第437話 竹原の正月

 ジリリリリリリ……チン……。


 午前六時、目覚まし時計を止めた竹原はベッドの上で伸びをしてからボクサー時代から愛用しているスウェットに着替えた。正月休みなのに早起きなのは運動の為。特に去年はお転婆な先輩が妊娠したり産休したりでスパーリングが出来なかった。とにかく運動不足で仕方がない。そこで正月休みの間はランニングを日課にしていた。


(先輩はどうしとるかのう、正月が明けたら様子を見に行くか)


 ちなみにその先輩は朝は九時起床で旦那に朝ご飯を作ってもらい、ひたすら甘えまくりながら出産へ向けて準備をしている。


「フゥ……さて、走る前にエネルギー補充じゃ」


 冷蔵庫から卵を取り出してグラスに割り、醤油を垂らしてからの一気飲み。生卵を五個飲んだ竹原は玄関先で軽くストレッチをしてからまだ暗い街を走り始めた。


(正月から動く工場は無いのぅ……静かなもんじゃ)


 竹原の住む真旭町は歴史の教科書に出ていた士農工商に当てはめると『工』の街だ。『商』がメインの安曇河町や『工』『商』がメインの高嶋町と共に、『士』『農』がメインの今都町から格下扱いされている。


 平成の大合併の時、最も築年数が少なく市役所の仮庁舎とされていた旧新旭町役場を財政難から本庁舎として使用するのが決定した時、市庁舎は今都に建つものだと思っていた旧今都町から多額の損害賠償金や慰謝料、そして謝罪を要求されたのは全国でも有名な話だったりする。


 コンピューター基板の工場や織布工場のある一帯を走り抜け、ガソリンスタンドの前を通って真旭球場へ向かうのが竹原のランニングルートだ。


「ふぅ、チョット水分補給っと」


 自販機でスポーツドリンクを買って水分補給。少しシャドーボクシングをした竹原は再び走り出した。


(そういや食パンを切らしとったのぅ……よし、買って帰ろう)


 食パンを買おうと思った竹原、次の目的地はミス安曇河が務めるコンビニ。怖い顔な竹原だが、人並みに美人が好きだったりする。ちなみにタイプはおしとやかで酒を呑まない女性だ。要するに化け猫先輩リツコと逆である。


(食パンと、ピーナッツバターかマーマレード……)


 パン派ではないが、ご飯を炊くのは面倒だ。正月だが雑煮なんて作る気がしない。運動はするがゆっくり休みもしたい。部屋の掃除だってしたいし洗濯もしなければいけない。『男やもめに蛆が湧く』と言うものの、竹原はマメで家事が得意だったりする。特に料理は学生時代にアルバイト先の中華料理店で鍛えたプロ並みの腕前だったりする。


(パンと目玉焼き、あとは野菜でも刻むかのぅ……買う方がエエか)


 朝食のメニューを考えているうちにコンビニに到着。真旭町は安曇河や高嶋より若干だが治安が悪く人々の気性が荒い。そのせいか旧車會と呼ばれる暴走族の様な……いや、今どき珍しい悪しき昭和時代からタイムスリップしてきたような族車が多くみられる。このコンビニの駐車場も例外ではない。早朝から地を這う様な車高短な黒いセダンが一台、エコだのアイドリングストップだのうるさい風潮に逆らうかの如く妙な排気音を立てて停まっていた。


(ガラの悪いクルマじゃのぅ、怖いのう。それよりパンとジャムじゃ)


 竹原は首にかけたタオルで顔の汗を拭き、店のガラス戸を押した。


◆        ◆        ◆


「ぐヴぇヴぉい!」

※差別的な意味の今都言葉


 上下白いジャージの若者が金髪を振り乱してレジの女性アルバイトに怒鳴っているのを見た竹原は思わず若者の肩を掴んでレジから引き剥がした。


「兄さん、お行儀が悪いのぅ……ん?」

「ぎゅヴぉりゅしゃい!……ぎょヴぉ? 竹原っ!」


 なんとレジで女性を怒鳴りつけていたのは高嶋高校を退学した田谷ギョヴュヲだった。※314話参照


「お……お前はっ!」

「ぎゅヴぉ~! ギャヴャセッ! ぎゅぼりゅっしゅんにゅっ!」

訳:うわっ! 放せっ! このド畜生めっ!


 必死で竹原の手を振り払おうとするギョヴュヲだったが、体力の差があり過ぎる。竹刀も防具も無い状況では手も足も出ない。剣道なんて得物が無ければ只の人だ。


「……誰じゃ?」


 竹原は教師である以前に一人の人間だった。人間とは忘れる生き物。覚えている価値の無い名前なんて忘れてしまうのだ。名前を覚えていたとしても思い出すのは困難だろう。暴れ小熊と呼ばれる今都の馬鹿餓鬼にはマナーが無い。田谷ギョヴュヲは少年院で他の入所者の食事からデザートや肉を奪おうと手を突っ込み、ボコボコにされたり暴れて看守に取り押さえられたしていた。


「てめぇっ! ギョヴュヲ様の名まうぇ名前を忘れやがったなぁぁぁぁぁ!」


 田谷ギョヴュヲの顔は少年院に入所する前と大違いだった。出所後は髪の毛を金色にしたり自堕落な生活で体重が四〇㎏も増えてしまったりと大変化を遂げていた。少年院でボコボコにされたりさすまたで取り押さえられたりした時に喉を押さえられたからか声も変わっている。顔も殴られ続けて形が変わっている。竹原が思い出せないのも無理が無い。


「はて?」


 実は竹原の記憶容量は少ない。大事な事や仕事の事は滅多に忘れないのだが、大事でない事はすっかり忘れてしまう。つまり、『田谷ギョヴュヲ』なんて名前は大した事ではないのだ。どのくらい大した事ではないかと言えばBSで再放送しているアニメで女博士が立腹している同僚の後で『自分を自慢し褒めてもらいたがっている。大した男じゃ無いわ』と資料をライターで燃やすくらいに大した事ではない。


 竹原は女博士を見て「こんな怖い女は嫌じゃ」と思ったりしたのと後ろでロッカーを蹴りまくる同僚の女性キャラを見て「良いキックしとる」と呟いたのだが、そんな事は正直どうでも良い。


「お嬢さん、今のうちにポリ公へ連絡を。兄さん、ちょいと面を貸せやぁ」

「てめぇ、まじゅヴぇわしゅうぇやぎゃっちゃにゃぁぁぁぁ!」

訳:テメェ、マジで忘れやがったな!


―――――十数分後―――――


「違うっ!!」

「そっちの金髪の方ですっ!」


 のんびりとサイレンを鳴らさずに現れたパトカーから降りてきた警官は事も有ろうに竹原に銃口を向けた。


 後に竹原は化け猫先輩に「竹ちゃんは撃たれたくらいじゃ死なないでしょ?」と言われて「死ぬわっ!」と答えたりするのだが、それはさておき。


「ぎゅりゅをしゃぁぁぁぁぁはにゃぎぇぎゃをぁ~!!!!!」

訳:うおお~離せ~!


 幸いな事にアルバイト店員が説明して事なきを得たのだが、問題はその後だった。田谷ギョヴュヲの乗って来た車から『今都煙草』と呼ばれる怪しい煙草状の物が見つかった。


「今都煙草に合成麻薬、うほっ! 大麻樹脂まで有るぜ……一通りあらぁな」


 応援が到着して調べると出てはいけない物が出るわ出るわの大騒ぎ。


「ひゅう……ん? 田谷? お前、まさか前に俺の愛車を盗んだ奴か?」


 しかも黒いセダンは無車検・無保険の盗難車。さらに盗難された別のクルマのナンバーまで付けていた。運転していた田谷ギョヴュヲは無免許。しかも刑事を殴って業務執行妨害と威嚇射撃のおまけが付いた。


「民間人に銃を突きつけるんは良うない」

「この事は御内密に……」


 竹原は「うっさいボケ、死ね、カス!」と警官に意見を述べ、食パンとジャム、そしてツナサラダとコーンサラダ、そして嵩増しの刻みキャベツを買って店を後にした。


「朝からご立腹じゃ! あと、荷物が邪魔じゃ!」


 帰りは袋が邪魔で走る事が出来ない。食パンだけならまだしも「お正月限定のお餅プレゼントです」と渡された切り餅が重い。こんな事ならコンビニに寄らず、一旦帰ってからクルマで来れば良かったと後悔する竹原だったが、愛車のハイエースはちょっとした買い物で使うには少々大き過ぎる。


「買い物用に原付でも買うかのぅ……荷物を詰める奴で……ハイエースで動くには真旭は狭すぎる」


 色々考えて歩いていると赤信号に捕まった。ボンヤリと信号が変わるのを待っている竹原の前を一台のオートバイが白煙を吐いて走り抜けた。


 ビンビンビン……ビイィィィィィン


「三輪バイクか、正月からごくろうじゃのう」


 荷台の黄色いコンテナケースには朝一番に採れたであろう白菜。走り去るジャイロUPを眺めながら竹原は呟くのだった。

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