Ⅱ-12 ささやかに喚び起こされるは嘗て

 エルネスティーの昔話を聞いてから部屋掃除を済ませ、紅茶で一服した時のことだった。


「今日言う事を何でもしてくれるというなら、明日もそんな約束をしてくれないかしら」


「エルネスティーの頼み事ならいつでも聞いてあげるよ?」


 とまあ、昨日はあれからこんなやり取りをした。


 わたしの目の前にはいつもの青いクロークに身をまとった彼女がいて、朝ご飯を一緒にしている。


「昨日の約束覚えているかしら」


「うん、当然」


「じゃあ……」と、彼女は改まった様子で向き直って言った。「一緒に散歩して欲しいの」


「え?」それってつまり。「デート?」


「ダメかしら」


「そんな訳無いよ。すっごく嬉しい。でも、何でいきなりそんな事言うのかなあって思って。不思議だなあって」


 率直に疑問を言うと、彼女は無表情の顔をわずかに逸らし、「一緒に外を歩くの、楽しいから」


 それだけで合点がいったと彼女に言うと、彼女は無表情ながら気持ち安心したような表情になってくれた。



━━━━━━━━



「そろそろ秋も終わるわね」


 エルネスティーの言葉につられ見上げると、今までの晴れと打って変わった灰色の雲がどんよりと空を覆っている。雪は降っていないから商店街に人は多いが、いつ天気が悪くなるのかといった様子で浮き足立っている印象がする。


「よくわかんないな」


「マルールはここに来てからまだ一年も経っていないから」


 何年もアンルーヴに暮らしている彼女なら、もはや火を見るより明らかな事実なのだろう。でもわたしだってすぐに覚えられるはずだよ、とエルネスティーにそう言う。


 そのまま軽く微笑む彼女に──まあ確かに寒いっちゃ寒いよね──とさりげなく手を差し伸べて、わたしたちは手を繋ごうとした。


 の、だが。


「あ、ねえエルネスティー。なんかいいにおいがする」


「え?」


 良い雰囲気で手を繋ごうとしてきた瞬間、商店街の道なりに流れてくる甘い匂いにつられて、反射的に差し伸べられた彼女の手を取った。そして、そちらに歩き始める。


「何もしないわ」


「あっちから甘いにおいがするんだよ。ついて来て」


 エルネスティーは眉間に小さく皺を寄せ、匂いの元を探そうと顔を周囲に向けてみるが、やはり二言目には何も匂わないとの答えが返ってきた。


「何だかあなた、犬みたいね」


「野生の勘ってやつさ」


 彼女の方を向いてにやりと笑ってみせると、私も気になるし、わかった、と言って不本意そうながらも頷くエルネスティー。一体どっちが犬なんだろうと思いつつ甘い匂いに向かって歩いて行く。


「ほら、あそこ何かある」


 しばらく商店街を歩いていると人だかりがあった。目を凝らして見てみると、商店街の道なりに屋台がずらりと並んでいる光景。ウサギ肉の串焼きに、ワッフルやクレープ、ヨーグルトやフランクフルトといった、アートフェスティバルの時のように食べ物が売られているようだった。


「エルネスティー。これは?」


「そろそろ町民大会だからその前戯かしら。この町の人は本当にお祭り好きね」


「ふーん。わたし何か食べたいけど買っていい? 温かい飲み物もあるみたいだよ」


「構わないわ」


 という訳で買ったものが、わたしはウサギ肉の串焼きで、エルネスティーはホットのジャスミンティーだった。わたしたちはそれぞれを片手に町の様子を眺めながら、ぽつぽつと語り合う。その内容はわたしの戻らない記憶についてだった。


「ここに来てから半年くらい経つけど、そう言えばわたし、全然記憶を思い出さないね」


 エルネスティーは何も言わない。その間を使ってわたしはさらに考えた。


 記憶を取り戻すことの危険性はエリクの存在から既に承知済みだ。けれども自身の以前の生活についてまるっきり思い出せない中、過去をすっぱり切り落として今の生活に馴染むというのも気になる。


 例えば、もしかしたらわたしにはエルネスティー以上に好きな人がいたんじゃないかとか、大切な家族がいたんじゃないかとか、そんな人たちを養うために、色々なサバイバルの術や銃についての知恵を身に付けていたんじゃないかとか。後は銃の扱い方から、もしかして彼女の研究に関する戦争に加担していたひとりなんじゃないかとか──とにかく、今の生活よりも大切なものを、失ってしまった記憶と共に置き去ってしまったのではないかという推測だった。


 思い出せないものは無いも同然だ。エリクに関しては現在進行形であるように、もしかしたらこれからのわたしにとって関係してくるかもしれない。


 そこでエルネスティーがようやく口を開いた。


「マルールは思い出したいのかしら」


「うーん。すごく複雑な気持ち。思い出した方がいいのかもしれないし、思い出さない方がいいのかもしれないし」


 彼女の問いに力の抜けた返事をして、溜め息を吐いてウサギ肉をひとかけ頬張る。


「香りというものは人間にとって最も記憶を想起する手がかりになるものだって、ずっと前に論文で読んだ事があるわ」


「香り、ねえ……。でも、火薬の匂いとかじゃ思い出さないよね」


「マルールにとって硝煙の匂いがあまりにもありふれたものだからじゃないかしら。もっと特徴的で、印象的な場面に感じた事のあるものの方が思い出しやすい」


 エルネスティーはそう言ってジャスミンティーを一口飲んだ。


 わたしは腕を組んで少し考えた。においが記憶の想起に役立つというのなら、もっと色々なものに敏感になった方がいいかもしれない。それに加えて、思い出したいという少しの気持ち。


「よくわかんないけど、とりあえず色々な経験が必要って事だね」


「そうね。私に抱き着いて洗剤の香りを楽しむ以外に」


「どうしてわかったの」


「マルールの考えは単純だからお見通し」


「……もう文句無しにわたしはエルネスティーのものだよ!」


 と言って彼女に抱き着こうとしたら、いとも簡単に避けられてこの腕は空を切る。と同時に、勢い余って串焼きも手から滑り落ちてしまった。ぽとりと地に落ちたウサギ肉には、砂ぼこりが付いて食べられなくなった。


「うわああああウサギ肉があああああああ……っ」


「馬鹿な真似するからよ。新しいの買って来なさい」


 落ちてしまったかわいそうなウサギ肉を、がっくり膝を付いて見ているわたしの姿にいたたまれなさを感じたのか、エルネスティーは懐から財布を取り出すと、小銭を出して手渡してくれた。わたしは律儀にそれを受け取って、ウサギ肉から目を離し立ち上がる。


「どうせ買うなら別のがいいな」


「そ。じゃ行って来なさい。私はそこの路地裏のベンチで座って待っているから」


「えー。一緒に行こうよ」


「歩き疲れたわ」


 わざとらしく溜め息を吐いて気怠げに答えるエルネスティー。わたしの扱い方に慣れすぎてないか。でも、本当に疲れているとしたら歩かせるのは忍びないだろう。


「わかった。じゃあちょっと待ってて」


 彼女から離れて商店街の屋台を見渡してみると、フランクフルトや木の実のジュースやラスクなんかが売られている。香ばしい香りも甘い香りも、同じだけ雑多に漂っていてわくわくしてきた。けれど、いまいち食べようという気になるものは見つからない。


 商店街じゃないところでも屋台って出てるのかな。気になったわたしは近くにあった路地裏に体を滑り込ませると、別の通りに出るための方角へ向かって歩き出した。二、三度道を曲がると、路地裏は商店街の喧騒など微塵も届かせないほど閉鎖的で、しいんと静まり返る。それが妙に背筋にひんやり来て、ぞくぞくしたわたしは立ち止まった。


 やっぱり表の道に戻ろう。


 そう思い、来た道を戻ろうと踵を返した。


「ん……」


 でっかいネズミ……。


 ふと顔を向けた先に、ネズミがちょろっと駆けていく様を見て、向かう先へと自然と視線も向かってしまう。するとそこで、とても爽やかで甘くて香ばしくいい匂いがかすかに鼻を擽った。美味しそうな匂いだった。あっちにも食べ物があるみたいと思い、少し商店街から離れてしまうのを承知でそちらに向かって歩き出した。


 風に漂ってくる匂いの方向を頼りにしばらく歩くと、さらに路地裏の奥の奥へと足を進ませている事に気付いた。立ち止まって見渡したそこは薄暗く、建物も煉瓦の傷みが激しいものばかりだ。バラックのような粗末な家があれば、ボロアパートみたいな五階建ての建物もある。しかし、やはりどれも傷みが激しく、あまり近寄りたくない雰囲気。アンルーヴにもこういう場所があるんだ。そう思いつつ、時折視界の端に映るネズミの姿を尻目に、わたしはさらに先へと進んだ。


 そうして五分ほど歩いた時だった。おかしいな、そろそろ辿り着いても良さそうな頃合なのに、と立ち止まった時。ひときわ強いその香りが鼻をくすぐった。


 ──パパ。


 ──?……。


 脳裏に浮かんだ言葉、パパ。


 わたしのパパ?

 

 あれ。


 なんだろ。


 目の前──が──


 ──「ほら。よく狙うんだぞ」


「うん」


 風向きから右に二・二度修正。


 サイトを覗けば、そこにはくすんだ色合いの迷彩模様がいっぱいに映っている。


「狙いは定まったな」


 頷く。


「よし」


 撃て。


 その一言で引き金を引いた。大きな破裂音と衝撃を肩口に感じる。放たれた弾丸は覗いているサイトの十字の真ん中に命中し、迷彩模様がサイトからさっと消えた。


 先ほどから背後から話しかけている人が言った。


「上出来だ」


「晩ご飯」


「かぼちゃのスープとウサギ肉の照り焼きにする」


「うん」


 わたしは抱えていた黒いライフルを肩に掛け、パパに向き直った。双眼鏡を覗き、まだ標的を見ている。


「明日は」


「今月はもう無い」


 それだけ聞ければ十分だと、双眼鏡から目を離し、わたしに目もくれず使い古しのメモ帳に何かを書き込み始めた。


 場面が夜に切り替わった。そこは野営地のようで、わたしとパパは焚き火に両手を翳して暖をとっていた。かぼちゃのスープとウサギ肉の照り焼きは食べた後。


「ねえパパ」


「なんだ」


「どうして生きるために人を殺すの」


「なんだ。いきなり」


 焚き火の揺らめく炎を見つめての会話。極限まで、独白のようだった。


「わたし、今まで一度も襲われた事無いから」


「人を殺せば金が手に入る」


「わたしが生きるために必要なのは、かぼちゃのスープとウサギ肉で──」


「弾薬は? ナイフが折れたら? 何にもできない。金が要る。余計な事考えるな。次にそれを話題に出したら一週間飯抜きだ」


 焚き火の光が少し眩しく感じて、目を細めた。


「……うん」


 パパなんて大嫌い。


 わたしは依頼で、廃墟と化したとある大都市の取引現場に来ていた。腰にはナイフと拳銃を下げ、肩にはいつもの黒いライフルを背負っている。取引は夜十一時にされるらしく、ここに来るはずの二人の人物を両方とも殺害し、ものを奪取するのが目的だった。


 元は警察署だったと言われている建物の五階、扉が壊された広い部屋に着くと、伝えられた通り二人の人間が立って何かを話していた。すぐにライフルを準備してそれぞれの太股を狙いすます。


「このところCold Boarの話題を聞かないが、お前何か知っているか」


「Cold Boar。……ああ、あの正体不明の遊撃部隊か」


「ああ、ここ十数年かそれらしい話題を聞かなくてな。どこかでくたばっちまったのか、大怪我でも負って養生しているのか」


「気になるな。まあいい、例のものを」


「話を聞かないだけで活動しているかもしれないしな。さっさと終わらせちまおう」


 Cold Boar。


 今は伝えられたことを……。


 ……Cold Boar……。


「ねえ」


「っ──誰だ!」


 何してるんだろう。わたし。この人たちを殺さなきゃならないのに。自分から出て行くなんて。


 自殺行為だ。


「その、Cold Boarについて、話してたのが聞こえたから」


 男たちはそれぞれ黙って拳銃を取り出し、わたしに向けた。そのまま出てきたわたしの腰には拳銃とナイフ、肩にはライフルが掛かっている。怪しまれてしまうのも無理はない。けれども、わたしは彼らが話していたCold Boarについて聞かなければならない。


「お願い。詳しく聞かせて」


「近寄るんじゃない!」


「もしかしたら爆弾を体に──」


「え」瞬間、右足の脛に衝撃。


「いっ。ぐっ……!」そして、とても我慢できない激しい痛み。


「ばかやろっ。勝手に撃ちやがって」


「自爆されたら……」


 動揺する二人。だけど、次には申し合わせていたかのようにこの場から逃げ出した。


 残るのは、撃たれた箇所を押さえて蹲るわたし。撃たれた瞬間に依頼が失敗した事を悟った。この廃都市は二日かけて来た場所だ。もしこのままわたしが帰らなかったら、パパはどう思うだろうか。

 

「……初めて反撃された……」


 これが、わたしがしていた本当の事だ。痛みが伴う事だ。お金で割り切れない。


「パパの……嘘吐き……」


 嫌だと気付いた時、それは遅かった。わたしは脛の痛みに耐えながら、その場で止血をして三日と少しかけてパパの元へと戻った。


「──一丁前に敵の前に現れて撃たれておめおめ帰ってきた?」


 顔を殴られて倒れた衝撃で、激しい痛みがぶり返した脛を押さえながら頷いた。


「お前をそんなふうに育て上げた覚えねえぞ。また一から叩き込まなきゃ駄目か」


 首を横に振る。


 やっぱりパパは怖くて、わたしが依頼人に頼まれたものを持っていない事に気付くといきなり殴ってきた。慌てて理由を言うと腹を蹴り上げられて、先程の台詞だ。けれどこうなることはわかっていた。パパは仕事に関して手抜きを許さない人だ。それはわたしにも叩き込まれ、脈々と受け継がれている。だからこそ仕事上の失敗は絶対に許されない。


「もう一度聞くぞ。また一から叩き込まなきゃ駄目か。そこまでお前馬鹿なのか」


 再び首を横に振る。ただ、パパが怖かった。


「こういうふうに胸ぐらを掴まれたら許しを請うのが教えたことだったか」


 胸が高鳴る。


「死にたいのかお前」


「……もうやめて、パパ」


「こいつあ駄目だな。来い」


 舌打ちの後、無理やり立たされたわたしは脛の激痛にくずおれそうになるが、それもパパに殴られてしゃんとさせられる。脛を見るとズボンに大量の血が滲んでいた。


 一時間ほど歩かされて着いた場所は──小さな野営地だった。茂みに身を隠し、肩にかけていたライフルを無理やり握らされた。


「ここの奴ら全員殺せ。ちょうど新しい依頼が舞い込んだんだ。一匹残らず殺ったら足を治して、飯も今まで通り食わせてやる。弾薬は帯の分だけだ」


 わたしは振り返って野営地を見た。恐らく子連れの商隊なのだろう。自分と同じくらいの子が草で編んだボールで遊んでいるのが見える。


 どうして、生きるために人を殺さなきゃならないんだろう。あの子は、あんなに楽しそうに、生きているのに。


「っ……」


 それでも、わたしは生きるために、人を殺さなきゃいけないから──。


 わたしは、そう、パパから教わったから──。


「そうだ」答えてくれたかのように後ろでパパが言った。「一発だけ、手伝ってやるよ」


 そうしてわたしの体に覆いかぶさるように銃身を支え、わたしの指を巻き込むように、引き金に指を掛けるパパ。


「狙うべきはどこか、サイトをきちんと覗いて、瞼は開いておけ」


 口の中いっぱいに血の味がして。


 目の前いっぱいに服の模様が見えて。


 ──わたしが、引き金を引いた。


「そうだぞレティシア。それでいい……」



━━━━━━━━



「マルール! しっかりしなさい!」


 私が何度呼び掛けてもマルールは憑かれたように虚空を見、浅く短い呼吸を繰り返し、冷たく震える体を小さく丸めて、空き家の外壁に力無くその身を預けていた。


 異変に気付いたのは三十分前。いつまで経ってもマルールが戻って来ないから心配して商店街を探し回り始めた。けれど、いくら商店街を歩いていても見付からなかった。食べ物を買いに行っただけで何十分も私を放置するはずが無い。


 マルールを探すために商店街の路地裏一帯を探し続けて、ついに彼女を見付け出したと思ったら、まるで禁断症状に陥ったような状態で蹲る彼女の姿を見付けた。


「マルール!」


 頬を軽く叩いたり、名前を呼んだり、何度も彼女の覚醒を促すけども一向に反応を示さなかった。彼女の顔は血色が悪く、唇は乾き切って、いつも温かい手も氷のように冷え切っていた。それ以外は何もわからず対策も立てようが無かった。


 パニック症状かもしれないし、何らかの薬物による可能性もあった。持ち合わせている薬はいつかヒグマと戦ってマルールが倒れていた時に飲ませてあげたものと同じ種類しかない。これは単なる鎮痛気つけ薬で、現状マルールの症状に合うものではなかった。仮に薬物による症状だとしたら他の薬物を無闇に投与する訳にもいかない。


 死ぬことの無い体ではあるけども、痛みや苦しみが消えた訳ではない。マルールが苦しんでいる事態は明白なのに、それ以上の苦しみを与えてしまうのはきっと許されない。


 底無しの不甲斐無さを感じるのはこれで何度目だろう。


「マルール。お願い、目を覚まして」


 また、呼び掛けてみる。こんな行動しか救う手立てが無いなんて。ふと、そんな不甲斐無さを感じた心の隅であることに気付いた。


 傍らには僅かに中身が残るジャスミンティーのコップが置かれている。それを手に取って、冷たく震える彼女の唇に当ててほんの少しだけ傾けた。安らぐ香りがかすかに辺りを包み込み、私はマルールの冷え切った体を温めるため、抱き締めて背中をさすった。


 浅い呼吸を首元に感じて、彼女の容態を確認しつつ、たまに彼女の手をとってさする。しばらくそうして徐々にマルールの呼吸は平常になっていく。漏れる吐息も湿り気を帯びて温かく、寝ているような穏やかさにまで落ち着いた。


 私は抱き締めていた体を離し、彼女の顔を見た。いつの間にか瞼を閉じて本当に寝ていた。極度の緊張状態だったものがほぐれたせいか、壁に体をだらりともたれ、気の抜けた表情までしている。


「マルール。起きて。風邪ひくわ」


「うん……ん、あれ」


 少し揺するとマルールはすぐに目を覚まし、ようやく声を掛けてくれる。「エルネスティー……どうしたの。わたし、……なんだろ、頭、すごく痛い」すると、頭を軽く押さえる。


「ここで倒れていたの。無理しなくていいわ。少し休んでからでも」


「倒れてた……」


 穏やかだった表情は途端に疲れ切ったものになり、私はジャスミンティーを手渡した。マルールは素直にそれを受け取り、喉を湿らせる程度に飲んでくれる。軽く息を吐くと少し瞼を伏せ、憂いげな表情をしてみせた。


「どうしたの」


「わからない。すごく苦しい夢を見てた」


「夢?」


「よく、あんまり、覚えてないけど、一度だけ呼ばれたんだ。レティシアって」


「レティシア。それが、マルールの本当の名前?」


「どうだろう。一度だけだったし、別の人の名前かも。だとしても聞きたくないな。わたしの名前とも思いたくない」


「素敵な名前だと思うけれど」


「でもわたしはマルールの方が好きだし……」


 いてて、と頭を押さえる彼女に、私はまだ冷たい手をさすってあげる。


「ありがとう。なんか、また迷惑かけたみたい」


「気にしてないわ。落ち着いたなら何より。それにしても私と別れた後何があったのか覚えているかしら」


「爽やかで甘くていい匂いがしたら、こっちにも店があるのかと思って、ずっと歩いて。しばらく歩いていたら、急に目の前がぐらぐらして……こんな場所で倒れてたみたいだ」


 爽やかで甘い香り、それが「レティシア」という記憶の一端を思い出す鍵ともなっている。


「もしかしてエルネスティー。わたしと同じこと考えてる?」


「香りを辿る?」


「うん」


 ええ、と私は頷いた。「あなたが大丈夫だと言うのなら」


「大丈夫」マルールはそして「わたしの昔のこと、たぶん知っておかなきゃならないよ」疲れ切った表情のまま強く言い放った。


「それなら少し休んだら行きましょう」


「いや、いい。すぐ行こう。匂いが消えちゃうかもしれない」


 そう言うとマルールは壁を支えにふらふらと立ち上がった。咄嗟に体を支えるため手を伸ばしたけれど、何故かそれは制止される。


「本当に大丈夫なの」


「いいよ。ひとりでも歩ける。行こう」


「……」


 マルールの様子がおかしいのは、悪夢にうなされて疲れたからなのか。やはり心配だ。今日は帰ったら、温かくて、元気が出るような食事を作ってあげたい。


 私は力無いマルールの様子を気遣いながら歩き出した。

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