序章Ⅲ
──だいぶ歩いて来た。
大きく一歩踏み出すたび、新雪のきしむ心地いい音がする。首を捻って振り返ると、足跡が森の奥からずっと続いていた。
それを見たわたしはひとつ息を吐いた。真っ白い吐息がマフラーの隙間から漏れて、鼻先が湿り気を帯びる。
ちょっと休憩しようかな。
寒風をしのげそうな手頃な穴ぐらを先に見つけると、剥き出しの木の根っこに腰掛けた。ライフルと獲物を下ろして、背嚢に入れた小包を取り出す。マフラーを口元から少し下げ、ペッカリーの革の手袋を脱いで、薄い樹皮で出来た包みをやさしく取り除くと、そこには三個のおむすび。あんまりご飯が真っ白で、うっかり雪に落とそうものなら雪解けまで見つかりそうもない。注意深く両手で持って、大きく一口頬張った。
時間が経っている割に、まだご飯は温かい。寒い野外にぴったりの温度と、塩味とほんのりしたご飯の甘さが、疲れた体に染み渡る。中身は焼き鮭。冬に入る前にイゾーの魚屋で買った切り身を、焼いて入れてくれたのだと思う。
そのままもぐもぐしながら獲った動物をちらりと見た。食事中に見るのは少しはばかられたけど、今日はすごく調子がいい。傍らに置いた三羽のウサギを見た後、口元が緩むのを感じた。秋からずっと動物を獲って、その革をミゼットおばさんへのツケの代わりにしてきたけれど、この三羽でようやく全額支払えそうだ。冬に入ったばかりでちょっぴり気が滅入っていたけれど、いい滑り出しだと思う。
おむすびも食べ終わり、身だしなみを整えると、ライフルと三羽のウサギを肩に負い、穴ぐらから抜け出した。
さて、どっちの方向に獲物がいるか。
コートの隙間から入り込んでくるほど鋭い寒風に神経を尖らせ、新たな獲物がいそうな方向を感じ取り、わたしは適当に歩き出した。
しばらくとぼとぼ歩いてふと空を見上げると、雲の色が黒鉛色に変わってきた事に気づいた。昼食まではまだ明るい灰色だったから、雲行きが変わってしまったのだろう。雪が降り始めてしまったら視界が悪くなり、町へ戻るのが難しくなる。ここらへんで猟をやめた方がいいのかもしれない。
帰宅を決めて、わたしは踵を返した。すると、ここに来るまでに見えていなかった場所が目に映った。積もった雪が風によって大きな吹き溜りになっていたらしい。そして、その吹き溜りのさらに向こう、何か大きな茶色いものが禿げたブナの樹の袂で動いているのが見えた。
もしかして猪かな。
もし捕まえられたら大捕物だ、猪なんて滅多に見かけられる動物じゃないし──しかも遠目でかなり大きい事もわかる。どうやって持ち帰るのかは後で考えるとして、冬の非常食として猪ほど都合のいい動物もいない。わたしは大きな雪の吹き溜りの影に素早く身を移動させた。
まだ気付かれてない。
三羽のウサギをゆっくりと置きライフルを構えた。素の状態のそれはスコープなんて付いてないけど、大丈夫、この距離でも充分仕留められる。少し音が立ってしまうのを承知で弾を銃身に装填する。それでもまだ気付かれない。銃身を吹き溜まりで支え、猪を銃口で捉えた。しっかり一撃で仕留められるよう、狙うのは頭。
引き金に指を寄せて、ゆっくりと、ゆっくりと力を込めてゆく。
よし。
「──っ!」気付かれ──。
咄嗟に引き金を引いた──獲物が倒れた──当たった?
わたしはウサギをその場に立ち上がった。雪を蹴散らしながら急いで確認しに行く。逃げようとしない、立ち上がろうともしない。もしかしてうまく仕留めたのかな?
逸る気持ちを抑えながら駆けていくと、そこにはやはり茶色い影が、額の上から血を流して倒れていた。
でも。
「っ……」
そこにいたのは猪ではなく、苦悶の表情で倒れる男の人だった。
まだ息がある。
彼の口元に淡く立つ白息で我に返された。銃弾は頭を掠めただけなのかもしれない。しかし、流れる血の量から見るに危険な状態だった。
「エルネスティーに診てもらわなきゃ……」
ライフルを樹の幹に立てかけ、無我夢中で駆け寄り男の人を担ごうとした。でも、冬の装備をした大人の男性を担ぎ上げるなんて土台無理な話で、背に乗せた途端その重さから足がくずおれる。雪深い森を抜けなきゃならないのに、この重さではそれも難しい。何か持ち物があるなら、少しでも置いていかなきゃならない。
わたしは彼を一旦下ろして、コートの中にしまっていそうなものを探し始めた。
「なんだろ、これ」
コートのボタンを外して脱がせ、真っ先に見えたのは幾つか形の違うケースがぶら下がった腰バッグ。蓋はボタンで留められ中身はわからない。それと、少しの日用品が入っているらしい背嚢。
「うん……しょっと」
その荷物たちを自分のライフルの横に置き、もう一度彼を担いでみた。これならいける。
そのままわたしは何度か雪に足を取られながら、エルネスティーの待つ家へと急いだのだった。
けれど、家に着いたのは、それから数時間経った後、日も落ちようとしている頃だった。
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