Ⅰ-11 一つ目小ザルに茶化され戯れ
「前に言っていなかったかしら」
「ん?」
エリーヌの点滴を済ませたあとまったり午後を過ごしていると、買ってきてあげた隔週新聞を読んでいたエルネスティーが不意に不思議なことを聞いてきた。わたしはナイフの扱い方についての本から顔を上げて首をかしげる。
「なんだっけ」
「実験室からガートルを持って来るよう頼んだ時、小さなサイクロプスが出たとか言っていたわ」
小さなサイクロプス、という言葉に全身の毛が粟立った。薄暗い実験室で見た「でっかくてまん丸い妙にリアルな一つ目」を思い出してしまったのだ。
「あ、ああ。あれね」
思い出したくないものを思い出してしまい、声が震える。
「本当にサイクロプスなら貴重なサンプルになるから捕まえたいのだけど」
「え、捕まえる?」
「ええ。不服かしら」
しれっと同意を求めようとする言い方にぐうの音も出ない。しかし、もしかしたら既にこの場所にはいないかもしれない。
それでわたしは彼女の早まった決断を押し止まらせようとしたのだが、小さなサイクロプスというその言葉だけで彼女の研究魂に火が点いてしまっているらしい。
「そうだね……。一緒に探してあげる……」
力無く小さなサイクロプスの捕獲に協力してあげると申し出ると平坦な声で「ありがとう」と言われた。なんて心のこもっていないありがとうなんだ、と心の中でよよと泣く。
かくしてわたしたちは暇な午後の時間を意図せず小さなサイクロプス捕獲作戦に費やすことになった。
わたしたちは虫網や大きな鍋などを手に実験室に侵入した。目玉の大きさが親指と人指し指で輪っかを作ったときの大きさと同じくらいだった記憶から、体長はおよそ二十センチほどだろうという推測が立っていた。
ランプを点けていない実験室は真っ暗のため、ネジを調節して薄ぼんやり程度の明るさにする。エルネスティーの判断から、その小さなサイクロプスとやらは夜行性であるとする可能性まで考慮されている。下手に部屋を明るくすると余計な刺激になる。
「あの物置辺りで見かけたのね」
「うん」
わたしたちは物置に近づく。息を殺して対象にこちらの気配を悟られないようにした。
「……いない、ね」
「そうね」
やっぱりもう出ていっちゃったんだよ、探すのやめようよお、と弱音を吐いたわたしにエルネスティーの鋭い視線が突き刺さる。
わたしの言葉を無視して物置を調べていると、エルネスティーが驚きの声を上げた。「これは」
ごそごそと奥に腕をやり、目的のものを手に取ったのか、彼女はずいっと腕を抜いてみせた。その手には、バッタの乾涸びた死骸。
「それがどうしたの?」
びくびくしながら訊ねると、その死骸を見つめてエルネスティーが言う。
「バッタはこの地方にはいない生き物よ。ここにあるということは、私が保管しているものか、クランのお店に売られているものくらいしか思い浮かばない」
「うん。つまり」
「生態からしてこの辺りの生物ではないとすると、小さなサイクロプスは本当に新種の生き物かもしれない」
「そうじゃないでしょ!」と、咄嗟に叫びたくなった。
小さなサイクロプスと言えば、一つ目というだけでおおよそ普通の動物ではないのだから、追いかけないほうがいいに決まっているのだ。それをなんだ。新種の生き物だなんだのと。
闇に浮かぶ一つ目にまばたきされたという恐ろしい体験をしたわたしは、いかに彼女のためであろうと付き合いきれない。
「バッタが好物なのかしら。つまりバッタを撒いておけばそのうち現れて……。でも私の研究用のサンプルは減らしたくないし……。たしかクランのお店にイナゴが……」
エルネスティーはバッタの死骸を見つめながら、なにやら真剣な面持ちでぶつぶつ呟いている。
わたしは叫んだ。
「エルネスティー!」
ようやく我に返ったのか、振り向いた彼女が言うのだ。
「マルール。クランのお店へ行ってイナゴを五百グラム買ってきてちょうだい」
「はい」
懐から出てきたお金を受け取り──災い転じて福となすとでも言うのだろうか──おつかいをすることで図らずもこの場から立ち去れる。この場から離れられるのならもはやなんだっていいのだ。わたしは二度と一つ目の化け物を見たくないだけなんだ。
お金を受け取ってエルネスティーに別れを告げたわたしは、先ほどとは打って変わった様子で意気揚々と外に出た。
空は快晴だった。いつもは地面に薄く積もっている雪も、太陽の光の熱ですっかり融けている。気分よく大股で歩を進めるわたし。クランのお店にはものの十分ほどで到着した。お店のドアを開ける。
「クラン、いる?」
呼びかけながら入店するが、返事はなくしいんと静まり返っていた。鍵が開いているのだからお店自体は開いているはずだ。となると、どこかでちょっとした野暮用ができてそちらにいるのだろう。
わたしは店内でしばし待つことにした。店を空けたままそんなに長い間留守にはしないはずだ。
そして数分した時、カウンターの奥の扉が力なさげにかたりと動いた。出てきたのは力が抜けがっくりと肩を落とした様子のクランだ。その手には大きなガラスの瓶。
わたしの存在に気づいた彼女が言った。「ああ、あんた……」
「どうしたのクラン。すごく落ち込んでるみたいだけど」
はあ、と溜め息を吐き、ガラス瓶をカウンターに置いた。
「商品がすっからかんになっていたの。せっかく大量に買い付けたっていうのに。やんなっちゃうわもう。犯人探さなきゃ」
へえ大変だね。と言い、ついでに「ところでエルネスティーからイナゴを五百グラム買ってくるように言われたんだけど、置いてない?」と訊ねた。
「え」と目を丸くし「盗まれたのがイナゴなんだけど」とすっからかんになったガラスの瓶を指す。
「それ……え、イナゴ?」
「うん。イナゴ」
まさか、とわたしは一気に身の危機を感じた。
そのとき、背後で、「キッ」と小さく唸る声が聴こえた。
わなわな震えながら、確認しないわけにはいかない、とゆっくり体を回転させると。
「ギッ」
そこにはやっぱり大きな一つ目を携えた毛むくじゃらの小さくて黒い影が──。
「クランんんんんんんんんんん!」
「いきなり大きな声出さないで! ていうかなんなのよ!」
あらんかぎりの声で叫んでへっぴり腰でクランの元まで後ずさり、彼女の腰あたりにしがみつく。一つ目の毛むくじゃらで小さくて黒い影はどうやら窓の外にいたものらしく、既にいなくなっていた。
「一体何がいたってのよ」
「いや、小さなサイクロプスが……。一つ目で小さくて、毛むくじゃらで」
「何その変な生き物」
「生き物じゃないよ! 化け物だよ! 一つ目だよ?」
「一つ目ねえ」
ううんと唸るクランだが、ピンときたらしい。
「とりあえず離れて」
「あ、うん」
すごすご腰から離れて立ち上がり「何か知ってるの」と問う。
いわく下手物店主をやっているからか、買い付けのために珍しい動物を日頃から見ている身として言いたいのは、わたしが小さなサイクロプスと称するその生き物は、サルの一種なのではないかということだった。
「一つ目のサル?」
「違う。たぶん目を怪我したり病気だったりして、片目の瞼が開かなくなってるんじゃないかってこと」
「じゃあ、サルって虫を食べるの?」
「中型以上になるとさすがに栄養面で虫は大したものにならないからあまり食べないけど、小型なら主食にする種も多いから不思議じゃないかもね」
そ、そうなのかあ、と相づちを打ち、とりあえず小さなサイクロプス説が覆されそうで安心した。化け物相手にこれ以上かかわりたくないと思っていたが、これなら大丈夫そうだ。
しかし、そうとなればエルネスティーに報告せねばなるまい。イナゴが食べられてしまったこととクランの推理も聞かせてあげるべきだ。それでなくともエルネスティーと同じようにクランも件のサルとやらを取っ捕まえる気で満々のようだ。イナゴを食い尽くされたのがそんなに悔しいのだろうか。
とりあえず、クランに提案してわたしたちは家に帰ることにした。快晴の空にいつの間にか陰りが見え始めているのをしり目に、エルネスティーのいる地下へと足を運ぶ。
「エルネスティー」
「早かったわね。……クラン、どうしたのかしら。それにイナゴは」
「それについて話したいことがあってね」
わたしたちはエルネスティーに事情を説明した。すると、エルネスティーはますますもって興味深そうに唸る。
「小型のサルで昆虫が主食だとすると、海を越えた南東か、少なくとも南方の熱帯由来のものと考えたほうがいいわね」
問題はそんなサルが、いつでも冬らしい気温のアンルーヴの町に存在する意味だと言う。南方からの貨物にまぎれてやって来たのか、密輸されていたものが檻から脱走したのか、はたまた誰かのペットだったものが逃げ出したのか。どれにしても寒い地方にはいない生き物だ。彼女は新種の生き物であってほしいというが、この際そんなことどうでもいい。サルという可能性の高い推測が出たのだから、わたしはサルであってほしいと願っている。
「二人とも捕まえる気満々だね」
「もちろん。興味深いもの」
「ただ食いした罪は重いよ」
同時に振り向いたその表情は熱意に燃えていた。あの二人がその気になってしまったら、どうせわたしの拒否権など奪われたも同然なのだ。
「じゃあどうする。きっと相手は賢いし、それ以前にすばしっこいと思うよ。がむしゃらに探しても疲れるだけかも」
そう言うと、二人はわたしを蚊帳の外に相談を始めた。わたしはどうやら二人の作戦のための実動隊でしかないようだ。
やがて二人の間で意見がまとまったのか、こちらに振り向く。
「とりあえず、その生き物が相当にお腹を空かしているか、かなりの食いしん坊だということを見越して、八百屋を中心に張り込みましょう」
「八百屋って言ったってこの町にどれくらい八百屋があると思ってんの。張り込みきれないよ」
「大丈夫よ。相手が賢いこともわかっているんだから。ドックスおじさんのところに行って、店の外に新鮮な野菜を入れた籠を置いておけばいいの」
「わざとおびき寄せるのか」
しかし、わたしの中では、そんな単純な方法で捕まえられるのか、疑問の念が渦巻いていた。なんせガラスの瓶に入れられたイナゴを探し当て、あまつさえその蓋を取って綺麗に平らげてしまったのだ。それでなくとも地下室にあった実験用のバッタを食い尽くしている。そんな図々しい思考がはたらくなんて、相手はわたしたちの想像以上にずる賢いに決まっている。
そんなわたしの懸念など、冷静なわりに──冷静に捕獲ばかりに気を取られている彼女たちにはわからないだろう。二人の左右の目にはそれぞれ「
そんなわたしたちが早速向かった先はドックスおじさんのお店。ドアを潜って呼び鈴が鳴った。
「ドックスおじさん、いるかしら」
エルネスティーが呼びかけた先には、暇そうに新聞を読むドックスおじさん。「ああ、大勢成してどうしたんだい」とこちらを振り向いて言うと、読んでいた新聞をたたんで置いた。
「実はドックスおじさんに協力してもらいたいことがあって」
「協力?」
エルネスティーとクランは交互に説明してゆく。ふむふむと豊かな二重顎をさすりながら聞き、大体把握できたようだ。
「なるほどな。つまり新鮮な野菜を用意して、分けてもらいたいと」
「ええ」
「しかしなあ、今は旬の野菜なんて少ないし。カブとかキノコくらいか」
「できるかぎりのものでいいんだよ」
わたしが言うも、ドックスおじさんは難しそうに唸る。
「仕方ない。おれの目利きで一番いいものを選んでやろう。手数料込み、高く付くぞ」
ドックスおじさんが準備に取りかかっている間、二人はどのようにサルを捕まえるかを話し合い始めた。ドックスおじさんもかなり念入りに野菜を目利きしているし、わたしはみんなが終わるまで外に出て待っていることにした。
外に出ていつの間にやらなっていたあいにくの空模様。今日の雪は水分を多く含んでいるため、シャーベット状になっていて少し歩きにくい。店の軒先に立って濡れないようにしながら、暇つぶしに商店街を行き交う少数の人々を眺めた。
この町の人はどれほどエルネスティーが嫌いで、エリクのことが好きだったのだろう。きっと、好きも嫌いも一部の人だけで、実はエルネスティーが好きだったり、エリクが嫌いだった人もいるのではないか。そんなふうに思う。エリーヌとジャックの一件以来、きちんと話せばわかってくれる人もいるとはっきりしたのだ。
問題はきちんと話せる場やきっかけが無いことだ。エルネスティーに不信感を抱いている人が多いのは確かだし、話を聞いてくれない人もそれだけいるのだろう。病気を怖いと思うのは当然だ。
近くでがらがらと馬車を引く音が聴こえて、わたしは顔を上げてそちらを見た。装飾が派手な馬車で、窓には刺繍入りの高価そうな厚いカーテンが垂れていた。
いっそ町長に直談判してエルネスティーの誤解を解いてもらおうか、と突拍子もないアイデアが頭に浮かぶが、きっとそれはエルネスティーを困らせてしまうに違いない。エルネスティーに破れかぶれな性格と称されたわたしでも、さすがにそこまでのことは、たぶんしない。
「あ、こんなところに」
「クラン」
不意に背後の扉が開いて出てきたのはクラン。作戦準備が出来たので戻って来いとのエルネスティーのお達しだそうだ。すぐ中に戻って彼女からの指示を仰ぐ。ちらりと視線を向けた先には籠に入れられた大量の野菜があった。
「それで、わたしはどうしたらいいの」
「これ」
短めの応答で渡されたのは、手のひらサイズのL字型の塊だった。小さいわりにずっしりとなかなか重い。
「これ、なに」
「麻酔銃」
「麻酔銃?」
わたしは聞き返した。
「引き金を引くと、エル姉が作った超即効性の睡眠薬が塗られた針が発射されるんだよ。込められる針の本数は五本」
エルネスティーの代わりに得意げなクランが答えてくれる。なぜこんなものを彼女が、と思ったが、実験大好きエルネスティーのものだからろくでもない理由なのだろう。さしずめ、今回のように実験動物を捕獲するためのものに違いない。
「どうしてわたしがこれを」
「銃の扱いなら慣れているんじゃないかと思った。この麻酔銃、見つけたはいいけど扱いに慣れなくて」
もっともな理由で安心した。エルネスティーに武器なんて扱って欲しくないもんね。
以前のわたしはライフルだけでなく拳銃も扱えたのだろうか。セーフティを外し、手動でブローバックさせ、これで引き金を引けばいつでも針を射出できる。上出来だ。念のためサルが登場するまでセーフティをかけておく。
銃の扱いは大丈夫そうね、とエルネスティーが言い、わたしはしっかりと頷いた。
「どれ、じゃあ野菜を店の外に置いて待ち伏せといこうじゃないか」
わたしたちは外に出て商店街の道の真ん中まで行くと、シャーベット状の雪の上に野菜籠を置いた。ちらほらと見受けられる町の人からは、冷たい視線と意図せず振り向かないようにする雰囲気。今日のところは許してあげよう。
そうしてそそくさと店の中からサルの来訪を待とうと踵を返したわたし、その手を、クランの小さな手ががしりと掴み、そのまま笑っていない目を伴いながらほほえんだ。
「寒いけど、外で待とうね」
そう言われ、わたしは二人と一緒に路地裏の陰に身を潜ませた。
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あれから数十分が経った。
「どうしよう。なかなか来ないね」
「ていうか、すごく寒いんだけど」
わたしたちはまだまだ寒空に身を震わせながらサルの来訪を待っていた。
シャーベット状の雪は止むことなく降り注ぎ、頭や肩に降り積もっている。籠の中身の野菜は雪に隠れる有り様だった。
ここで、エルネスティーの顔つきが変わった。
「二人とも」
エルネスティーが指さした先には。
「わ、来た」
「やっぱりサルだったのね」
小さな毛むくじゃらの黒い影が、雪の積もった野菜たちに興味津々な様子で近づいていっている。その姿はようやく白日の下に曝され、その詳細の一切をわたしに教えてくれた。
体は確かに小さいが、エルネスティーの当初の推測である二十センチではなかった。それよりもさらに小さく、およそ十五センチほどだろう。クランの言う通り目は片方に切り傷の跡が付いており、癒着して開かなくなってしまっているようだった。
そして、肝心の大きな目だがこれが本当に大きい。やはり親指と人指し指で輪っかを作ったくらいの大きさがある。
「うわあ。何あの大きさ」
それで、思わず口に出す。
「あれはメガネザルの一種ね」
「うん。あたしもそう思う」
口々に知っているようなことを言い出すので、わたしはこっそりと訊ねてみた。
「メガネザルって」
「南方の生物。サルの一種。夜行性で、主に昆虫を食べて生きる。樹から樹へ跳び移りながら樹上生活をする種だから脚が発達している。逃げられたら厄介ね」
「ちなみにメガネザル全般は目玉を動かせないから、代わりに首が百八十度回転できたりもするよ」
ますます気持ち悪い生き物だ。とは言わないでおいた。わたしはこの寒空の下から脱け出したく、さっそく麻酔銃のセーフティを外し、そのメガネザルとやらに銃口を向ける。二人に視線を向け同意を取りつけると、野菜の周囲をぐるぐる注意深く歩き回っているメガネザルに狙いを定めた。
もちろん歩き回っているため狙いは非常につけづらい。だからこそ、サルが身の安全を確認し、野菜にありつき気をゆるめた時が勝負だ。
やがてサルは立ち止まり、周囲をきょろきょろと見渡した。
ここだ。そう思い、わたしはいっそうの注意を研ぎ澄ませた。麻酔銃を握る手に力が入る。
そして、サルは野菜に顔を近づけ、手を差し伸べた──。
その直前、わたしは直感で作戦の失敗を確信した。反射的に引き金を引くも。
「ギッ!」
一瞬で気づかれ、射出された針はサルがいた場所の雪に乾いた音を立てて埋まる。サルはエルネスティーの言う脚力でぴょんぴょんすばしっこい動きで遠くへ行ってしまった。
「マルール!」
「追いかける!」
エルネスティーが叫んだのを契機に路地裏から飛び出すと、シャーベット状になった地を勢いよく蹴り出した。後ろで二人が叫んでいるが、すぐ遠くへ流れてしまい聴こえない。サルは商店街の長い道をネズミのようなすばしっこさで駆けていく。
わたしはまっすぐに駆けていくサルに走りながら狙いを定めた。
「キキッ」
「あっ」
勢いよく射出された針はしかし、まるで背中にも目が付いているかのようにほんの少し体を逸らしたサルに見事に避けられてしまった。なんて小生意気なサルだ。しかし、相当な曲者だと思う。わたしがやつに銃口を向けていることを少しも振り返らず気配で感じ取るとは、並大抵の動物ができる所業ではないだろう。
だったら、とわたしは再びシャーベット状の地を強く蹴り、サルとの距離を一気に縮める。サルはその首を百八十度回転させてこちらを振り向きながら走り、ほんのちょっとだけ瞼を開いた。
あれほど小柄な動物が人間の──大怪我からも立ち直ったわたしの──持久力に勝てるわけがない。持久戦なら決して負けない自信がある。
「こぉら! 待てぇ!」
それでもサルの憎たらしさから声を上げてしまうのはご愛嬌だ。わたしは走りながら麻酔銃に針を込める。残りはあと三本。
しばらく商店街を駆け抜け、その終わりの部分まで差し掛かった。そこでサルが急に方向転換し、狭い路地裏へと滑り込む。見失わないようにそこへ駆け込むもサルの姿が見えない。見失ったかと焦りつつ辺りを見渡すと、急に頭に何かが落ちてきた。
「冷たっ」
反射的に体を逸らすも避けられず、シャーベット状の雪が落とされたのだとわかった。落とされたほうを見上げると、そこには雨どいから続く壁面の排水用パイプに捕まったメガネザルの嘲るような顔があった。
見上げつつ、あまりの怒りに沈黙。
わたしは無言で麻酔銃を取り出し、無言でサルに向け、無言で撃つ。しかし、そんなわかりきったものはひょいと簡単に避けられ、針は壁面に当たってぽとりと落ちた。眉間に皺を寄せたサルが「ケキッ」とそんなふうに鳴き、笑われているのだとすぐわかった。
間違いなくわたしは甘く見られているのだろう。今だって、さっさと鬼ごっこを再開しようぜというふうにそわそわ忙しなくパイプを行ったり来たりしている。
待てよ。
もしかしたらサルは鬼ごっこがしたいだけなのかもしれない。これが本気の逃走ならばわざわざ雪を落とすために待ち伏せたりはしないし、そもそも建物の屋根から屋根へ跳び移って逃げるだろう。だけど、やつはわたしと同じ地面を駆けて逃げている。
ははあ。
「どっちが先に力尽きるかな」
わたしはサルに向かってにやりと笑う。対してサルも口を歪ませ「クキキッ」と笑った。
数秒ののち、一陣の風が吹き抜ける。
「っ!」
それで弾かれたようにサルがパイプを伝って駆けてゆく。わたしも瞬間的に地を蹴り負けじとそれについていった。
わたしたちは狭い路地裏で熾烈な追走と逃走を繰り広げる。サルがパイプから降りれば、わたしは捕まえるために加速し、サルががらくたの上をぴょんと飛び越えれば、わたしはそれを踏みつけて超える。ぬかるんだ場所ではサルもわたしも速度が遅くなり、雪の上では思いきり雪を後方に蹴飛ばしながら全力疾走した。
やがてお互い息が上がってきた。かれこれ三十分の逃走劇で、わたしは一度もサルに触れることができていない。いい加減なんとかしなきゃ。
麻酔銃をぎゅっと握りつつ、そういえばこの場所はクランのお店がある辺りだと気づいた。もし嗅覚が鋭敏な動物がそれを不意に嗅いだらどうなるか。動きを鈍らせることくらいはできるはずだ。
わたしはその作戦に賭けた。もはやサルを捕まえるにはそれしかない。
クランのお店への最初の十字路は二十メートル先だ。その十字路でわたしはサルの右斜め前方に針を発射し、サルの進行方向を左の脇道へと誘導する。
わたしは走りながらその場所に狙いを定め、サルがその十字路の少し手前に至る場所の、その地点で針を発射した。
「キッ!」
メガネザルはものすごい反射速度で体を左に方向転換させ、思い通りの脇道へ入ってくれた。次はサルを右に誘導する。麻酔銃の残り針は一本だ。間違いは許されない。クランのお店へのもうひとつの十字路。右に誘導するべきそれを見据えた。今度は四十メートル先にあり、タイミングを図るには十分な距離が保たれている。走りながら麻酔銃を構え、わたしはサルの左前方に狙いを定めた。
三十。
二十。
十。
──「っ」
わたしは引き金を引いた。針はまっすぐに狙いどおりの地点で音を立て、それを回避したメガネザルの進行方向を右の脇道へと逸らすことに成功する。
「よしっ!」思わず声を上げそのままわたしも急いで十字路を右に曲がり、メガネザルの様子を確認する。
「いた!」
案の定クランのお店から漂う強烈に甘ったるい臭いによって、メガネザルは立ったまま死んだように硬直していた。わたしはメガネザルが逃げないように首根っこをがっしと鷲掴みした。臭いにやられたのかすっかり力が抜け、手の中でぷらんぷらんとぶら下がっている。
長い全力疾走で乱れた息をしばらくかけて整え、一息吐いてからエルネスティーたちのもとへ戻るために歩き始めた。
「エルネスティー、クラン。捕まえたよ」
メガネザルを戦利品にお店の中へと入った。そこには新たな方策を練るためにうんうん唸っている三人の姿があり、わたしの姿に気づくとメガネザルのように目をまん丸くさせて驚いた。
「三十分以上も追いかけ続けていたってのか。すげえ体力だな」
「病み上がりのくせに」
「大捕物ね」
みんな適当なことを口々に言うが、とりあえずわたしは彼らに言った。
「檻か縄か、どっちにしても身動きとれないようにできるものが欲しいんだけど」
ドックスおじさんが店の奥から細い縄を持ってきてくれた。カウンターに置いて手際よくぐるぐると縄で縛ると、メガネザルをどうするかについての考えをみんなから募る。
「それでどうするの。このメガネザル」
「どうするか、ね」
エルネスティーは首を傾げた。クランもドックスおじさんも同様らしく「捕まえた後は考えてなかったんだね……」と少し悲しくなってしまう。三十分もの間、ひとりで全力疾走してメガネザルを追いかけ続けたのに、肝心の処罰について何も考えていなかっただなんて。
すっかり意気消沈していると、不意にドックスおじさんが口を開く。
「そうだ。そいつ、姐さん方のペットにしたらどうだい。サルは賢いからきちんとなつかせられれば実験の協力だってさせられるだろう」
「それはいい考えね」
エルネスティーが間髪入れず同意する。しかし、わたしは納得がいかない。
「ちょっと待って。普通こんなイタズラザルを野放しになんかできないでしょ。しかもわたしたちの生活空間に。自由に歩けるようにしたら絶対またなんかやらかすに決まってる。わたしは反対」
首尾よくそう伝えきるとエルネスティーから厳しい視線が向けられた。そして、ぼそっと呟かれる。
「家主の意見」
ぐぐ、と歯噛みした。そこを突かれては何も言い返せない。少なくともわたしは彼女の家に居候の身だ。
「わかったよ……。その代わりちゃんとしつけてね。イタズラできないように、ちゃんと言うこと聞くように」
「当然ね」
そこでメガネザルが復帰したのか、半開きだった瞼をゆっくりと開けた。二、三度ほどまばたきしながらわたしたちを見、「キュイ……」と不安げに鳴く。
そんなメガネザルをエルネスティーが優しく抱き抱え、その毛並みを撫でながら優しく言った。「大丈夫、安心して。実験には多少役立たせてもらうけど、食べるつもりで捕まえたわけではないから」
「実験に使うんかい」
ドックスおじさんがわたしの気持ちを代弁するかのようにすかさず突っ込みを入れるが、エルネスティーはそんなことお構い無しだ。
彼女の腕に抱かれるメガネザルは実に気持ち良さそうに彼女の手の動きに頭をすり付けている。そんな様子を見てなんだか頭と胸がもやもやしてきた。走ったせいで体も熱くなっていたところだしちょうどいいかもしれない。少しの間外へ出て、頭を冷やすために寒空に体を晒すことにした。
はああ、と溜まりに溜まった疲れを全部吐き出すように大きな息を吐いた。今日は本当に疲れた。
わたしだってエルネスティーに抱っこされたいし、頭だって撫でられたい。そんなことを考えてしまうと冷やそうと思った頭にさらに血が昇る。仕方なく、もはや誰もいなくなった商店街をとぼとぼと歩き出した。
相変わらずシャーベット状の雪が頭に降りかかり、ちょうどよく頭の熱を奪ってくれるような感覚になる。先ほど通った馬車の跡を辿りながら歩くと、ところどころでわたしたちが決死の逃走劇を繰り広げた跡が見られた。そのことに少しだけ頬がゆるんだ。
そのままレールに引かれた機関車のように馬車の跡を歩いていると、それは唐突に現れた巨大な門の前で止まっていた。
「ここは」
建物の大きさと装飾の度合いからして、アンルーヴ町長のお家だろうか。
そこで不意にエルネスティーが思い出された。町長に直談判して彼女の誤解を解いてもらうアイデアが思い出されたのだ。しかし、どこの馬の骨とも知れないわたしのような人間が町長に直談判したところで、突っぱねられるのがオチだろう。それに、町長がエルネスティーについてきちんと取り合ってくれる人物なのかもわからない。
邸宅を一瞥して踵を返した。あまり長居しても意味無いしな、と気づかされたのだった。
わたしは少し足早に三人の元に戻って行った。
「ただいま」
「どこ行ってたの」
「さーんぽ」
ドックスおじさんの店に入るなりわたしはエルネスティーに問われ、適当に返事をしておく。ふと見るとエルネスティーの肩にちょこんと行儀よく座っているのはあのメガネザルだった。わたしを見て心なしかにやにや意地悪く笑っているようにも見えた。
「もうなついたみたいだね」
「すごいんだよマルール! エル姉が試しに『お手』とか『三回まわってワン』って言うと、そのとおりに動くの!」
まるで犬みたいなんだよ、とメガネザルのあまりの賢さに興奮しているクラン。いやいや、犬ほどはかわいくないでしょ。
「なあ、このおサルさんにも名前を付けてやらねえか」
「あ、いいかも!」
クランが喜びながら言うと、エルネスティーはメガネザルを引っくり返して手際よく確認し「どうやら男の子のようね」と言う。
「男の子ねえ」
「男の子かあ」
ドックスおじさんとクランが腕を組んで首を傾げた。エルネスティーはメガネザルを指で弄んでいる。
わたしはなんとなく頭に浮かんだ言葉を呟いた。「シュトート……」
エルネスティーがそれに反応した。「シュトート?」
「トートって知ってる?」
「神話上の生き物ね」
「あれはたしかヒヒだったような気がするんだけど、賢いのは間違いないらしいし」
「マルールにしてはいいネーミングセンスだね」
クランがつま先立ちしながら指でメガネザルを弄んだ。クランも随分仲良くなったようだ。
「エルネスティー、どうかな」
「悪くないわ。シュトートね」
シュトート、と問いかけるようにメガネザル──シュトートに手を寄せて頭を撫でた。シュトートは本当に気持ち良さそうで、わたしはやはり嫉妬心に苛まれてしまうのだが、エルネスティーが良いならそれでいいか、と嘆息した。
わたしは壮絶な逃走劇を繰り広げた戦友のようなシュトートに、ひとつ報いようと思った。「シュトート、ほらほら。わたしもいるよ」と言って戦友の証たる握手を求めて手を差し出すも「ケッ」という鳴き声とともにそっぽを向かれてしまった。
「もしかして嫌われてる?」
「シュトート。仲良くしなさい」
「キキイ……」
エルネスティーに叱責されしょんぼり項垂れるシュトート。どうやらわたしに対してはエルネスティーやクランとは違った別の感情があるようだ。これはライバルが一人増えたな。
そこでエルネスティーから「そろそろ帰りましょう」と言われた。わたしはそれに反対する理由が全く無く「そうだね」と頷いた。
「エル姉。今度からあたしの店に来るときはシュトートも連れてきてね」
「ええ」
「おれの店に来る時は連れて来ないでくれよ。野菜がいつの間にか食べられそうだ」
「そうね」
わたしたちは、戦利品のようなそうではないような、罠として外に置いた野菜を買い取って帰路についた。帰りの道でシュトートは終始二人にいちゃいちゃされ、わたしの嫉妬心も収まるところはなかったのだった。
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