンのテーブルに寝かせてる」


「状態は」


「血が出てた。でも、頭を掠っただけだと……」


 そう思いたい。


「医務室に連れて詳しく診ないとわからないわ。マルール、運べるかしら」


「うん」


 エルネスティーはシャーレとピンセットを自室に戻して医務室へ向かった。わたしはキッチンに戻り男の人の様子を確かめる。まだ微かな息遣い。彼を担いでエルネスティーの待つ医務室へと向かう。


 医務室で彼女はベッドの上を片付けていた。消毒薬や注射器の準備はもう済ませていて、わたしは男の人をエルネスティーの介助を借りながらゆっくりベッドに横たわらせた。それから彼女はすぐに剃刀で髪の毛を剃り始める。露わになった患部は切り傷になっていて、血は止まっていなかった。


「少し席を外していて」


 患部を見ながら退室を促す言葉に頷き、医務室を後にした。掠っただけかもしれないと言っても恐らく何針か縫う事になるかもしれない。そうなると一時間やそこらでは終わりそうもないだろう。緊急事態で少しお腹も空いたし、何より緊張で喉が渇いた。治療が終わった後、すぐにエルネスティーと一服吐けるように、キッチンで紅茶を淹れながら待っていたい。


 そうしてわたしはキッチンに着くと、紅茶を淹れたりクッキーの用意をしながらエルネスティーの治療が終わるのを待っていた。



━━━━━━━━



 エルネスティーがキッチンに現れたのは、それから三時間経ってからの事だった。


 いつまで経っても彼女が来ない事にそわそわしながら、何十枚目かのクッキーを紅茶で流していた時キッチンの扉がかたりと開いた事に気付き、顔を向けるとエルネスティーが疲れ果てた様子で溜め息を吐きながら入って来たところだった。


 おつかれ、そう言って彼女が椅子に座るのを見届け、すごく時間かかったね、どうしたの、と恐る恐る訊ねてみた。彼女はまた力無い様子で、大変な手術になったわ、と答えた。


「手術? そんなに酷かったの」


 縫えば大丈夫とばかり思っていたから、彼女の意外な言葉に驚いてしまう。


「掠っただけというのはマルールの言葉の通りだった。でも、被弾の衝撃で頭蓋の一部が骨折していた。幸い脳自体に外傷は無いけれど、気掛かりな事がある」


「気掛かりな事って」


 わたしは新しく淹れておいた紅茶を取り、カップに入れてエルネスティーに差し出した。彼女はそれを受け取って、砂糖の瓶からほんの少しそれを加え入れると、少し温度を確かめてから間髪容れずに口を付けた。その後置いたカップの中身は半分まで減っていて、どうやら彼女も大分疲れているらしい事がわかった。


 そして、眉間にしわを寄せ、紅茶を見ながら言った。


「衝撃のせいで脳機能に損傷が生じたかもしれない。だから目が覚めた時、何らかの障害が出たり、記憶の一部に欠落が見られる可能性がある、という事よ」


 え、という声も出せなかった。


 それはつまり、わたしのせいで男の人は記憶を失うかもしれない、という事だろうか。


「驚くのは無理無いわ。でも、マルールが気にしても仕方無い」


「そう、かな……」


 エルネスティーはそう言ってくれたけどわたしは全然気が気じゃない。だって男の人にも大切な人はいただろうし、記憶が無い事に不安を覚える事もある筈だ。わたしがヘマさえしなければそもそも怪我だってしなかった。


「エルネスティーが手がけた手術だから、心配はしたくない。でも……」


 その先を言いあぐねると彼女が言った。


「あなたの記憶に関する複雑な感情は理解しているつもり。だからこそ余計に、私の言葉で気に病まないで欲しいの。……」

 

 ティーポットを置き、イスに腰掛けながら問うと、紅茶に向けている彼女の瞼が動いた。何か言い掛けたような、そんな一瞬。


 次の言葉を待っているとそのまま数分が流れた。わたしの事で不機嫌になっている訳でも無さそう。それでもわたしから言い出せそうな話題も無く、さらに数分辛抱強く待っていると、ついに口を割ってくれた。


「……マルールは、いつかこの夢が覚めるかもしれない、そう考えた事がある」


 真意がわからないが、「ううん。別に」と答えた。


「じゃあ、私と過ごしているこの時間が実は夢で、いつか覚めてしまうもので、……マルールがまた、レティシアと呼ばれる環境に引き戻されてしまう事は」


「それは嫌だし、考えたくもないよ」また、人殺しを生業にしなきゃならない生活に戻るなんて死んでも嫌だ。「でも、どうしてそんな事聞くの」


 するとエルネスティーは紅茶から目を離し、わたしの顔を見てくれた。


「怖い?」


「そりゃ、今この時間が夢なんだとしたら覚めるのは怖いよ。わたしにとってはエルネスティーといる時間が一番大切なんだもん」


 それにエルネスティーと出会う前のわたし、きっと毎日が悪夢だったと思う。


 付け加えると、エルネスティーはようやく微笑む程度に笑ってくれた。


「マルールらしいわ」


 私も同じ気持ち、と言う。


 それはつまり、わたしと過ごす今の生活がエルネスティーにとって当たり前のものになった、そういう事なのだろうか。でも何だか心の底から素直に喜べない。この気持ちはきっと彼女とは違う。そうして彼女の言葉の次に放っていいそれがわからず、わたしは口をもごもごさせた。いつもの彼女がそんな言葉を放ってくれたなら、きっとわたしテーブルを飛び越えて彼女に抱き着いた。けれどそんな気分にはとてもなれなかった。


「……今日のエルネスティー、いつもと雰囲気違うね」


「久し振りに大手術をしたから」


 エルネスティーはそう言って残りの紅茶を飲み下した。


「マルールこそ今日は疲れているんじゃないかしら。雪深い森の中を男の人を担いで帰って来たんでしょう」


「疲れてるけど……エルネスティーほどじゃないよ。今日の夕飯はわたしだけで作るからエルネスティーはゆっくり休んで」


「ありがとう。でも平気よ」


 彼女は先に立ち上がってキッチンに立ち準備を始めた。そんなエルネスティーの隣に、わたしも飲み干したティーカップを持って立つ。そこに立った感覚も、いつものエルネスティーの感じだ。


 先ほどまでの違和感、というかエルネスティーの異変は何だったのだろう。やっぱり男の人が気掛かりなのかな。


 彼女の隣で食材の準備をしながら思うが、結局異変の原因ははぐらかされてしまった感じで聞き出す事ができなかった。けれども、食事の準備を始める時にはもういつものエルネスティーに戻っていたし、そんなに深く考える必要も無いかな、と思うのもまた事実だ。


 とにかくいつものエルネスティーに戻ってよかった。そんな事を思いながら、わたしは下げたティーカップに泡立った海綿のスポンジを当てたのだった。

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