二〇二三年 五月~

二〇二三年 五月某日

 滋賀県高嶋市は関西の田舎町だ。適度な田舎感が良いと都会から遊びに来る者は多い。だが遊びに来るならまだしも、住むとなればまた別の話。電車はJR湖西線のみ、しかも朝夕の混雑時以外は一時間当たり一本のダイヤ。路線バスも路線は多くなく、住むとなれば移動手段の確保は必須。自転車で移動できなくもないが、なにせ移動距離が長い。自転車のみで移動していれば太腿は鍛えられて競輪選手並みになるだろう。


「う~ん、自転車だけじゃ辛いかも」


 そんな安曇河町で一人の女性と三頭の犬が新生活を始めた。


「あのおじさんが言った通りに免許を取るべきだったかな……」


 職場まで延々と続く道路を見て、秋月莉々亜あきつきりりあは途方に暮れていた。風俗嬢として各地の繁華街を渡り歩き、気が付けば四十代も間近。見た目こそ若いものの体力は年齢なり、足腰は約二十年の酷使のためか痛みを訴えていた。


「自転車だけじゃダメかもしれない」


 引退して田舎暮らしを始めると最後についた常連に伝えたとき『田舎は移動手段が必要や、身分証明になるし嵩張るもんじゃないから免許を取っとき』と言われたのを思い出した。


「車の免許を取るのはは一か月以上かかるって言ってたな」


 北陸出身だと言っていたその男は「俺の故郷も田舎でな、不便やから学生でも免許を取ってバイク通学してるんや」と言っていた。莉々亜の地元では移動手段が充実していたからかオートバイ免許を取りたがる者も乗りたがる者も皆無で、免許取得も許可をされていなかった。自転車と公共交通手段で移動に事足りた都会暮らしが恋しくなったが、田舎暮らしに憧れて全財産をはたいて一戸建てを建ててしまった。


「とりあえず手っ取り早く原付免許でも取っておこうっと」


 夢だったエステの仕事も決まった。愛犬たちと過ごす家も建てた。貯金も無いとは言わないが遊んで暮らしてゆくほどは残っていない。年齢のを考えれば今から夜の世界へ戻るのは無理だろう。戻ったところで以前の様に売れっ子になれるわけがない。 


 もう後戻りはできない。覚悟を決めた莉々亜は教習所へ通うことにした。


◆        ◆        ◆


 久しく店に来なかった常連が来店するのは普通なら嬉しいことだ。学生時代にウチでオートバイを買い、社会人になって帰郷ついでに顔を出す高嶋高校卒業生なら大歓迎。トラブルを起こした客なら塩をまいて追い返す。


「で? 何で帰ってきたんや」

「苫小牧からフェリーに乗って、そこからこいつで」


 一年ほど前になるだろうか、散々な目に会って職場を去りプレスカブに乗って放浪の旅に出た常連客が安曇河町に戻ってきた。


「交通手段ちゃうわ、理由や理由」


 この男の名は中島、スーパーカブだけでなく小さなオートバイ全般を修理するプライベーターだ。ウチへ来ては部品を注文しては自宅で修理を楽しむ趣味人。少々癖のあるこの男は体の半分以上が欲望で出来ている変態野郎だ。その変態野郎は胸を張って答えた。自信満々なのが腹立つ。


「決まってるやんけ、お気に入りの女の子が引退したからや」


 職場での理不尽な扱いを受けて傷つき、荒れた心を癒しに旅に出た男が帰ってきた理由がお気に入りの女の子が(多分だが夜のお店を)引退した。なんてくだらない理由だ、呆れてしまう。思わず「そんな事やと思った」と言うと中島は「大事なことや」と答えた。


「恋に生き恋に死ぬ、それが男ってもんやろ?」

「知らん、部品が要らんのやったら帰れ」


 部品を買いに来るならまだしも、お気に入りの女の子のお(卑猥なワードばかりなので自主規制)とか(カクヨム規定に抵触)なんか聞きたくない。聞きたくないが話してくるのだから嫌でも耳に入る。俺の耳に入るくらいなら構わないが娘の耳には入れたくない。中島は青少年の健全育成に極めて有害な生物だ。


「もっと聞いてくれや!」

「聞きとないわ! 娘が帰ってくるまでに帰れ!」


 俺は長旅から帰って少しくたびれた男と、少し汚れたプレスカブを追い出した。

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