Ⅱ-13 時の配剤一方ならず
どんよりした厚い雲が程よく空気に湿気を帯びさせ、匂いもその分はっきり感じられる。歩いて数分もすると頭痛を悪化させるほど濃くなった。エルネスティーに悟られないようにしつつ、わたしは立ち止まってそこを見上げた。
「エルネスティー。わかる?」
「いいえ」
「あそこだ」
そこは煉瓦のところどころ欠け落ちているオンボロのアパートで、指さした部屋は五階にある窓の開いた部屋だった。
「あの部屋からするの」
エルネスティーが訊ね、わたしは頷いた。
「行ってみよう」
わたしとエルネスティーはオンボロアパートの玄関扉に手をかけた。軽く押し込むだけで開いてしまい、どうやらノブは壊れているようだ。念のため彼女に目で合図してから体を中に滑り込ませる。五階までの道のりは急な階段がひとつで、少し息が上がるもすぐに辿り着いた。
目的の部屋の扉の前に立つと、頭痛は立っていられないほど酷くなる。今まで感じた事が無いほどズキズキする。
「つらいなら私が先に入るわ」
様子を察してくれたエルネスティーに一瞬だけ躊躇った後、ありがとう、と言って一歩下がった。
エルネスティーが扉の前に立って二度ノックする。
「すみません。誰かいらっしゃいますか」
よく通る声で向こうに呼びかけるが、返事は無い。
「いないのかしら」
「でも、匂いはここからだよ。それに人の気配もする……」
「人の気配……」
再度彼女がノックして呼びかけると、今度はパタパタと小走りする音が聴こえてきた。
そして、扉が開く。
「はい、どなたですか」
「……小さいクラン?」
「え?」
小さいクラン、と息を飲むエルネスティーの感想に、わたしは気付くものがあった。彼女の後ろからその人を覗き見る。
「やっぱりソフィか」
「あ。えっと、マルールさん」
やはり、と金髪で緑の瞳のソフィを見て少し驚く。ドックスおじさんと釣りに行く時に、買い物をしに来て知り合って以来だ。
「あなたたち、知り合いなの」
「うん。ドックスおじさんと魚釣りに行ったとき、おじさんのお店に野菜を買いに来た子で、野菜を揃えるのを手伝ってあげた」
「あの。あたしになにか用が……」
「ああ」わたしたちはソフィにこれまでの事の次第を説明した。エルネスティーが話すたびに、彼女の体がびくりと震える。そして、話を終えるとわたしは言った。
「エルネスティーは怖くないから安心して。マルールお姉ちゃんが約束してあげる。ほら、小指出してごらん」
「こ、こう?」
「そう」
そして、いつかエルネスティーにそうしてあげたように、わたしはソフィと指きりげんまんをした。歌に合わせて手を振り、最後に「ゆびきった」と言って手を離した。
「マルールさん。はり千本飲んじゃうの。ゆび、切るの」と泣きそうな声で言われたので、「約束を破ったら、ね」と微笑んであげた。なんとかソフィの不安顔を拭い去る事に成功する。
「それでその匂いの元がこの部屋からってわかったんだけど、なんか知らないかな」
「それなら、パパがいつも吸ってるたばこのにおいかも」
「パパ? 煙草? それは」
「いま……」
ふたたびソフィと同じ視線になって訊ねると、苦しそうに顔を歪ませてしまった。
「どうしたの」
「あのね。パパ、いま病気なの。だから、だれにも会えないの」
「病気?」
わたしは不意にソフィの口から出てきたその言葉で、反射的にエルネスティーを見た。彼女も気になるらしく、ソフィに直接聞く。
「ソフィ、と言ったわね。そのパパという人に会わせてくれないかしら」
「えっ」
当のソフィも突然のエルネスティーの申し出に呆気にとられる。視線をそわそわと動かし、どうするべきか考えあぐねているようだ。ここまでの怯えようなのだから、エルネスティーがどういう存在については恐らく他の町の人たちと同じような認識なのだろう。
「ソフィ、わたしを見てごらん」
ソフィがこちらを見る。
「ほら、わたしとエルネスティーを見てみてよ。わたしの体のどこか、おかしくなってる?」
ちょっと言い方まずかったかなとエルネスティーをちらりと見てみるが、彼女は気にしていないようだ。ソフィは首を振り、わたしは続けた。
「お姉ちゃんはこの人に二回も命を救ってもらった。それで今こうして元気に歩き回れる。それにこうやってソフィにも出会えてるんだよ。ソフィがこの人を怖いと思う気持ちは仕方ないかもしれない。でも、きっとパパの病気を治して元気にしてくれるのは、この人しかいないってわたしは思う」
ほんの少し優しく諭す口調で説得すると、ソフィは何度か注意深くエルネスティーの方を見て、「マルールさんが言うなら」と理解してくれた。
「でも、あたしのうち、お金がなくて。いままでお医者さまにもみてもらえなかった……」
「お金はいらないわ。そうね、マルール」
「うん。お金はいらない。絶対に、受け取らない。わたしが約束してあげる」
「……ありがとう。マルールお姉ちゃん」
そしてわたしにお礼を言うと、エルネスティーへも軽くお辞儀をした。その後、ソフィはわたしたちを部屋へと招き入れてくれる。
部屋の中はオンボロの見た目を裏切らず、とても不衛生な印象を受けた。壁は灰色の泥土で固められているだけのようで、触ってしまうと崩れ落ちそう。鼻には黴臭いにおいをものともしないほど煙草のにおいが充満しており、かなり煙たい。まるで書庫にあった本で見た「阿片窟」と呼ばれる場所のようだ。とにかく煙草の煙たさが鼻に付き、頭痛も一段と酷くなる。
「こんな場所で暮らしていてソフィは平気なの」
わたしは思わず訊ねた。けれども彼女は平気そうに「うん」と答える。
「でも、こんなところで長く生活していていい訳がないわ。後であの子の体も診てあげましょう」
「そうだね」
そうこうしているうちにソフィがある部屋の前で立ち止まった。そして、しばし立ち尽くす。
「どうしたの。ソフィ」
わたしがまた訊ねると、彼女はこちらを振り向いて問うてきた。
「本当に、パパを治してくれる?」
「診ないとわからないわ」
間髪を容れずにエルネスティーがソフィの口を閉ざし、ソフィは少し不本意そうに眉間に皺を寄せると、扉に手をかけ、開けた。
中に入ってソフィが数歩歩いて立ち止まった場所には、ほつれの激しい毛布がこんもりと盛り上がった形で存在していた。毛布のあらゆる隙間からゆらゆらと灰色の煙が立ち上り、煙草の匂いがする。
「パパ。お医者様が来たの。お金、はらわなくてもいいんだって。みてもらおう」
盛り上がった部分を揺すると、その中から「ああ、あぁ……」と力のすっかり抜けた声が漏れてきた。そして、ソフィの手によって毛布がゆっくり取り払われる。
「うっ、わ」
「これは」
わたしとエルネスティーがほぼ同時に声を漏らす。
「そ、ソフィ。お、お客、おきゃくさんかい。ほら、ほら、ソフィ、おちゃ、茶を出して、茶を、出して、お、お、おやり」
「あ、う、うん」
「いいよソフィ。お茶は大丈夫。……エルネスティー」
「……初めて見る症状だわ」
この人、バジーリオさんがくれたカルテに載っていた、ドナルド・ルフェーブルさんって人だ。
彼の体はまるで石炭のように黒く硬質化していた。バジーリオさんが見せてくれた黒い重油のような皮膚は見当たらず、時間が経って硬くなってしまったのだとわかる。もはやその皮膚は乾燥しきっているのか、ところどころ表面が裂けて中の肉が見え、そこに血混じりの茶色い膿が溜まっていた。
本当に、目も当てられない有り様になっていた。
「うぅ、ふう、わ、悪いねえ。こ、こん、こん、こんな汚い場所、と、とっちらかって。ええ。ほら、そ、ソフィも、あ、頭を、頭、ほら下げて。ほら」
「パパ。体にわるいから……」
ソフィはそう言って、硬質化して開かなくなってしまった瞼の、その端に付いた目やにを濡れ布巾で拭いとる。
「ソフィ。この症状はいつからかしら」
「えっと。たしか半年くらい前から」
「半年前……。ソフィ、マルール。一旦部屋から出ましょう」
「う、うん」
「わかった」
わたしたちはエルネスティーの言葉で、ルフェーブルさんの部屋を後にした。
ゆっくり話せる場所を、と提案したエルネスティーに、ソフィはリビングを挙げた。適当な木の椅子にそれぞれ座り、神妙な顔つきでエルネスティーが切り出す。
「ソフィ。悪いけれど」
「うん」
「あなたのお父様は、もう助からないわ」
「うん……」
「どうしたの。やけに納得が早いけど」
ソフィの納得の早さにわたしは訊ねる。
「はじめは、なにか栄養のあるものを食べれば治るってパパが言っていたの。でも、だんだん風邪みたいなせきが多くなって、何ヶ月か前に、あまりひどくてお医者さまに行ったんだけど、そのあとはもう、ずっと寝ているだけで、体も動かせなくなって……。寝たきりになって、しゃべりかたもおかしくなっていくし、あたしはご飯を作ることしかできないし、もう、あたしわからないよ」
数ヶ月前、ルフェーブルさんはバジーリオさんのところへ行って診察を受けたはずだ。そのときはたしか肺炎の診察と薬だけ処方して、皮膚の異常について具体的な原因は一切わからなかったと言っていた。
「その時からお父様の体はあんな状態になっていたのかしら」
「寒気がするって言っていつも厚着していたから、よくわからない。寝込むようになってから、あたしが体を拭くために服をぬがせたら、体がどろどろして、黒くなってて、何度も拭いたんだけど、ちょっと時間がたつとまた黒くてどろどろになった……」
エルネスティーは顎に手を当てて黙っている。彼女がこの症状から考え込むという事は。
「エルネスティー。もしかして、新発見の未知の病気なんじゃないの」
わたしから核心に触れてやると、彼女は大きく溜め息を吐いた。
「はじめ咳、その後皮膚が黒く変色、溶解、そして最終的に炭化したように硬質化する。皮膚が硬質化していく病気はあるけれど、前段階で変色や溶解するのは、完全に初耳ね」
加えて原因が何なのかも見当がつかないという。咳から始まったという事は肺に細菌やウイルスが侵入したか、もしくは、煙草を大量に吸っている事から喘息を併発しているかもしれない、と。しかし、それでも皮膚の異常について思い当たる節は無く、新発見の病気だと考えるのが妥当らしい。
「原因がわからない以上迂闊に触れないわ。せめてマスクと手袋が無いと」
「わたしたちはともかく、ソフィは病気になったら大変だしね。煙草の煙をずっと吸い続けるのもまずいだろうし」
わたしとエルネスティーはソフィの前で少し相談し合い、今後について話した。そうして決まったのはまず患者をここから出してわたしたちの住む場所に運び込む事だ。そして患者と町の人との接触を断ち、隔離しながら病気の研究と治療を並行して行う。そのためにソフィには誰かに預かってもらう事になる、という内容だった。
それをソフィに説明すると、彼女はほんの少し戸惑ったような表情をしてみせる。その視線はエルネスティーに向けられていた。
「大丈夫だよソフィ。この人は怖いことなんて何もしない。もしこの人が何かしようものなら、わたしがソフィのパパに代わって止めてあげるから」
「失礼ね。何もしないわ」
エルネスティーへのソフィの心証を利用してうわ手に出る。
「ソフィはそれでいいかな」
エルネスティーの鋭い視線を無視して、わたしはソフィに向き直り訊ねた。すると、彼女はそれでもエルネスティーを気にしつつ、小さく首を縦に振った。
その反応に満足して頷くと、パパさんを運び出すためにどうするかを話す。
「それで、ソフィのパパさん……ええと、名前は」
それとなく聞くと彼女は「ドナルド」とひかえめに答える。やはりあの人がバジーリオさんから教えてもらった人のようだ。確認がてらエルネスティーにも言う。
「気になっていたんだけど、やっぱりこの人がそうみたいだ。この人があの病人だよ」
「病人て、ウサギ捕りに出た時に聞いたっていう」
「うん」
あ、まずい。
ソフィが見ている。
「この町でパパの病気知ってるの、あたししかいないよ?」
「うっ」
「マルール?」
エルネスティーがじっとりとした目をして訊ねる。
「じ、じゃあ人違いかもね! ごめんね!」
一連の流れるような疑問符シークエンスに、わたしは慌てて訂正の文句を付け加えた。
けれど、元より研究者気質のエルネスティーだ。彼女に根付いた猜疑心は見事にわたしに対する不信感を抱かせ、向けられた鋭い視線は既に刺々しいほどの疑念へと変わってしまっている。彼女の目は(パンダ模様のせいというわけではないが)つねに黒いのだ。さすがに確認するのが早すぎた。
しかし、いちいちそれで論争する気にも、そんな場合でない事もわかっている。わたしが焦りに冷や汗を浮かべながら次の一句を待っていると、それを告げる前に彼女の視線がソフィに向いた。
「ルフェーブルさんの症状から、本当はあまり無闇やたらと動かしたくはないのだけど……とにかくすぐにここから移動する必要があるわ。こんな所で治療はできない。マルール、あなたも本調子出ないところ悪いけれどベルトラン町長から馬車を借りられるよう頼んできてもらえないかしら」
「エルネスティーの頼みなら任せて。この辺りだと近いから、多分すぐに用意できると思う。準備して待ってて」
「ええ。ソフィ」
「う、う……うん」
どうやらまだエルネスティーを怖がっているようだ。これは少し手助けが必要かも知れない。
二人の見送りを受けながら、一旦アパートを後にした。
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目の前にあるのは、クランが構えている下手物店。
「クラン。いる?」
扉を開けて中に入ると、目的の彼女は商品の整理をしているところだった。
「あれマルール。どうしたの」
「今から少し店を空けられるかな」
「いきなりどういうことよ」
わたしは唐突にやって来てそんな事を要求する理由をクランに話した。すると、彼女は真顔になって「いいよ」と応えてくれる。
「あれ、やけにあっさりな承諾で」
「エル姉の助けになるのがあたしの生きがいだもん」
それでいいのかな、と思ったが、事は急を争うと思われて聞き流しておいた。クランにアパートの場所を教えると、次はベルトラン町長の邸宅へ急ぐ。
ベルトラン町長の邸宅に着くと、庭でギヨームさんが花壇の世話をしていた。すぐこちらに気づいて顔を上げた。
「マルール様。どうなさいましたか」
「こんにちはギヨームさん。アポ無しの訪問とお願いで申し訳無いんだけど、すぐ馬車を貸して欲しいんだ。いい?」
「はて、馬車をですか。どこか遠出されるのですか」
聞き返すギヨームさん。わたしは事の次第をクランにした時と同様に簡潔にまとめて説明した。にわかに納得してくれたのか彼は大きく頷いて「それでしたら快く引き受けさせていただきます」との言葉。それから深々とお辞儀。
「ありがとう。何度も迷惑かけてごめん。恩に着るよ」
「恐れ入ります。ところで、馬車を操作するためにわたくしも同伴してよろしいでしょうか。馬車の操作は不慣れですと、重大な怪我をする恐れもございます」
「うん。その方がいいなら」
「では、正門前でお待ちになっていてください。主人に言付けてからすぐにご用意いたします」
そして踵を返すと、あ、と何かに気付いたように立ち止まるギヨームさん。改めてこちらに向き直る。
「マルール様、酷くお疲れの表情をしていらっしゃいますが、何かあったのでしょうか」
さすがギヨームさん。鋭い。
「うん……ちょっとね。でも気にしないで。一日ぐっすり眠ったら治るから。じゃあ、馬車よろしく」
「左様ですか。かしこまりました」
そして、その場から離れていく。
わたしは彼を見送り、正門に向かって歩き出す前に大きく息を吐いた。
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馬車に乗って案内をしながらアパートまで戻ると、その前では既にみんなが待機していた。クランがエルネスティーとソフィの間に入って幼い彼女をあやしているのが見え、わたしのお願い通りにしてくれていた事がわかる。
「ごめんねみんな。少し遅れた」
「気にしてないわ、ありがとう。──確かあなたは、ギヨームさん、とおっしゃいましたわね」
「ええ、はい」
「本当はお力を借りるのをとても不本意に思っています。けれど目の前に苦しむ人が現れてしまったら、私は……」
「そのお気持ちさえあれば、わたくしどもは十二分に納得できるというものです。さあ、お乗りになってください。行きましょう」
ギヨームさんの意外な返答を聞いてかすかな安心感を得たのか、エルネスティーはごく小さく嘆息する。わたしに見つめられている事に気付いてこちらを向き、僅かに笑みを浮かべたので、小さく頷いて返しておいた。
そうしてわたしたちは彼らと一緒に家へと帰ると、とりあえずの処置をする。点滴を打たれ膿を取り除かれたドナルドさんは安らかそうな寝息を立てて寝てしまった。全ての作業が終わったのは日暮れを過ぎてからで、わたしは作業が終わるまで付き添っていたギヨームさんを見届けると、一緒に見届けていたクランから言われた。
「そういえば例の件、そろそろ詳しい話をするから二人きりになれる時間、取れないかな」
という会話が運悪くわたしたちを呼ぶためにやって来たエルネスティーに聞かれてしまったらしく、「何の話かしら」と後ろから訊ねられた。
「クランが両親を死なせた伝染病のサンプルを探して来て欲しいんだって」
「ちょっ、なんで言うのよ!」
エルネスティーを前にさらりと打ち明けると、彼女は再び疑念をあらわにする。
「どうして今……。それに、そういったものの扱いをマルールに頼むなんて」
「だ、だってエル姉にこういう頼み事するの、気が引けたし」
「引け目なんて感じずに、正直に私に言いなさい。マルールもどうして黙っていたの」
「忘れてただけだよ」
「え? 忘れてたの?」
本当は、覚えていてもクランの方から教えてくれるだろうと思っていただけだ。
「……まあいっか。バレちゃったし。あのねエル姉。あの伝染病の原因が知りたいと思ったのは、将来あたしもエル姉みたいに頭良くなって、人を助けられるくらいの人になりたいと思ったからなの」
「だったら危険なものをどうして」
エルネスティーに問われたクランは、ややあって答える。
「だって、危険だってわかってる事にあたしみたいな子どもの首を突っ込ませる訳にいかないって、エル姉なら絶対思っただろうから」
クラン。それ当たってるよ。図星だよ。
とは、敢えて言わないでおく。
「一緒なら危なくなんてないでしょう。説得してくれれば力になれたわ」
こりゃ話が長くなりそうだ。
「ごめん。わたし疲れてるから、先にお風呂に入っていいかな」
今日の午前での事を知っているエルネスティーはしょうがないといったふうに許してくれた。
上手いこと言い訳してその場を離れる事に成功し、わたしはお風呂に浸かる用意をするためにお風呂場へ行き、水を溜め、溜め終わるとボイラー室へ向かい、運転を開始する。沸くまでの時間を自室に持ち込んだ紅茶とクッキーでつなぎ、湧いてすぐに脱衣所へ向かった。服を脱いで、適当に髪と体を洗ってから、タオルで髪の毛をまとめ、湯船に浸かる。自然と溜め息が漏れた。
頭が重い。痛みはもう無い。
湯気で白んだ視界の中、わたしは少し考えた。
昼間見たあの夢は何だったんだろう。既に漠然としか覚えていないが、それでもわたしが引き金を引いたこと、「レティシア」という名前ははっきりと覚えている。
それと、ジャスミンティーの香り。名前はまだしもジャスミンティーの香りは夢の中にはなかったような気がするから、きっとエルネスティーがあの香りで救い出してくれたに違いない。でも、どうして起きた時に口の中までジャスミンティーの香りがしたんだろう。
「……入ったばっかなのに、わたし、もう
頭が重いから、そのせいかもしれない。
「エルネスティー、どうやってわたしにジャスミンティー飲ませてくれたんだろ。も、もしかして、く……口移し……とか……」
「よくもそんな恥ずかしいうわごとを呟けるわね」
「そだねー……──ってええええええエルネスティー! なんで?」
ここに! と叫ぼうとした瞬間、わたしの視界に目立つ黒が見えた。袖を捲り上げて腕全体に見えるそれはしずくのような形をした無数の模様。どうやらお湯を汲みに来たようで、湯舟の
そんな様子のエルネスティーをまじまじと見つめていると、彼女は言う。
「体調が悪いのに一番風呂に入るっていうから心配でついでに来てみれば、顔真っ赤にしてうわごと呟いているんだもの。気を付けなさい」
「あ、うわごとだったんだ……。それにしても、やっぱりエルネスティーのその模様、すごいね」
見られるの、恥ずかしくないの、と問うと、あなたが私をまじまじ見つめてくる方がずっと恥ずかしい、ともっともな返答。けれども、彼女の雪みたいに白い素肌にまるでしずくのような真っ黒い模様が浮かんでいるのだ。彼女の全身を覆い尽くしているように思われるその模様は、まじまじと見つめられない方がどうかしているだろう。
そこで、ふとわたし自身の体について気になってしまった。
バジーリオさんに調べられた時に知った「腫瘍が成長している」という言葉。半分はその場で切除してもらったから、エルネスティーのように全身に模様が浮き出るのは先延ばしできたはずだ。それでも模様が浮き出てきてしまうのはきっと時間の問題だろう。
「ねえ、エルネスティー」
「何かしら」
「その模様、触ってみていい?」
「普通の肌と変わらないわ」
と言いつつ、彼女はわたしに腕を伸ばしてくれた。
腕を取って模様のひとつを指で撫で、なめらかな感触を確かめる。白い肌の部分を触れると、彼女の言うとおり、模様の部分も地肌の部分もつるつるすべすべなエルネスティーの肌だった。
「本当だ。刺青しただけみたいな普通の肌」
こんなに刺青をしていたら、それはそれで気色悪いと思うのだけど、と彼女が言う。
「そんなもんかなあ。そういえばドナルドさんの体も黒くなってたけど、あれって一体どういうことなんだろうね。Legion Graineが関係してるのかな」
「それはないわ」
「どうして」
「Legion GraineとLegion Guiineの元は癌細胞よ。それに自然発生するものではないし、彼の皮膚を黒く変質させている原因とは根本的に違う」
「癌ってすごく厄介だって聞くよ? 段々おっきくなって内臓を圧迫したり、勝手に全身にいっぱい出来ちゃったり……。一体どういうこと?」
驚いて思わず声が上擦ってしまった。
「特殊な万能細胞と癌細胞の機能を統御できれば、代謝やアポトーシスで減ったり傷ついたりした人間の細胞を修復する事ができるという仮説を元に、研究するよう命じられたわ。正確には癌細胞の機能があるのはLegion Guiineで、Legion Graineはその統御機構という役割なんだけど」
「う、うーん。よくわからないけど、つまり体が傷ついちゃったらすごい勢いで治しちゃうって事だね」
「そう。それに癌細胞としての機能は有効利用しているから、少しでも片鱗が体内に残っていれば、そこからまた生体組織としてLegion GraineとLegion Guiineは形成される」
「厄介さは健在ってことか」
まさしく一度憑かれれば一生付き纏う
ややあってお湯を汲み終わると、彼女はお風呂の水面と立ち上る湯気を見つめ、静かに話してくれた。
「生きることは楽しみばかりではないわ。生きるって言うのは、生きていることによる全てを受け取らなければならないという意味。そこには当然、苦しいことも、つらいこともある。この時代楽しいことよりもそれらの方がずっと多いはずなのに、何故人々がまだ永遠の生を欲しがるのか、私にはわからない」
エルネスティーの言葉を聞いて何となく思った。きっと多分、人の欲張りな気持ちって一番大きくなりやすいものなのかもしれない。誰より先に何でも知りたいって気持ちばかり先走って、エルネスティーが失敗した過去も。
わたしもエルネスティーのこともっと知りたいって気持ちが大きくなり過ぎて、いつか取り返しのつかない失敗するのかな。
「自分の研究が起こしてしまった戦争で研究成果が世界中に拡散して、収拾がつかなくなってはいるけども、少なくとも不老不死については私を捕まえる他無い。じゃあ私を捕まえて、仮にこれがほかの人の手に渡ってしまったら。今度はその人が戦争の中心になる。その人は当然狙われる。私のように逃れられない苦痛を味わって、絶望するかもしれない。けれど逃げるために死ぬこともできない。だからこれは身をもって精算するべき代物なのよ。こんな化け物はもうどんな人の手に渡ってはいけないもの」
それがたとえ、病に苦しむ人でも。
エルネスティーはそう言って項垂れた。
「それでもわたしにこれを移植したのはさ。割り切っていても、寂しかったからでしょ」
そう言うと彼女はほんの僅かに体を震わせた。
「だから、私はどこまでも身勝手でわがままなのよ、人の命に個人的な感情の優劣を付けるくらい。……ごめんなさい」
「んもー。何でそうなっちゃうかな」
わたしの方から彼女に近付いて湯船から身を乗り出す。縁の部分に座って彼女の肩を片手で抱えてあげた。
「わたし、もう散々君に救ってもらってるんだよ。今日だってエルネスティーがわたしに一生懸命になってくれたじゃん。だからこうして話せるでしょ。エルネスティーがわたしに苦しさを感じている以上に、わたしはエルネスティーからいっぱい嬉しいこと、もらっちゃってるの」
だから、せめてわたしといる時はそんな悲しいこと言う必要無いんだよ。
「……マルール」
「うん……」
「……」
「……」
「……あの」
「んう?」
「なんで私の耳噛んでるの」
「え? だって目の前に噛みたくなる柔らかそうな耳たぶがあっ──おっ──?」
そこまで言うと急に両肩を強く掴まれて、突き飛ばされた。当然背後に湯船があったから、わたしはそのまま重力に逆らえず盛大な水飛沫を立てて沈む。危うく溺れかけるところで、お風呂の地面に足を付け事無きを得た。
「いきなり──げほっ──突き飛ばすとかホント有り得ないって! 何なのちょっと?」
突き落とされた衝撃でお湯を飲み込んで、咳き込みながら抗議すると彼女はまた困惑したような怒ったような表情で言った。
「何を勘違いしてるか知らないけど、それは私の台詞でしょう。いいことを言ってくれた途端にこれだから油断ならないわ……」
「あはは」
あははじゃない! と怒鳴られ、追い打ちをかけるようにバケツに汲んでいたお湯を上からザバーっと思いきりかけられた。心なしか彼女の顔が赤いの、温かい湯気のせいかな、それとも恥ずかしいのかな。
全部引っ括めて、相変わらずエルネスティーかわいいなあ、と言ってやると今度は無表情になった彼女の額に怒りマークが浮かんだ。もう、反応がおもしろすぎる。
「何笑ってるのよ」
「え? 何でもないって……」
そんなこんなで二人してお風呂場でわいわいやっていると、次第にわたしの疲れも頭の重さも吹き飛んで、ついでに時間も忘れてしまった。
その後エルネスティーは全身びしょ濡れになって戻ったらしく、お互いソフィとクランに心底呆れられてしまったのは、言うまでもない。
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