第100話 磯部・シーツの血

良い臭いがする……コーヒー……なぜ…誰が?


日曜の朝、コーヒーの香りでリツコは目を覚ました。


ここは何処だろう。ぼんやり考えていたリツコは

自分が一糸まとわぬ姿である事に気付いた。


見知らぬ部屋で見知らぬ布団。リツコは身を起こした。


(あ……)


乱れたシーツと太腿が血で汚れている。尻の下には赤い染みが…。


運命の出会いと思って交際を申し込んだ葛城は女性だった。

ショックで寂しくて、話し相手が欲しくて大島サイクルに行った。


食事をしたのは覚えている。その後の記憶が無い。


(ああ……やっちゃった……)


何も覚えていないが、手首には痣が在る。体中が痛い。

布団と太腿の血。何が有ったか想像できないほどウブじゃない。


どう見ても一線を越えたに違いない。


「どうして……どうしてこんな事に……」

急に喪失感に襲われたリツコの目から一筋の涙がこぼれた。


「目は覚めましたか?」ガラス戸の向こうから声がする。


「大島さん?」


「俺の服ですけど、取りあえず着てください。」

枕元に目をやると、畳んだTシャツが在った。


「お風呂を入れておきましたからどうぞ。シャワーも使えます。

場所は廊下に出て右です。その間に朝ごはんを用意します。」


体がベタベタしているのでバスルームを借りる事にする。


シャワーを浴びて全身を洗う。内腿に付いた血とベトついた体。

生臭い匂いがする。何をされたのだろう……あれしか無いか。


もう30歳。今までそういう事が無かったのがある意味珍しいのだ。

問題は事の後始末。被害をこうむるのは常に女性だ。


酔ってメイクを落とさず寝てしまった。肌が心配だ。

でも、それより心配な事が有る。


(こんな時は、72時間以内に医師の診断を受けて処方しないと……)


不思議な事に、よく聞く初体験後の異物感や痛みは感じない。


(ああ、昨夜の相手は大島さんか。やっぱり大島さんも男なんだ)


必死に抵抗したのだろうか、体中が痛い。

手首のあざは何だろう。無理矢理だったのか…。


(初めては好きな人にって思ってたんだけど…酔った勢いでかぁ…)


バスルームで湯船に身を沈め、ぼんやり考えていた。


「代わりの服を置いときますね」


カゴに畳んだスウェットが在る。


体を拭き、スウェットを着る。ブカブカだ。

鏡に映る自分は化粧をしていない事もあって、童顔だ。

子供っぽいが、可愛いのではないかと思う。


(うら若き乙女の体を弄ぶなんて……)


脱衣場の引き戸を開けると大島が居た。


「二日酔いはしてないですか……ああっ!あんた誰やっ?」

「大島さん?その顔…何が有ったの?!」


お互いに顔を見てフリーズした。

リセット・再起動・システムチェック…コンディショングリーン。


数十秒後、2人は正座で向き合っていた。


「あんな酔い方をするなら酒は辞めなさい。」


リツコに説教する大島の顔は、ひっかき傷・歯型・青痣で

とんでもない事になっていた。鼻にはティッシュが詰められている。


「ご迷惑をおかけしました。」


謝るリツコの顔はノーメイク。化粧を落としたリツコは

信じられないほど童顔だった。一見、高校生に見えるくらいだ。


昨夜、酔いつぶれたリツコを寝かそうと布団に運んだ大島は災難に襲われた。


「布団に運ぶ途端で目を覚まして、噛みつく・引っ掻く・叩く…」

「ご迷惑をおかけしました」


「鼻の穴に指を突っ込んでくるから鼻血まみれになるし……」

(鼻血だったんだ…)


シーツの血はリツコの破瓜の血では無かった。大島の鼻血だったのだ。

手首の痣は必死になった大島が抵抗した跡だった。

300㎏近い大型バイクを乗り回すリツコは女性の割に力が強い。

酔ってリミッターが外れた力で暴れたのだろう。ひどい有り様だ。


昨晩の大島は吐きそうになるリツコの為に洗面器を用意したり、

転がり回るリツコの面倒を一晩中見ていたのだった。


よく見れば目が赤い。寝不足なのだろう。


「大笑いして裸になってしまうし、脱いだら脱いだでプロレス技を掛けるし」


太腿の血も大島が流した血だった。どんな技を仕掛けたのやら。


「シーツの血は私の血だと思ってました。その…したことが無くって…」


「初めて酔いつぶれたみたいですね」

「それも初めてで」


R18な展開だと思っていたら、別の意味でとんでもない事だった。


「普段はこんなにならないんですけど……ごめんなさい」


「酔った時の事を責めるのはマナー違反やけど、あれは駄目です」

「はい…」


何も知らない者が見るとお父さんに叱られる女子高生の様だ。

童顔に見えても三十路だが。


「まぁ、それはさておき。朝ごはんにしましょう。二日酔いは?」


「はい、大丈夫です」


大島と磯部はどちらも一人暮らし。誰かと共にする朝食は久しぶりだ。

トーストとベーコンエッグ。それとサラダ・インスタントのコーンポタージュ。

質素な食事だが、料理が苦手なリツコにとってはご馳走だった。


「化粧で変わるもんですね。同じ人とは思えませんよ」

「顔が幼いから教育実習で言う事を聞いてもらえなくって」


「教育実習で生徒に馬鹿にされてメイクを研究ですか…」

「ええ。今でもこの通り童顔で」


「可愛いですよ。大人っぽいメイクも悪くないけど」


リツコは照れながらトーストを齧る。

「あ、このジャム美味しい。でも、何のジャムかしら?」


「それは自家製の無花果ジャム。俺が煮ました」


「え?このジャムは大島さんが作ったんですか?」

「まだまだ完璧には出来ひんのですけどね」


何という事の無い会話だが、一人で黙って食べるより楽しい。


「ちょっと待っててくださいね」


大島は食事後のコーヒーを出した後、何処かへ行ってしまった。


リツコはコーヒーを飲みながら、ぼんやりと部屋を見ていた。

1人暮らしなのに片付いた部屋。きれいなキッチン。

食卓のふきんは漂白されて真っ白な清潔なもの。

大島はマメな男なのだろう。


「嫁に欲しいな…」


そんな事を思っていると、大島が戻って来た。

手にはハンガーに掛けられた服と畳まれた下着。


「女性物の服は20年ぶりくらいや。腕が鈍ったわ」


「20年ぶり?」


「クリーニング工場で働いていたもんで」


雀の鳴き声・クルマが走る音、周囲が動き出した音が聞こえるのに

家の中には2人の会話以外の声は聞こえない。静かな時が流れる。


「ところで大島さん。御一人ですか?ご両親は?」

「事故で亡くなりました。もう10年以上前の話です」


「ご結婚は?」

「婚約者が居ましたけど、いろいろあってね」


「磯部さんは?」

「父は病気で他界。母は再婚してニュージーランドに居ます」


「実は、磯部さんに謝らんとアカン事がありまして」

「葛城さんの事ですか?」


「バイク友達が欲しいんやと思ってたら、好きになってはったとは。

私も葛城さんが女性な事はすっかり忘れていまして」


「あの顔で女性って反則ですよね」

「まったく。神さんの間違いもエエとこやで」


顔を見合わせていたら急に笑いが込み上げてきた。


着替えに邪魔だろうと部屋を離れて、大島は新聞を取りに出た。


すぐにご近所の奥様方に取り囲まれた。


「昨夜は大騒ぎやったな!」

「もうすぐ冬やのにあたるちゃんに春が来たんか?」

「このまま嫁に来てもらい」


大島は逃げ出した。だが、回り込まれてしまった。


ご近所の奥様方に囲まれる大島を助けるべく、着替えたリツコは外に出た。


「あんた!何人連れ込むんや!」


昨日リツコを見た奥様が怒りの目で大島を見ている。


「こんな子供も連れ込んで!見損なったわ!」

スッピンの自分はそれほど違うのかとリツコは落ち込んだ。


「待て~!みんな誤解や~!話を聞いてくれ!」

「子供じゃないもん!大人だもん!わ~ん!」


逆に騒ぎが盛り上がってしまったのは言うまでもない。


事情を説明するのに3時間かかった。





大島に胃袋を掴まれたリツコは通勤途中に大島宅へ寄るようになりました。

その辺りはまた別のお話。

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