第442話 大島家の長い一日・金一郎走る

 もうすぐ十時。いつもなら楽しい楽しいおやつの時間。


「リツコさん、おやつはどうする?」

 

 いつもなら「おやつは何を食べたい?」って聞いてくる中さんが『どうする?』って聞いて来た。ごめん、今日は食べたくない。


「要らなぁい」


 答えたその瞬間に何かがバチンと弾けたような音が聞こえた気がする。その途端に下半身に生暖かい感触がした。


「あっ」

「ん?」


 足元がビシャビシャになると同時にチクチクとお腹が痛くなってきた。シュミレーションしていたとはいえ、本当に陣痛と同時に来ると思っていなかった。痛みのせいで脂汗が出る。


(痛たたた……破水と同時に陣痛だ。いよいよ来たね)

「あわわわ……リツコさんエライこっちゃっ!)


 私は痛みをこらえつつ携帯を取り出して金ちゃんに電話をした。


「金ちゃん、車を回して」


 電話の向こうから金ちゃんの『了解っ!』って返事が聞こえた。


「中さん、着替えを用意して。入院セットの入った鞄は玄関に」

「どうしたんやリツコさん、冷静過ぎるで」


「シュミレーションしたのよ、早くっ!」

「はいっ!」


 私の睨んだ通り中さんは浮足立っている。金ちゃんも『中兄ちゃんでも慌てる時がある』って言ってたけど予想通り、いや予想以上な慌てぶり。


(よし、これで赤ちゃん……レイに会える)

「姐さんっ! お迎えに参りましたっ!」


 中さんがタオルで私のお股を拭いて、着替えさせてくれている間に金ちゃんが来てくれた。私のリクエスト通りリヤシートには毛布とタオルが敷いてある。


「ご苦労。金ちゃんお願い。中さんはお店を閉めてからゆっくり来て」

「待って! 俺も行くっ!」


 よく考えたらすぐに生まれる訳じゃない。でもさっきからチクチク痛いし正直言えば早く病院へ行きたい。一分でも早く出発したい。


「四十秒で支度しなっ!」


 よく解らないけど私のテンションは妙に上がっている。


「おうよっ! 金一郎、鞄を頼むっ」

「はい兄貴っ!」


 私が金ちゃんに連れられて車に乗ろうとしたら近所のおばちゃん達がワラワラと出てきて店を閉める手伝いを手伝ってくれた。中さんはとにかく大慌て。金ちゃんに御迎えを頼んで良かったと思う。


「読み通り兄貴が慌てましたな」

「イテテテテ……ゴメン、余裕無い」


 シャッターを閉める音が聞こえたと思ったら助手席に中さんが飛び込んできた。


「金一郎、頼む」

「このクルマなら十分で充分や、行くでっ!」


 金ちゃんの運転する黒いクルマは私達を乗せてスルスルと走り出した。よく知らないけど政治家が乗る高級車なんだって。シートがホカホカで温かい。中さんのバンより乗り心地が良い。


「リツコちゃ~ん! 頑張って~!」

「いってきます」


 痛いけど、応援してくれたおばちゃん達に手を振った。


◆        ◆        ◆


 中兄ちゃんが大慌てするのは予想していた。冷静沈着で何でも受け止めると思われれている兄貴だが、それは演じているだけ。本当は神経質で繊細、そして臆病な人なのだ。


「(国道)一六一バイパスは途中から混むんで旧道で行きます」

「任せる」


 アクセルを踏み込むと微かに1GZエンジンが吠えた。その瞬間、背後に赤い光。


(しもた、白バイや)

「そこの黒いセダン、道路脇に寄って」


 億田金一郎一生の不覚、破水した姐さんを運ぶ途中で捕まるとは何たる失態。


「白バイの兄ちゃん! 緊急事態や! 見逃してくれ! 見逃してくれんなら考えがある!」


 止まらなければいけないが、ここは逃げ切ろうと思う。いや、逃げ切ろうとアクセルを踏み込もうとした瞬間に追いつかれた。V型十二気筒エンジンでもセンチュリーは車体が重い。加速ではバイクに勝てない。仕方がないのでスピードを落として白バイについて行く。


「兄貴、停まります。金一郎一生の不覚」

「いや、反則になってスマン」


 先行した白バイについていこうとしたが白バイは止まらない。それどころか『ついて来い』とでもいう様に手招きをして加速した。


「運転手さん、ついて来て」

「?」

「おお……ウチのお客さんや、ついて行け」


 白バイの先導で緊急車両として赤信号を通過する。大阪時代に警察の世話になった事はあるが、先導してもらうのは初めてだ。


「緊急車両が通過します。道を開けてください」

「交差点に進入します。道を開けてください」


 十分を切るペースで旧国道を爆走するのは少々気を使った。高嶋支所を右手に見て旧市街に入ると道幅が狭くて路駐が多い。


「金ちゃん、慌てないでね」

「はい、姐さん大丈夫ですか?」


 今日はいつもと違って大事なものを運んでいるので気を使う。恩人と恩人の奥さん、そしてお腹の子供。事故だけは絶対アカン。ハンドルを握る手が汗ばむ。産院の入り口は事前に調べてある、ウインカーを出して正面入り口前に滑り込む。


「到着。白バイのアンちゃん、恩に着るぜ」


 産婦人科前で白バイが手を振って離れた。あとで聞いたのだが緊急事態の場合は先導してくれるらしい。それと、あの白バイに乗っていたのは『高嶋署の白き鷹』と呼ばれる女性隊員だったらしい。


◆        ◆        ◆


 旧国道で張っていたら黒いセダンが爆走してきた。政治家だろうがヤクザだろうが知った事ではない。交通違反はこの『高嶋署の白き鷹』の獲物だ。


「高嶋署の白き鷹、颯爽と登場っ! 可愛くないっ!」


 もっと可愛いニックネームが欲しい。自分で言って傷付いた。帰ったら薫さんに癒して貰おう。ぎゅっと抱きしめてもらおう。


何人なんぴとたりとも交通違反は……許さない」


 時速四十キロ規制の道で暴走するセダンを追走開始。時速八十キロを軽く超えた。サイレンを鳴らし赤色灯を点ける。ところが追い抜いた瞬間、後席に友人の姿が見えた。リツコちゃんだ。高嶋署へ配属された私に初めて出来たお友達が寝ている。


「そうか」

 

 妊娠中の友人を乗せて爆走、つまり緊急事態だ。バックミラーを見ると助手席におじさんの姿。間違いない、お産だ。すぐさま本部に無線して先導の許可を得る。

 

「緊急車両が通過します。道を開けてください」

 

 これは職権乱用ではない。


「交差点に進入します。道を開けてください」


『道路交通法施行令13条2項

前項に規定するもののほか、緊急自動車である警察用自動車に誘導されている自動車又は緊急自動車である自衛隊用自動車に誘導されている自衛隊用自動車は、それぞれ 法第39条第1項 の政令で定める自動車とする』


 要するに赤色灯を灯してサイレンを鳴らしている緊急車両についてくる車両は緊急車両ってこと。出産は人生の一大事。命がけだから問題無い。


 産科前でセダンが参加の手前でウインカーを出した。運転手の掌が見えた。『ありがとう』って事だろう。手を挙げて答えた。セダンが産科へ入ったのを確認してサイレンを止めた。私はここでお役御免。


「リツコちゃん、頑張って」


 私は友人の出産が無事終わる様に祈った。 


※フィクションです。登場する人物・地名・団体・施設・その他諸々は全て架空の存在です。実在する全てとは無関係です。

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