Ⅰ-19 愛が決意し、明日を超える(または「共に」)

 悪い夢を見たような気がする。


 はっきりと目を覚ました気分がするのに目の前は真っ暗で、体が無くなってしまったような感覚がするのに意識はここにある気がして──気持ち悪い。


 悪い夢を見たような気が。


 エルネスティーの行方を追って地獄へ続く道を辿った。地獄では悪魔が笑った顔してエルネスティーを痛めつけていて、少しも動かずその痛めつけを甘んじて受け入れていて、突然頭に血が昇ってその後は勝手に体が動いていた。


 悪い夢を見たような。


 悪魔は賭け事が好きだった。勝負を仕掛けられ、激しい戦いを繰り広げた。わたしはじわじわ体に傷をつけられ、負けそうになった。


 悪い夢を見た。


 最後の一撃で胸を貫かれた。でも、反対にわたしは悪魔の急所を貫いた。どちらも致命傷を負い、先に倒れたのは悪魔で、わたしは勝った。エルネスティーを起こしてあげようと手を伸ばした。でも、どんどんどんどん、体も腕も瞼も、重くなって届かなくて、わたしは。


 悪い夢を──。


「──んぐっ──げほぉっ!──っ……ふう……っはあ……はあ……!」


 激しい咳と大きな深呼吸で目が覚めた。胸が大きく上下して酸欠状態から生還しようとしているみたいだ。激しい深呼吸で心臓も早鐘を打つ。全身がぎしぎし軋み、上手く動かすことができない。


 やがて、酸素を取り込む内に霞んで白んでいた目の前は徐々に色彩を取り戻し、蟻の巣の中のような光景を映し出す。ようやく心臓も落ち着いてきた頃には、自分が置かれている状況も把握できるようになった。ここはいつものわたしの部屋だ。そして、わたしはベッドの上に横たわっている。


 悪い夢を見ていたような気がする。本当に、悪い夢を。


 上半身を起き上がらせ、自分の体を見た。どこにも異常はない。胸に深々と突き立てられたはずのナイフの跡は無いし、崖に落ちて負った傷痕も綺麗さっぱり消えている。


 一体どこからわたしは夢を見ていたのだろう。全部夢だったのか。エルネスティーに会う前から夢だったのか。だがそうでなければ、意味もわからずあの時と同じ場所で寝ている経緯がわからない。


「一体、何が起きて」


 わたしはようやく呟いた。その時、部屋の扉が開く。


 現れたのは、死んだはずの、エルネスティー。


「あ……」


 わたしとエルネスティーは互いに視線を交わしてしばらく固まった。


「あ、あ」


 エルネスティーが、死んだはずのエルネスティーが、目の前に、かぼちゃのスープを持って立っている。


「エル……」


「マ……」


 エルネスティーがわたしの名前を呼ぶより先に、わたしはベッドから飛び出てエルネスティーに精一杯抱きついた!


「エルネスティーいいぃぃ! うわあああ会いたかったよおおおお……!」


「ちょっと、──待ちなさい! 離れなさい!」


「待たない! もう離さない!」


 わたしは磁石みたいにエルネスティーにしがみついて離さなかった。エルネスティーは最初こそ抵抗していたが、すぐに無駄だと思ったのか力を抜いた。そしてスープをサイドテーブルに置き、あろうことかゆっくり抱き締め返してくれる。


 でも、わたしが抱き締めているその体はかすかに震えていた。


「エルネスティー?」


 不思議になって覗くと、なんと彼女は顔をくしゃくしゃにして今にも泣きそうな表情をしていた。我慢しているのか体を震わせて。突然の事態に狼狽えた。


「あの、え、エルネスティー」


「よかった……」


「え?」


 喉をひきつらせながら彼女は言う。


「目が覚めてくれて……」


「あ……」エルネスティーのその一言で、わたしは今までのことが夢ではなかったと悟った。同時に彼女を抱き締める力も、彼女をあやす程度にゆるめる。


 見て、ね、ほらわたしぴんぴんしてる。だから、もう大丈夫。安心して、エルネスティー。


 それと。


「こういう時は泣くの、我慢しないんだよ」


 耳元に口を寄せよしよしと慰め続けると、小さく頷いてからすんすん泣き、頻りに涙を拭う仕草をした。そんなに大号泣ならちょっと顔見てみたいかも、と思う気持ちを抑えてあやし続けた。


 やがて、ぐすんと鼻を一度すすると「マルールに、話さなきゃいけないことがあるわ。聞いてくれる」と言う。うん、いいよ、と答えた。心の準備はできている。


 エルネスティーもわたしも一度確かに死んだはずなのだ。けれど、こうして二人とも元気になってお互いを抱き締められる本当の意味を、知らなくちゃいけない。


 二人してリビングに向かった。落ち着いて話をするためだ。席に着くなり彼女は訊ねる。目が潤んでいた。


「今までのこと、どこまで覚えているかしら」


「えっととりあえず死ぬ瞬間までかな」


「それなら話は早い」


 わたしは話を聞きながらかぼちゃのスープを食べ、クッキーを手に取ってぽりぽり食べた。お腹が減ってしょうがない。


 エルネスティーは言う。


「マルール。あなたが生きているのは、私の体の中に巣くうLegion Graineという生体組織をあなたに移植したからなの」


「レギオングレーヌ?」聞き慣れない言葉に小首を傾げて言った「もしかしてそれがエルネスティーの抱える病気で、エルネスティーを不老不死にさせてるの?」


 あっけらかんと答えるわたしにエルネスティーは少し驚いた様子で言った。


「どうしてそれを」


「んー」クッキーを食べながら言う。


「明らかにおかしいなと思ったのは、町の人みんなの言うことが違うなと思った時。その後は……まあ色々勘が働いて、不老不死なんじゃないかって確信した」


 あまりにもあっけらかんとしすぎているのか、エルネスティーは絶句したように口を開けて固まっている。でも、すぐに我に返って言った。


「気持ち悪くないの」


「ぜーんぜん。エルネスティーを襲ったフォルジェロとかいうやつより断然ね。少なくとも五十年以上は生きてるんだろうなっていうのはわかるよ」


 それにね、とわたしは続ける。


「なんかエルネスティーのこと、エルネスティーだから一緒にいたいなあって思ってるんだ。模様だって病気だってエルネスティーだもん。君は嫌かもしれないけど、そういうとこ好きになっちゃったんだ」


 素直な気持ちを素直な言葉で打ち明けると、エルネスティーは少し頬を赤くした後、ごほんと繕うように咳払いした。わぁかわいい。


「話を戻すわ。Legion Graineは生き物にとって万能の永久機関のようなもの。つまりは不老を実現し、あらゆる傷や病気、死でさえも克服できる代物よ」


「そのLegion Graineを移植したからわたしは生き返って、エルネスティーは元々それを抱えているから生き返ったってわけか」


 そういうことね、とエルネスティーはわたしの考えを確かなものにする。


「それじゃあわたしもエルネスティーみたいに模様が浮き出たり、不老不死になったりするのかな。痛かったり苦しいのは嫌だなあ」


 だからこそ単純に疑問に感じたことを口に出してみた。けれどもこの質問は彼女にとって痛いところを突くものだったようで、瞼を伏せ静かに俯いた。


「それはまだわからない。マルールの状態はわたしのそれとは異なるの。体に模様が浮き出ないし、そうやって食べ物を食べても平気。……Legion Graineの移植は初めてだから、まだ何もわからない、未知の状態なのよ」


「ふーん」


 わたしは相変わらずスープとクッキーを胃に収めるので忙しい。そんなわたしの様子をエルネスティーが軽く引いたような声で指摘する。


「……それにしても、よく食べるわね」


「なんかお腹空いててさ。わたし、どれくらい寝てたの」


「一ヶ月くらいだけど」


「ほほう。一ヶ月間ほとんど飲まず食わずと……。だったらわたし、久々にエルネスティーの手料理お腹いっぱい食べたい」


「あの、まだ話すことが」


 慌てて制すエルネスティー。けれど、わたしは言う。


「いいよ。いっぺんに話されたってわかんないもん。きっと話しづらいこともあるだろうしね」


「マルール……」


 エルネスティーはまた涙ぐんだ。けれども、クロークの裾でそれを拭い、しゃんとした表情になって言った。


「わかった。それじゃあクランやドックスおじさんも呼んできて。みんなマルールを心配していたんだから」


「おっけーおっけー。きっとみんな腰抜かすんだろな、今から楽しみ。でもさ、どうせなら二人で行こうよ。二人で行って、帰ったらみんなで準備しよう?」


 エルネスティーは目を丸くしてから小さく頷いた。そのあと着替えると、固く手を繋いで外に出る。


 扉をわずかに開けると眩しいほどの日の光が入り込んでくる。


「今日は快晴みたいだよ、エルネスティー。いい日だね」


「ええ」


 短い彼女の返事を聞くと、わたしは「じゃ、行こっか」と扉を勢いよく開けた。


「──マルール! 目が覚めたんだ!」


「え?」


 扉の前にいたのは、なんとクラン、ドックスおじさん、ミゼットおばさん、ジャックとエリーヌ。そして、イゾー。


「どうしてみんなここに」


 そう言うのはエルネスティーだ。


「治るのに一ヶ月くらいかかるって姐さんが言ってるのをクランが気に掛けてな。頃合い見計らってみんなで来てみたらドンピシャだった訳だ」と言うのはドックスおじさん。


「えへへ、偉いでしょ」と言うのはクラン。


「クランちゃんは賢いね。どこぞのジジイと違って」と言うのはミゼットおばさん。


「クランちゃんを信じて、みんなで準備してきたの。マルールの事だから、起きたらきっとお腹が空いてるだろうって。たくさん食べ物あるのよ」


「口に合うかはわからないがな」


 エリーヌとジャックが口々にそう言う。


「さ、魚。めちゃくちゃいい素材のを父さんに黙って持ってきたんだからな。あ、あと……本当に、悪かった……」と言うのはイゾー。


 見るとたしかにみんなの手には食べ物が満載の籠が下げられていた。


 胸の内にじんわりと広がる、熱くて染みるような、ちょっと恥ずかしい気持ち。こんな気持ち本当に初めてだ。記憶が無くたってそんなのわかる。


 呼ぶ手間が省けたわたしたちは早速キッチンに戻った。持ってきた食べ物で簡単な料理を作って全快祝いを始めると、あまりにお腹が空いていて料理をぺろりと平らげる。エルネスティーとエリーヌとイゾーで追加の料理を作ってくれたが、これもすぐに無くなってしまった。そういう訳で全快祝いは想定よりだいぶ早く終わってしまい、わたしとエルネスティーは片付けを彼らに任せ、少しだけ町を歩くことにした。もちろん、離れないように手を繋いで。


 町を歩く人たちは相変わらず冷たい視線を送ってはそれを逸らす。でもわたしたちが仲良く手を繋いでいるのを見ると、幾分かだけその冷たさも和らいだ気がした。


「エルネスティー」


「なに」


「わたし目を瞑った時、ほんとに、これで死ぬんだと思ったよ」


 エルネスティーは少しだけ俯いた。


「エルネスティーがした事、自分で悪かったなんて思わないで。生き返らせてくれてほんとすっごく、今までないくらい嬉しい気持ちでいっぱいなんだ」


 握られた手にほんの少し力が入った。


「マルールがいれば、私だって」


「エルネスティーわたしのこと好き?」


「す……」


「ん?」


「……キスしてあげたんだから、それが答えよ」


 頭の中が真っ白になった。


 キス。


 エルネスティーから、キス。


「どこに、いつ」


「口に。あなたが死んでいる間。冷たかった」


「エルネスティー」


「なに」


「わたし、エルネスティーと生きている間にキスするから」


「……やってみなさい」


 くだらない会話だったけれど、わたしはそれで心に誓った。エルネスティーからは離れない。もう二度と彼女を傷つけさせない。エルネスティーはわたしが守ってみせる。この命が何度果てようたって。


 わたしは繋いだ手を強く握り返した。エルネスティーも無言だけどさっきより強く握り返してくれる。それだけでわたしは今、十分エルネスティーの近くにいるのだろう。


 パンダ模様の青い魔女の魔性の誘惑に囚われて、とりあえず、明日も彼女と手を繋ぐ。

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