第106話 葛城・フロント周り交換
「
一昨日は松茸食べ放題ツアー、昨日はご朱印巡り、明日は湖東三山巡り。すっかり今都公民館の格安観光バスと化した高嶋市行政バス。地元市議からの要請で支持者へバスの貸し出しもするので大忙しだ。
車内は宴会場と化し、今日も研修と言う名の旅行が執り行われていた。
「あの……観光バスじゃないので飲食はご遠慮願いたいのですが」
運転手の抗議もなんのその
「遠慮して食べてるでしょ?私たちは選ばれた人間。栄光の今都の住民よ」
「私たちはお金持ちだから何をしても許されるのよ?解らないの?」
「貧乏人とは格が違うのよ格がっ!」
観光バスを借りる金を惜しんでいる連中が金持ち気取りとは笑えるところだが、本人たちは自分たちが上流階級であることを疑っていない。
「おい、車夫。お前ら如き雇われバイトなんか管理官に言っていつでもクビに追いこんだるぞ。ワシらは高貴な今都市民。お前は何処から来た?何処に住んでる?管理官も今都市民やぞ?栄光の今都市民に何言うてるんじゃオドレは!」
運転手が「私は安曇河です」と答えると車内は騒然となった。
「私たちが貰う自衛隊基地周辺環境補助金にすがって合併した安曇河の物乞いめ! 貴様らは世の中で最も劣った生物だ。蛆虫以下の存在だ!」
「いやしい民族め。恥を知れ!! 身をわきまえろ貧乏人!」
「全ての起源はわが今都にある! 劣等民族め! 滅びろ!」
今都らしい考え方である。
空になった酒ビン・空き缶が運転手を襲う。運転手だけでなくバスが追い抜く者にも投げつけられる。
高嶋市所有のバス。
使っているのは市内のレンタカー業者が嫌がる行儀の悪い連中。 追い抜かれる時に窓から酒ビン・ゴミ・空き缶が飛んで来るのは琵琶湖を周るライダーやチャリダーの間では有名な話だ。マナーと常識の無い今都の人間にとって、窓からゴミを投げ捨てるのはごく普通の事である。
もちろん葛城もそれは知っている。普段ならミラーで見逃す事は無い。だが、この日の葛城はちょっとだけ注意散漫だった。
「せっかくバイク仲間が出来たと思ったのに……」
休日の甘い物巡りのツーリング。最近は磯部と出掛けていた葛城だったが、ちょっとした出来事があり、磯部を誘えなくなってしまった。
「どうしようかな。おじさんにもう一回相談してみようかな……」
仕事中では考えられないぼんやり運転で近江八幡へ向かう。
「ん?」
ボンヤリと運転していた勝つ阿木はミラーに映った『高嶋市』の三文字に気付くのが少し遅れてしまった。窓から投げ捨てられた空き缶・空き瓶が彼女と相棒を襲った。
「うわっ!おっと!」
必死になって避ける!だが、一瞬反応が遅れた。
(駄目だ!避けられない!南無三!)
ブレーキをかけて突っ張ったフロントタイヤが酒瓶を踏んだ。
ゴスンッ!
ハンドルに衝撃が走り、タイヤに弾かれたビンは草むらへ飛んで行った。 普通のライダーなら転倒する状況だったが、白バイ員だけあって普段の訓練のおかげで転倒する事無く、葛城はカブを路肩へ寄せた。
「酒を呑みながらどんな公務に出かけるのよバカ~!」
走り去る高嶋市役所のバスに怒鳴った所で何も解決しない。少し冷静になった葛城はカブを押して湖岸の駐車場へ入った。
「あ~、もうっ!」
衝撃を受けたフロント周りをチェックする。パンクはしていない。だけどリムは少し曲がっている。走行不可の状態ではないが修理は必要だ。ハンドルを動かすとカクカクとした感触が有る。明らかに車体までダメージを負っているのはメカに疎い葛城でも解った。
(やっちゃったなぁ、ぼんやり運転はダメだ)
このままの走行は危険と判断した葛城は予定を中止して帰る事にした。
◆ ◆ ◆
その日の午後、大島サイクル。
「やってしもたなぁ……フロント周りは全部分解やでぇ」
大島の表情が冴えない。葛城が思ったよりカブの損傷は大きい様だ。
「幸い、フォークやフレームは歪んでないみたいや。でもハンドルがカクカクする。ベアリングが痛んでるで。交換するには前周りを全部分解せんなんな」
「しばらく乗れないですね」
がっくりした葛城は椅子へ崩れ落ちた。
ガッカリする葛城に構うことなく大島はゴソゴソと何かを探していた。
「直すだけやったら三日も貰えたら出来るけど、せっかく全部分解するしなぁ。ついでにフロント周りをこれに換えてみますか?」
大島は「ジャン!」と言いながら何かを葛城に見せた。
「あ、アンチリフト?」
「フロントの浮き上がる動きが気になる言うてはりましたよね?」
取り出したのはカブカスタム五〇に付いていたフロントフォーク。スーパーカブのボトムリンクサスペンションはブレーキでフロントが浮き上がる。これを上手く使うとローダウンしてもフェンダーにタイヤが擦らずに済むのだが、走行安定性の面では余り褒められた物ではない。
『これがカブらしくて良い』と言う意見もあるが、変な癖と感じる者も居る。葛城は後者だった。違和感は覚えていたが、今まで思い切りが付かなかった。丁度良い機会だ。換えてもらおう。問題は値段次第だ。
「ホイールも交換してどの位かかりますか? あまり高いと無理……」
「二万五千円でどうですか?」
中古部品とは言え、塗装に出すのと交換しなければいけない部品はある。なるべく安い値段にしたつもりだ。
葛城は少し迷ったが思い切って「じゃあお願いします」と返事をした。
思わぬ形ではあったが、葛城カブの改造が始まった。大島は郵政カブの塗装のついでにフロントフォークの塗装を高村ボデーに依頼した。調色の手間を省くために今回の郵政カブは葛城カブのフロントフォークと同じタスマニアグリーンメタリックに塗ってもらう事にした。
「フロントフォークだけ先に塗る。出来上がったら持って行かせる」
「社長、毎度毎度すいません」
塗装を待つ間に傷んだベアリング・ベアリングレースを交換しておく。
「おっと、やっぱり打痕があるな。こらアカンわ」
強い衝撃だったのだろう。外したベアリングレースにはくっきりと打痕が有った。残念ながらタイヤとチューブも交換。中のコードが切れたのだろう。タイヤは膨らんでいる所が有る。
「タイヤは交換やけど、ホイール周りは中古部品でコストダウンっと」
程度の良さ気なホイールに新品タイヤ・チューブを装着。ブレーキは再利用。ワイヤー類は駄目でも後で交換出来るので再利用する。
作業をこなすうちに閉店時間が近付いてきた。シャッターを閉めようとしていたらバイクの音が近付いて来た。それもかなり大型なバイクのエンジン音だ。カブ系メインのウチに来る大型バイクといえば、あの娘しかいない。
「大島さんっ♡ 晩御飯はな~に?」
スキップしながらリツコが飛び込んできた。
「来ると思ってなかったから適当。カップ麺食べて寝る」
「お腹を空かせた仔猫ちゃんに美味しい物を食べさせようって気にならない?」
三十年生きて仔猫とはどうした事か。大島は化け猫か猫又だと思ったが言わなかった。
「手の込んだもんは出来ひんで~」
「何でもいいよ~呑んで待ってるから」
昨今の飲酒運転の取り締まりが厳しい世で、公務員であるリツコがバイクで来ておいて酒を呑む宣言をするというのは泊まっていくと言う事だ。
(泊まるつもりか? 明日は……あぁ、祝日か)
「バイクは倉庫に入れとくで。盗まれたら大変や」
「じゃ、お風呂入れとくね」
ゼファーと店を片付けて手を洗う。砂入り洗剤で手首まで洗うキレイになった手で冷蔵庫を開けるが、中にはカボチャの煮物くらいしか無い。
「かぼちゃの煮物しかないわ」
「ブ~、何かお肉も食べたいぞ!」
人の家に押しかけてメニューをリクエストするこの女は世間一般から見ると非常識な部類に入るのだろう。だが、磯部は人を見る眼がある。甘えて大丈夫か否かは一目見れば一発で分かるのだ。
「何か作るから、先にお風呂に入っといで」
「『先にシャワーを浴びてこいよ』ってやつね……私をどうするつもり?」
話しながら調理にかかる大島にリツコは色っぽく答えて風呂に向かった。普通の成年男子ならドキリとする処だが、大島からするとリツコは手の掛かる姪の様な感覚だ。特にメイクを落とした顔を見るとそう思っていた。
「どうもしません。
とりあえず飯は冷凍する。冷凍餃子が有るからそれを焼いて、あとは野菜炒め。汁物も欲しい……中華スープにモヤシ・ワカメ・油揚げを放り込んで溶き卵を入れる。仕上げに刻みネギをパラリ。何となく形になった。
「汁とおかずはOK」
続いて中華鍋にひき肉・玉ねぎ・小エビ・葱を炒めて卵を投入。そこへ解凍した飯を入れて炒める。 即席だがインスタントではない炒飯は得意の料理だ。
「今夜はこんなもんか」
「お風呂、戴きましたぁ♡」
丁度良いタイミングでリツコが風呂からあがって来た。化けの皮メイクを落としてスウェット姿の彼女は年齢より幼く見える。食卓を見たリツコは大喜び。
「大島さんの嘘つき~、何も無いって言ってたのに~」
「この位はすぐに用意できるでしょ?」
「……いっただっきま~す」
「出来へんのかい」
この娘は家で何を食べているのだろう?
「やっぱり餃子にはビールよね♪」
「餃子くらいはすぐ焼けるでしょ?焼かないの?」
「私が焼くとグチャグチャのひき肉炒めになるの……」
「最後にごま油をクルッと一周流すんですよ」
ほろ酔いの彼女は頬が桜色に染まって可愛らしい。だけど、呑んだビールの量は可愛くない。 頼むから『仔猫ちゃん』の範囲で止めて欲しい。呑み過ぎると『虎』になる。
「ねえ、大島さん」
「何ですか?」
また『私の為にご飯を作って』とか言うのかな?
酔った彼女は俺に抱きついてきた。
「私、勘違いして葛城さんに酷い事言っちゃった。仲直りしたいの。手伝って」
彼女は泣いている。気にしていたのか。
「リツコちゃんは良い子やな。おっちゃんが何とかしよう」
頭を撫で続けているうちに彼女は眠ってしまった。
「やれやれ……」
リツコを布団に運び、大島は夕食の片付けを終えて湯船に浸かった。
「どうしたもんかなぁ」
考えがまとまらないまま夜が更けていった。
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