Ⅰ-10 詩と花火と風船パンダ
本当はずっとだって彼女と一緒にいたかったのを、エリーヌの病気の経過のために数日間出かけられなかった。その代わりの約束どおり、今日はまったりと町の中を歩いている。気温は少し雪がちらつく程度だが、ほどよく空気が澄んでちょうどいい。
お祭りも最終日。町は初日以上に人で溢れかえっていた。今まで店番などでゆっくりできなかった人たちが休業し、祭りを楽しんでいるのだろう。露店で飲んだくれている人がいれば、屋台で売られている鶏肉の串焼きを手に歩いている人もいる。
ぐるりと一通り町の中を歩いて、少し疲れたね、休もうか、と言い、彼女がこくりと頷くのを見届ける。路地裏に体を滑り込ませてベンチに腰かけ、わたしたちはしばしのあいだ休憩することにした。
「飲み物飲める?」
「紅茶で」
「じゃあ、それとちょっとした食べ物買って来るよ」
「ええ」
そこで一旦別れを告げ、通りに出る。先ほど気になった屋台で売られている串焼きを数本に、コンソメスープと紅茶を手にし、エルネスティーの元へと急いだ。
路地裏のベンチまで戻って、待っていたエルネスティーに紅茶を手渡した。
「はい」
「ありがとう」
わたしは串焼きをひとかけ頬張りながら、ちらりと彼女を見た。温かい紅茶をふーふーして熱を冷ましていた。わたしは思わず笑ってしまった。
「猫みたいだね。熱いの苦手だったっけ」
笑いながら訊ねてみると、彼女はフードを被ってぷいとそっぽを向いて言った。
「あんまり熱かったから」
「へえ。かーわいい」
「茶化さないで」
視線だけでなく体ごとそっぽを向き、わたしの視界には青い彼女の背中しか映らない。ふる、と肩が少しだけ震えて「やっぱり寒かった?」とその背に聞いてみた。するとフードの向こうで首を振っているのか、体が小刻みに揺れた。
「寒かったら抱きついてもいいよ」
「別に寒くないわ」
そう言うも不意に吹いた一陣の風で、彼女が小さく身震いした。
「強がりばっかり達者だよね」
そう言ってわたしは串焼きを一旦包んで傍らに置くと、エルネスティーの背中に寄り添った。
「飲み物こぼしちゃうでしょ」
エルネスティーは身じろぐが、熱い紅茶を持っている反面下手に動けないらしい。はあ、と大きな溜め息を吐いて「変な動きしたら、この熱い紅茶を浴びる覚悟でいなさい」と言い、それから静かになった。
クローク越しにぬくもりが伝わるほど意外と温かくて、わたしはちょっぴり驚く。けれどもすぐに合点がいった。たぶんわたしのほうが寒かったんだ。
そうしてしばらくそのままでいると、エルネスティーは紅茶を飲み終えたらしい。体を曲げてブリキのコップをベンチの下に置いた。しかし、そのあとはじっと動かない。どうやら彼女もこの状況はまんざらでもないのかな。
だから、わたしは聞いてみた。
「ねえ、エルネスティー」
「なに」
「わたしといて楽しい?」
少し体が動いて、すぐに言う。
「わからない」
「わからない?」
「楽しいのか、楽しくないのか。イエスかノーかだけでは決められない」
「それほど充実しているってこと?」
彼女は黙った。わたしは続けて聞いた。
「じゃあ、昔付き合ってたって人とどっちが好き?」
その言葉に体が大きく反応した。けれども相変わらず向こうを向いたままで、彼女は苦し紛れに言う。
「どうしてそう言うの」
「ミゼットおばさんから聞いた」
なんでもないふうを装いながら間髪入れずに答えた。どうやら知られたくない事実だったようだ。背中越しにそわそわと心の落ち着きがなくなってきているとわかる。
「どうなの」
エルネスティーの気持ちが知りたくてさらに追及すると、彼女はこう言った。
「嫌でもあなたにあの人の姿を重ねてしまう。生き写しなんじゃないかってくらい、あなたがあの人に似ているから。今だって……」
その先は濁されたが、思うに、顔さえ見えなければ私はあの人に寄り添われているような気分になれる、と言いたいのだろう。優しい彼女にそこまで言うなんてできないから。
エルネスティーに呟かれたその言葉は「どうしてあの人ではないのか」という裏の意図まで見え隠れしている気がして、唇をぐっと噛みしめた。同じ境遇で、同じ状況で、同じ性格をしていたら、誰だってそう思うに違いない。それで思わず背中から体を離した。わたしなんかがこうしていいのかという気持ちになって。けれど、他でもないエルネスティーがそれを許さなかった。彼女は下を向いたまま向き直ると、そんなことしなくていい、と囁いて制止してくれたのだった。
それはあの人の感覚をまだ思い出していたいからだろうか。しかしエルネスティーがそうしていたいなら、そうしないわけにはいかないとも思う。たとえ、それがもっと彼女にあの人の姿を想い描かせて、マルールを忘れてしまったとしても。
「どうして泣いているの」
「え?」
エルネスティーの一声で頬に手を当ててみると、確かに濡れていた。ただただ目から涙が溢れていた。
「あ……ほんとだ、泣いてるね。どうしたんだろう」
適当に笑ってはぐらかしてみると、エルネスティーはそのまま涙を拭った手に自身の手を乗せてきた。
「エルネスティー」
「大丈夫。今はまだ、大丈夫だから」
まだ大丈夫、その意味を考えてしまったら胸がずきりとした。
「ね、エルネスティー。あのさ」
「ええ」
「できればさ、その、あの人について教えてくれないかな。わたしにとってはいわゆる恋のライバルってやつだからさ」
エルネスティーのことだからてっきり何も言わないかもしれないと思ってヤマをかけたのだが、この状況だからだろうか。回していた腕をするりと解いて行儀よくベンチに座りなおすと、案外すんなりと口を割ってくれた。
「あの人は記憶を失っていた。あなたと同じように崖から落ちて大怪我をして。私は彼にエリクと名付けたわ」
「エリク……」
「エリクは全ておいてあなたのようだった。いえ、あなたがエリクに似すぎている」
「どうしてだろね。だってわたし女の子だし」
「そうね。おかしいわよね」
はあ、と呆れた溜め息のエルネスティー。少し心外だな。
「私とエリクは一緒に過ごしていく内に、お互いを支えにするようになった。毎日が楽しくて、今までの憂いを全部忘れられて、救われたような気がしていた。あの人も記憶を失った空虚さを楽しさで埋められると言っていたわ。わたしもエリクも、お互いにお互いを一番に必要としていた」
でも、と彼女は続けた。
「ある日突然、前触れなく彼は消えた。昨日まで楽しく笑い合っていたのに、目覚めたら彼がいなくなっていた。どこに行ったのか彼の姿を探していたら、あなたと同じあの谷底にボロ布が落ちていた。見たら、そこには詩が書かれていた」
「詩?」
それ覚えてる。とわたしが言うと、もちろん、と言って彼女は息を吸った。
Cold Boar
忘却の彼方にぶんなげろ
悪しきこの名前 牙振るう遊撃の士
忘却から現れた 過去の亡霊が囁いている
報いを受けよ
Erricc Erricc 失ってしまった
過ぎ去ってしまった Ernestii Ernestii
耳を傾けてくれよ
呪われた人の 呪われた願いを
Corps De Bois
その詩に感じるもの悲しさと悲痛さ。そして、どこかわたし自身の未来に通ずる何かがあるような気がした。ミゼットおばさんの言う通り彼はきっと何かを思い出したのだ。エルネスティーよりも、きっともっと忘れてはいけなかった何かを。けれど、どうしてその詩をわざわざ谷底に残したのだろうか。
そして、どうしてわたしはその詩を聞いて懐かしくて、でもすごく胸糞悪い感じが胸の奥に広がっているのか。
「エルネスティー。わたし、それ……知ってる気がする」
「え?」
エルネスティーは目を見開いた。まさかわたしがその詩を知っているなんて、話が出来すぎている。
「何か思い出した?」
彼女が聞いてくるが、わたしは首を横に振った。
「ううん。ただ、なんとなく聞き覚えがある。懐かしいんだけど、でもすごく嫌な気持ち。とりあえず、その詩はすごく重要な手がかりだよ」
「ええ、そうね……」
その表情は明らかに動揺したもので、念のため言ってみた。
「エルネスティー。わたしはエリクじゃないよ。君がさっきそう念押しした」
「わかってる……」
わかってないね、その声と表情は──と言いたくなるのを既で堪える。
「気分悪そうだよ。早めに帰ろうか」
エルネスティーは黙って俯き、何かを必死に考え込んでいるように見えた。
どうしようかな、辺りもだいぶ暗くなってきたし、と顔だけ出して通りを覗いてみると、おもしろそうなものがあるのが目に入った。一旦ベンチを立ってそこに向かい、代金を払ってエルネスティーの元に戻る。
「エルネスティー」
呼びかけ、彼女は顔を上げた。
わたしが持っているのは白と黒、一枚ずつの紙だ。
「見ててね」
そう言い、わたしは紙を手書きの折り線に従っててきぱきと動かす。ある程度折ってから重ね合わせ、そこから曲げて、互い違いに折りたたまれ、それはだんだん形を成していった。
そうして形を作ったあとに空気を入れる小さな折り目の隙間から思いっきり息を吹き込んでゆく。そうしてものの数分で出来上がったものをエルネスティーに披露した。
「ほら、パンダの完成」
ぱっと出したパンダのバルーンアートに、彼女の顔もわずかにほころびた。
「あ、似てる」
調子に乗ってパンダをエルネスティーの顔の横にもってきて笑いながらそう言うと、パンダをひったくられた。
そして、紙風船のパンダをじっとりした目で、じっと見つめる。
「ねえ、機嫌なおそう。それあげるから」
「……いいの?」
「エルネスティーのためだもん」
にっこり笑ってあげると、彼女はほんの少しだけ顔を赤らめた。素直になっちゃえばこんなにかわいいことないのに、と思うが、やはり彼女には彼女なりに思うところが邪魔しているのだろう。それはそれで尊重してあげたいと思う。
ここでだいぶ暗くなってしまった町の宵空に、どんという大きな音とともに、ぱっと明るい光が灯った。見上げると綺麗な火花が色々な形で散ってゆく。あれは何、と少しびくびくしながら問うと、花火、というエルネスティーの控えめな答えが返ってきた。
「爆弾でも降ってきたのかと思ったよ。でも綺麗だねえ」
「ええ。すごく綺麗」
そうしてしばらく、夜に咲き誇る光の花びらに見とれていた。
花火を見ながら帰り道を歩いていると、ふと、なぜエルネスティーが最後の日までエリーヌの治療に専念したのかがわかった。
わたしと一緒に花火を見たかったから……なんて。
エルネスティーを見ても、当の彼女は花火に夢中でずっと見上げている。そんな彼女がつまずかないように注意するのはわたし。
エルネスティーのことがまた少しわかったような気がして、繋いだ小さな手を離さないように、ぎゅっと握りしめたのだった。
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