第142話 リツコ・牛乳を飲んでから
『これは孤独なバイク屋の物語である。2017年。かつて全国で勧められた3ナイ運動は弱体化し、小型限定ではあるが高校生がバイクに乗る時代へと突入した…
この街の学生が訪れるホンダ空冷横型エンジンを積んだバイクを扱う店。すなわち、この物語の主人公である。
「おじさん!ライトが点かなくなちゃった~!」
「電球切れだね。ちょっと待っててね~」
「また止められた~!もう2種登録にする!」
「そうだね。免許が有るならボアアップしちゃいなよ」
たとえば、この男。暴走を嫌い、爆音を嫌い、二段階右折を嫌い……
「俺、失敗しないから」
整備士の資格と叩き上げのスキルだけが彼の武器だ。バイク店店主、大…』
「磯部さん、熱心に何読んでるの?」
「これ?年末に買った『モンキー』」
正月休みに読もうと思っていた小説だが、理恵と餅争いをしたり呑んだりで結局読めなかった小説『モンキー』を読み始めたリツコだった。
「このバイク屋さんがちょい悪オヤジで渋いのよ。叩き上げのスキルと……」
「もうすぐタクシーが来るから外に行こな」
今日は
「おう、今日は来たな」
会場へ入るとA・Tオートの平井が大島たちに声をかけてきた。
「あれ?平井さん、奥さんは?」
「嫁と来たら思いっきり呑めへんやんけ。お前は彼女連れか?」
「はい。いつもウチの
リツコが平井に頭を下げる。
「おお~大島にも春が来たか」
「この娘さんはご飯食べに来てるだけやで」
平井以外の車屋仲間も大島に声を掛ける。
「若い彼女連れて~お前もやるな~」
「もうピストンはシリンダーに入れたか?ボアアップしたんか」
「慣らし運転はしたか?いきなりオーバーサイズピストンか?」
弄られ放題で見せ物状態。下ネタもバンバン飛び交うがリツコはご機嫌だった。
「はい!もうレッドゾーンまでブン回してますっ♡」
「レッドゾーン…大島!お前は幸せもんやなっ!」
「……レッドゾーンって何やねん。訳が解らん」
会長である高村の挨拶もそこそこに宴が始まる。
「大島の彼女さんは呑める口やな!俺と呑み比べするか?」
「え~私、あまり呑めないからお手柔らかにお願いしま~す」
「磯部さんっ!駄目っ!」
「馬鹿野郎!俺の邪魔するんじゃねえ!」
(俺はアンタの心配をしてるんやけどな。まぁいいや)
グラスに日本酒がなみなみと注がれる。
「ごめんなさい。私はこれはチョット……」
「何だぁ?グラスじゃ多過ぎて呑めないってか?」
磯部さんがグラスの日本酒を一息で飲み干した。会場がどよめいた。
「チョットだから物足りないのよ。ジョッキで呑みましょう♡」
磯部劇場の始まりである。
2018年
「こ……この姉ちゃん……酔わない……」
「私、泥酔しないので」
「例えばこの女、酒を好み、料理を愛し、食べ残し・呑み残しを嫌う。可愛い顔で丈夫な胃袋。そして優れた肝臓機能が彼女の武器。酒場の女神・磯部リツコ……またの名を……ドランカーX」
「大島、お前は何をぶつくさ言ってるんや?」
「去年やってたドラマのナレーションを真似してる」
酒場の女神に挑戦した哀れな男達は救急車で運ばれていった。
「お前の相方…凄いな」
「まさか牛乳を飲んだだけでここまで飲酒量が増えるとは」
呑む前に牛乳を飲んでおくと、酔いにくいらしい。たんぱく質や脂肪が胃壁にどうとかこうとかだそうな。ちなみにもう一段酔いに強くなる飲み物が有るらしい。
「すまん。お前の彼女がここまでとは思わんかった。許してくれ」
「何だか場を壊してしまって申し訳ありません」
高村社長に頭を下げられてしまった。こちらも謝るしか出来ない。
「♪~(大人の事情で歌詞は表示できないけれど熱い曲)~♪)」
ステージ上のカラオケで磯部さんがジョッキを片手に歌っている。ジョッキの中には琥珀色の液体がなみなみと入っている。
(泡立っていないからビールでは無い。ウーロン茶な訳が無いか)
「歌ってる姿は可愛らしいんやけどな」
「おお、ウイスキーが水の様だ」
やはり中身はウイスキーだ。ご機嫌だけど大丈夫かな?
「大島は猛獣使いやな」
「そこのビンを見てみな。ジョッキの中身はウイスキーや」
「1・2・3……潰しも潰したり8人か。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
若干の落伍者は出たが、新宴会は賑やかなうちに終わった。
◆ ◆ ◆
翌朝、リツコは大島の布団で目を覚ました。シーツは乱れ、所々に血液らしき赤い染みが付いている。服は何も着ていない。手首には薄くだが痣が有る。
常日頃から大島の布団に入り『男の布団に入って来たら~』と説教されているリツコは酔って自分の身に何が起こったのかを想像した。
酔いつぶれて中の布団へ入って裸で目を覚ます。どう考えてもアレしかない。それ以外は考えられない。泥酔した女が男の布団に裸で目覚めるとはそう言う事だ。
「私……失敗しちゃった」
シャワーを浴びて服を着る。居間へ行くと炬燵で大島が泣いていた。
「中さん……昨夜はごめんね。覚えてないけど」
「うぅ……リツコ、あんた昨日の事は覚えてないの?」
「中さん、何が有ったの?喋り方が変よ」
「あんた、本当に覚えてないのねぇ」
昨夜、リツコは帰ってくるまでは普通だったらしい。帰って来てからが大変で、結婚について色々と大島に語り続けたらしい。
「しばらくしたら急に酔っぱらっちゃったのよ」
「中さん。そんな所を押さえてどうしたの?」
「まぁ酷い。本当に覚えてないのね」
大島は震えながら昨夜の出来事を話した。
★ ★ ★
急に酔いが回った磯部は大声で叫び始めた。
「私はお料~理で中さんの胃袋は掴めな~い!」
「はいはい。お水飲んで寝ようね」
「中さんは自営業だから給料袋も掴めな~い!」
「だから、何で磯部さんが俺の財布を握る必要があるの?」
「お袋さんの心も亡くなってるから掴めない!」
「何で袋にこだわるの!お願いだから寝て!」
「だから、私はここの袋を掴むのっ!」
「そこはっ!」
「えいっ♡」
「ウギャ~ッ!No~~~~~~!」
結婚で大事なのは、お袋・胃袋・給料袋・堪忍袋…等と色々な袋に例えられる。で、リツコはその中の1つを掴んだのだ。物理的にギュッと力一杯。
★ ★ ★
「どこの結婚式で聞いたのかしら?おっさんの下ネタよ」
「掴んだの?本当に?」
「見せる訳にはいかないけど、見たいの?」
「う~ん。ちょっとだけ」
「え~見るの~?」
「保健室の先生だからね」
「や~だ~。恥ずかし~い」
「すぐに済むから……ね、ちょっとだけ。ちょっとだけだから」
リツコが半ば強引に昨夜掴んだ袋を見ていると戸が開いた。
「おはようござぃ…あ…ごめんなななななな」
朝ごはんを食べさせてもらおうと大島宅へ来た葛城だったが、大島の股間を見るリツコ等というとんでもない場面に出くわして、愉快な声を上げながら走り去った。
「葛城さん!誤解よ!待って!」
「晶ちゃん!待って!話を聞いてっ!」
何とか捕まえて事情を説明した。誤解が解けたかは定かではない。
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