マテリアル ハント

@plamo

異動先はブラックだ

「本日付けで、コミックヤングワールド編集部に配属されました小塚優美です。どうぞよろしくお願いいたします」

エレベーターを降りてすぐ、緊張をよそに、元気と笑顔の挨拶を放った。


1フロアブチ抜きの、ひときわ広い見晴らし、流石は大手出版社、天下の『人類社』その売れ筋漫画雑誌『コミックヤングワールド』の編集部、強烈な威圧に気圧される。

なのだが、見渡せばどのデスクを取っても、整理整頓とはかけ離れた惨状。さながら、大都市の高層ビル群、はたまた、火山噴火の溶岩なだれる裾野。

先輩、同僚の方々を見れば、私に見向きもせず、仕事に精を出している、まるで何かに取り付かれたように。

ブツブツとパソコン画面に文句を言っている人。電話で同じ言葉を繰り返しては、お願いしますと、頭の上げ下げを繰り返してる人。少ない頭髪をかきむしっては、笑い続ける人。机の下に潜り込んでじっとしている人。

私は、大きく息を呑み込み、自分の置かれた現状を憂いだ。

此処は、完全にブラック部署に違いない。


「あ、あのすいません、あのすいません…」

勇気を出して、手当たり次第に声をかけるも、取次はおろか、誰も私を相手にしてくれない。これはもしかして、いきなり虐めに合っている?

その時遠くから、慌てふためく私を呼ぶ声が聞こえた。

「小塚君、小塚君、こっち」

オフィスの奥で手を振る、恰幅の良い中年男性。彼こそが、編集長の尾笹さん、なのであった。

やっぱり編集長、唯一の常識人なのねと、私は、ツカツカと、混沌の中を突き進んだ。


「こ、小塚優美と申します『ウエブ版コミックワールド』から異動して来ました」

「ああ、小塚君ね、聞いてますよ。

ようこそ、異世界へ」

「は?」

このヤングワールド編集部の事?それとも、精一杯頑張ったおじさんギャグ!?尾笹編集長、顔はまあまあ良いのに残念だわ。いけない笑うところね。

「は、はははははーっ」

「ん、こほんっ」

しまった、わざとらしかったかしら。

私の額に、冷たいラインが数本かかった。

違う、分かったわ、これは誉めて欲しかったと言う事ね、もうこれだから漫画編集部の叩き上げは面倒なのよ、無闇に中二を入れるから。私の空気読み能力のスペックが高くて助かったわ、ほっ。

「フフフ、編集長分かっております。まさに此処は異世界。見渡せば、高レベル勇者、ハイソーサラーの方々で一杯で、私なんか底レベルの旅人には、生き抜くだけで精一杯の世界です。ですが、命を懸けて、クエスト達成に、全力で努める覚悟があります。見ていて下さい、あっと言う間に、役に立つ冒険者になりますから」

よ、良し、大丈夫ね、見事乗ってあげたわ。編集長の顔を見れば分かる。感心しきった、その羨望の眼差しが物を言っている。

「ほう、そうでしたか、頼もしい限りです。即戦力で使える方は、貴重な人材だ。何しろこの世界は、広すぎますので」

本当に広いオフィス、少し無駄とも言えるけど。私の前いた部署は、B2機械室の隣の部屋だったから、窓の景色が眩しいわ。

この栄えある、コミックワールド編集部に栄転になったからには、私の才能を惜しみなく発揮し、お役に立てる所存です。

まあ経験者と言えば経験者、だけど勝手が違うから即戦力になるかどうかは、少し不安ですけど、お手柔らかにお願いします。

「はい、やる気だけはあります。全力で頑張ります」

「うん。では、早速ですが、君には『タピオカ広之』先生を担当してもらいます。今、担当者が不在でしてね」

「は、はいっ」

早速、担当の仕事に付けるとは驚いた。最初は雑用係が常套のこの業種。それにしても、タピオカ先生とは、私でも知っている有名漫画家先生だ。

「あの、正直いきなりの事で、何をどうしたら良いのか、戸惑っています。引き継ぎと言うか、前担当者の方は、どうなされたのでしょうか」

「ああ、それが、一月程前から、戻って来ないのだよ、ダンジョンから」

「は?」

「まあ、良くある事だろこの業界」

確かに、聞き及んでいます、業界あるある。精神疾患等を患い引き籠もってしまう話。過酷な業務に因るところが大きい。つまり、ここ、やっぱりブラック。

「と言う訳で、引き継ぎは、タピオカ先生から直接聞いて下さい。よろしくお願いいたします」

「は、はいっ、了解しました」


こうして、私は異動初日から、人気漫画家先生の専任担当者になりました。驚きの待遇、凄い出世です。

そして早速、意気揚々とタピオカ先生のご自宅がある、東京の端っこ江戸川区に向かうのでした。


電車を降りるとすぐ目に入る、存在感あるタワーマンション。下町と言う事もあり、高層ビルが他に無い事も理由にあるが、ちょっと場違いな位、目立っていた。そこにタピオカ先生は住んでいる。

「お家賃高そうだなあ」


タピオカ先生は、ヤングワールドの他にも他社の連載も持っている売れっ子漫画家先生なのだ。と言っても、うちの掲載作『異世界名探偵サクラ』は現在下火、一時の勢いは無く、打ち切りが危ぶまれているけど。


ピンポーン

呼び鈴を鳴らすと同時に、緊張が増した。

前部署、ウエブ版の編集部では、作家さんに直接会う事はめったに無く、打ち合わせ等、その殆どがネットで完結していた、と言うのも作家さんの殆どが素人さんで、投稿サイトみたいなモノだったから。

それに、不安要素も当然あった。聞いた話では漫画家さんには個性的な人が多く、例えば、超絶な美しい物語を書く人が、私生活は真逆、薄汚いジメジメした生活を好むとか。好きな事だけに生き、それ以外の事を拒絶し続けたコミュ障の人とか。俗世との関わりを総て絶ち、自分の創作した世界に入り浸ったままの廃人とか…

恐ろしい。そんな事を思うと、ますます緊張が高まり、足が震えてきてしまった。

私、大丈夫だろうか。セクハラを強いられて玩具にされたり。実は私こそが餌で、この身を生け贄に捧げられたりして…

か、帰りたい…などと憂いでいると、インターフォンが対応した。

「はい、どなた?」

「あ、恐れ入ります。私、ヤングワールドから来ました。小塚と申します。タピオカ先生でしょうか?」

「ああ、どうぞ、入って下さい」

「ありがとうございます」

一階エントランスの自動扉が開いた。

私は、ゴクリと喉を鳴らした後、足を進める。

御影石の床に、ワークシューズのヒールを小気味よく鳴らす。マゼンタカラーのステンレス壁面に、淡い間接照明が上手に影を創り平静さを演出していた。見慣れぬ観葉植物が、仄かなアロマを漂わせる。すぐ外では、立ち飲み屋の豚串がお腹を擽る匂いをさせていたのを思い出し、マッチングの妙に、ただ感心した。


待機していた、エレベーターに乗り込み、44階を押す。

一抹の不安と期待を、気圧の変化と一緒に飲み込んだ。



呼び鈴は鳴らさず、ノックして扉を開ける。

「失礼します」

私のマンションの4倍は広い玄関には、スニーカーが一足だけで、ゴミも無ければ、何にも無い。

「ど、どうぞ中へ入って下さい」

声が聞こえた廊下のつきあたりの部屋に進む。床にも埃一つ落ちて無い。

私は感心と一緒に安堵の息を吐いた。何だか、普通の人かも知れない。もっと、物だかゴミだか区別の付かないモノだらけの部屋で、足の踏み場と悪臭に悩まされるんじゃないかと懸念してたから。


「はじめまして、この度、専任担当者となりました、小塚優美です。よろしくお願いいたします」

「ユ、ユミタン…」

「は?」

「いえ、は、は、はじめまして、タピオカ広之です…コ、コ、コーヒー飲みますか、コーヒーでいいですか…」

「ありがとうございます、でもお構いなく…」

そう応えると、広々としたリビングに私を置き去りにして、タピオカ先生は別室に消えた。コーヒーでも用意しているのだろう。

一見して、気弱で腰の低そうな人。

猫背でヨレヨレのシャツに、ボサボサ頭、それに、瓶底メガネは、まさにイメージ通りの漫画家、少し微笑ましくもあるが。


大きな夕焼け空が美しい。窓の外に広がる赤と金色に染まる展望は、遠くの海まで続く雑多な街並みを眼下に網羅していた。

こんな凄い所に住んでいるなんて、やっぱり漫画家先生って儲かるんだな。

ピンポーン

ん?お客様。

「コーヒーお待たせしました」

「す、すいませんです」

玄関の方から声が聞こえた。コーヒーのデリバリーを頼んでくれたようで、私は、少し恐縮したが、次第に漂ってきた、香ばしい煎れ立てコーヒーの匂いで、場の空気が和らぐ。

「お、お待ちどうさま。ユ、ユミタンは、砂糖とミルクは要りますか」

「えっ!?…いえ、大丈夫です」

「じゃ僕も」

「…いただきます」

ユミタンって言った。

確かに今、私の事ユミタンって言った。

先生を見やると、サッと顔を背けた。

そして、小指をピンと立ててコーヒーを啜った。

「ゲホッゲホーッ…苦っ」

「だ、大丈夫ですか」

「だだだ、大丈夫です。ちょっと熱かっただけです、け、決して苦くありません。そうだ、ミルクを入れて冷まそう、ウハハハ。ごくっ、ウゲッ不味っ、いや、熱っ」

「せ、先生、無理しなくてもいいですよ…」

「え、いや、無理してないですよ、本当に熱かっただけですよ。そうだ、砂糖も入れよう」

すると先生は、スティックシュガーをザアッと入れた。

「どうぞ私のも使って下さい」

「あ、ありがとうございます。ユミタン優しい…」

「ユ、ユミタンて…」

せ、先生は、見るからに甘そうなコーヒーを美味しそうに啜りながら、ニヤリと笑った。

ああ、やっぱり漫画家先生って変わってる。

「あの先生、早速ですが、担当引き継ぎの件で、打ち合わせをしたいのですが」

「せ、先生なんて、堅苦しい呼び方はやめて下さいよ。ぼ、僕の事は、…ヒロタンとでも呼んで下さい」

「率直に申し上げますと、先生、『異世界名探偵サクラ』の立て直しを、尾笹編集長から申し付かされました」

「い、いやあ、ヒロタンと言って欲しかったなあそこは…」

…名探偵サクラの低迷の原因はハッキリしている、ひとえに描写力の低落だ。本来、緻密でリアルな描写が売りの作風だったのに、最近では見る影も無い。

複数の仕事を抱えて、忙しい上に、担当者の失踪が時間効率を悪くし、画力降下に拍車を掛けていたのだ。

「今がキツイのは重々分かっていますが、尾笹編集長の言うには『いい加減にしろ、今度落としたら打ち切り』だそうです」

「ひいっ」

「…私が出来る事は、何でもやりますので、何なりと仰って下さい」

「し、資料集め、情報収集と写真を、お願いします。前の担当者の方にも頼んでいたのですが…そのまま失踪しちゃいまして、アハハ」

タピオカ先生はアシスタントを使わないので、私が資料集めをやれば、その分、作画に掛かる時間が増える。理にかなったやり方だ。

「喜んでお受けします」

「あ、ありがとう。ユ、ユミタンは経験者の方だと、尾笹さんから聞いてますが、移動は分かりますよね?」

「はい?ええ、お恥ずかしながら異動はもう三回目なので、慣れっこです」

担当職こそ初めてだが、雑用係は慣れっこで、資料集めは、北は新潟、南は名古屋まで、狭く深く飛び回っていた。大きい物から小さい物まで、ご要望にかなった情報をぬかり無く提供できるのは、私のもう一つの特技スキルのおかげだ。一を聞いて十を知る者と、畏れ敬われた程に。

「おお、た、頼もしいです。では、早速今から行きましょう」

「はい。善は急げですわ」

「あ、ありがとうございます今日、この時間じゃないとダメなんです。す、少し、残業になるかもですけど」

「問題有りませんわ」

と言ったものの、何の資料を集めに何処に行くのだろう。それに一緒に行く口振りだし。

先生は、玄関で靴を履き始め、スマホを取り出し、どこぞに電話を掛け始めた。

訳が分からないけど、私も靴を履き付いて行く。

「あ、タ、タピオカです。今からゲートを開けます」

「ん?」

「…はい、そうです。二人、時間は三時間、目的地は

デヒルダムです」

「んんん?」

先生の目つきが変わった。至って真剣に瓶底メガネを輝かせ、薄笑いを浮かべた。

しかし、一体何を言ってるんだこの人?

「それでは、行きます。移動の魔法、デューイ」

先生が、妙な事を口走った瞬間、いきなり、警戒して身構えている私の腕を掴んだ。

「キャッ、何!?」

「あ、ちょ、動かなで」

突然、耳鳴りがして、浮遊感がした。

「何するの、止めてっ」

嫌っ!

パーーンッ


辺りが真っ白になった中。私は、タピオカ先生の頬をひっぱたいていた。

頬には、くっきり手の形がついて、私は先生の腕の中で、瞳を潤ませ、眉をつり上げていた。

「酷いよ、ユミタン…」

「は、離してよっ」

「はい」

突然放たれたものだから、ドサッと尻餅をついてしまった。

「もう、何なの、ってか…え!?えええっ!?」

周りが、暗い。

「え、えーっ」

風がある。

「何でっ!?」

そして、地面。

「何で、外なの!?」

見渡す限り草原。柔らかそうな下草が、風にその身を削り、彼方まで飛んで行く。紫色の夜空に、まだ赤い大きな月が昇り始めていた。

驚愕だ。

外はいい、外は分かる。だって玄関出たら外だから。だけど、なんで草原なのよ。たった今まで、タピオカ先生のマンションに居たんでしょ私達、江戸川区ってそんな所だったっけ、あの豚串屋はどこいった。それで私は、そう、セクハラされたのよ。やっぱり漫画家先生って変態だったわ、もう帰るー。

私は、パニックで、思考がおぼつかず、キョロキョロと辺りを見回すだけだった。

「ああ、良い月だ。絶好のロケーションだね、ユミタン」

先生は、姿勢良く胸を張り、下弦の月を仰いで私を呼んだ。

随分とデカい、お月様と態度に、違和感を禁じ得ない。

そして、未だしゃがみ込んでいる私に、手を差し伸べて、優しく微笑む。

その手を取ると、力強く引き寄せてくれた。


「ようこそ、デビルダムへ」


それを聞いた途端、疑問と文句と憤りが、頭から口へなだれ込み、詰まった言葉が顔面を真っ赤に染めた。

「~ってか、先生、何で、此処、突然、どこ、嘘、バカっ」

「バカって…」

すると先生は、半ベソで訴えかける私の頭に、ポンッと掌を乗せて言った。

「もしかして、異世界初めて?」

い、異世界だと。

「そうに決まってるじゃない。異世界なんて有り得無いわよ。えっ、てか、本当に異世界なの此処。信じられない、突然すぎるわ、嘘でしょ、嘘と言って、も~バカっ」

「ま、また、バカって言われた…はいはい、説明しますよ」

平然としている、タピオカ先生に反して、狼狽え、戸惑う自分。そんな自身を客観的に思うと、全身の力が抜けた。

ガクンとくずおれて、両手両膝を地面に着けた、オルズ。

「わあ、ユミタン」

思考停止の寸前に、一を聞いて十を知る、そんな諺を思い出した。私のスキル。

納得すればいいのよね…

「せ、説明はいいです。教えて下さい…此処に来た目的。異世界で何をするの?」


「そりゃ勿論、仕事ですよ仕事。資料集めして貰います」

とぼとぼと歩きつつ、思考を巡らす。

ふと、冷静になれば、忘れていた音が耳に入った。虫だか蛙だか電子音だか、音色に混じって懐かしのフィールドミュージックが聞こえた気がした。

本当は千葉県辺りじゃないの?市原の方もこんな感じだったから、ハハハ…

そんな、足取りの重い私とは打って変わって、先生は揚々と歩を進めていた。

「フンフンフン~♪」

明らかに、マンションに居た時とは違う人格。自信に満ちた陽気な人になっていた。

「お、ユミタン、ほら見えたよ、エルネストの街」

声に従い顔を上げると、大木の向こうに明々と街の灯りが見えた。

何でも、このデビルダム地方に点在する都市の一つで、獣型ヒューマンが多く住んでいるそうだ。獣型ヒューマンは、皆、おおらかで人懐っこいとの事だが。気が重い。私としては、この、突然連れて来られた世界の夜の山奥に不釣り合いなコスプレ、つまり獣人なんて漫画の登場人物だけとしか思えなかった。街に着いても、せいぜいハロウィンの催し物をやっているだけ、全品30%OFFとかで。

そう、私はうんざりしていた。

その時、後ろから声が聞こえた。

「あら、センセ、こんな時間にお珍しい」

振り向くとそこに居た、ケモミミに私は驚いた。

先ず、コスプレでは無い、強いて言うなら特殊メイク。その頭部に付いている立派な耳が、片方ごとにピピッと動いては、感情を表していた、懐いてる?嬉しそうに目を細める表情も、完全に女性、大人の女だわ。

真っ黒で、きめ細かい毛が、頭から足まで生えているが、細か過ぎて、皮膚のようにも見える。何故か、身体の前面に毛は生えて無いから、肌色の顔と大きな、ち、乳房が、丸見えだ、って、それトップレス、首に引っ掛けたストールでギリギリ見えないアノ首。いや、物凄い色気だ。負けた。

てかしかし、この人何処かで見たような…

「おお、ファビュラさん、こんばんは、奇遇だね」

あたふたしていた私は、その名を聞いてつい、声を上げた。

「あーっ、そっか、ファビュラさんだ《名探偵サクラ》のファビュラさんじゃないですか」

「あら、お嬢ちゃん、何処かで合ったかしら」

「おー、その言い方、まんま漫画と一緒だ」

タピオカ先生の作品異世界名探偵サクラの登場人物、謎の美女ファビュラのそっくりさんが此処に居た。

「ハハハ、正解…まあ、モデルと言うか、まんま使わせて貰いましたよ」

えーっ、異世界の人を自分の作品に使うとは、待てよ、そう言う事か。

先生の緻密な描写力、神懸かったキャラクター誕生の秘密が分かった。つまり、創造物と思われていた世界観、キャラクターの数々は、実在する物や人を元にした、見てきたモノだった訳だ。

私は、納得と共に、感嘆の吐息を洩らした。

「わ、分かりました。此処で資料集めをする意味が」

先生がニコリと笑って応えた。

「そう、頼むよ。僕の作品の未来は、ユミタン、君に掛かっているんだ」

先生の描写力を上げる事、それが再び作品の人気を上げる方法なのだ、元々面白さには定評のあった作品、私の取材によって息を吹き返せば、きっと、アニメ化だって夢じゃない。

その仕事の重みに、私は、武者震いした。

「ねえセンセ、今夜も寄って行って下さるんでしょ、うちの店。ねっ、センセ」

振り向くと、ファビュラさんが先生にベターっと身を寄せていた。誘うような流し目に、先生は伸びた鼻の下とへの字目で応えていた。

「い、いや、今夜は、仕事なんだ、残念ながらね」

「えー、新しい娘も入ったのよ、センセ好みの可愛い娘」

「ど、どんな娘?」

「サーバルキャットちゃん」

「う、ひょう、マジで、可愛い娘?」

「ゴホンッ」

「ああっと、ま、まあ、立ち話も何だから、ファビュラさんの店に行こ、うん、そこで詳しく打ち合わせしましょ」

「店って…」

「うん、ぼ、僕、常連さんなんだ、その、ネ、ネコカフェの…」



「いらっしゃいませー」

「あら、センセ、お連れさんも一緒に、毎度ごひいきにっ」

「いや、まあね」

「…」

薄暗い店内に、官能的な火の灯り。

ウニャウニャと群がる獣型ヒューマン達のお出迎えに、デレデレと顔を綻ばす漫画家先生。

そのケモミミのウエイトレスのどれもが、きわどい服装をしていた。

「先生の趣味が分かりました」

「いや待て、彼女達獣人は、こういった薄着が普通なのだよ、文化の違いさ。僕達の世界でも、犬猫は裸が多いだろ、だから決してエロく無い」

「ふーん」

その時、ファビュラさんに連れられて、小柄の豹柄獣人がやってきた。

「あっ、サ、サーバルキャット」

「はい、お初にお目にかかります。カリンと申します」

む、アイドル風キュートな顔立ち、大きな耳が特徴で、幼げにはにかむ表情が面倒見をそそる。胸こそ私の勝ちだが、華奢な肢体に若さの象徴ミニスカート、セーラー服風ブラウス?まんま女子高生じゃないか!

「めちゃ可愛い、いくつ?」

「は、はい、20才です、成人してます」

「こういう仕事初めて?初々しくていいね~」

「ふ、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

何が、ネコカフェかっ。キャバクラだろっ。

私達は、店の一番奥のボックス席に通された。


流石にアルコールは無しで乾杯をした後、やっと、今夜のお仕事の話になったが、内容を聞いて、私はまたもや憤慨した。

「バ、バカーっ。く、熊の写真なんて、ムリ、ムリ、ムリに決まってます」

エルネストの街に隣接する森丘、そこに出没する《下弦の月の輪熊》の取材、それを私一人でやってこいだと。

「大丈夫だよ、魔獣に悟られない、気配を消すアイテムもあるし。何しろ僕達の世界と違って此処では、身体能力が、かなり高くなっているから。崖から落ちてもへっちゃらな程に」

「嫌です、絶対行きません」

「そんな事言わないで、意外に大した事無いから本当に」

先生の口振りと、ファビュラさんともう一人の同席者、サーバルキャットのカリンちゃんが、揃って身の保証をしてくれたが、本当ムリ。野生の熊の写真を撮るなんて、親が聞いたら怒鳴り込んで来るわよ、異世界でも。

「…そもそも何で私一人で行かなければダメなのですか。先生も来て下さいよ」

「仕事です。だって、僕には僕の仕事がありますから。僕は此処でネームを書く、ユミタンは森に写真を撮りに行く。どっちが欠けても、漫画は完成できない、掲載休止、つまり落とすって事になるね」

今週号の《異世界名探偵サクラ》は作者の都合により休載させて頂きます。

そんな文字が脳裏を過ぎった。

そして、作品は打ち切りに、私は担当者の任を解かれ、今度こそクビに…血の気がサッと引いた。

「まあ、僕は強制しないよ。もうこれは、ユミタン次第。さあ、どうする?」

「…くう、や、やりますよ。やれば良いんでしょ、やれば…」

「おお、ありがとう、流石ユミタン、格好いいぞ」

全く他人事だよ、この先生、ああもうイヤ。

「本当に危険は無いのでしょうね。もしも怖いと感じたら、すぐ帰りますからね。それと、サポートもしっかり付けて下さいね、アイテムや装備とかも」

「勿論、分かっているよ。僕達がこの世界にいる内は、スマホが使えるから、何かあったら連絡して。それと別段特別な装備品などは無いけど、気配を消すアイテムは強力だ、信じて頼っていいよ、はいこれ」

そう言って、先生に手渡されたのは、小さな赤い実だった。匂いは無く、見た目も果物、綺麗な果実だけど。

「これ、食べるのですか?」

「あら、パルトの実ね、美味しいわよ。フフフ、効果は絶大、私達も森へ入る時にはよく使うわ」

実績はあるようだ。ファビュラさんが続けた。

「それと《下弦の月の輪熊》は、幻の熊と言われて、滅多に見られないけど、この下弦の月夜ばかりは、人里近い森でよく目撃されているわ。月の光が降りる、広い場所を探すといいわよ」

幻の熊…月の光…さ、流石異世界ね。

「もう、じっとしてても、どうたらこうたら、取りあえず行きます」

そう言放って、私は立ち上がった。

「ん?先生は、仕事しないの」

「僕はこれが仕事さ、新しいキャラの設定」

そう言って先生は、隣りに座っているサーバルキャットの尻尾をさすりさすりしていた。

「やあん、センセ、くすぐったい、です…」

「ほほう、なるほどなるほど…」

「あら、センセ、別料金頂くわソレ。フフフ」

~く、くっそう。

私は、これ以上ここに居ては、殺人事件を起こし兼ねないと思い、店を後にした。

因みにこの、ファビュラさんの経営している店の名は『ニャンニャンニー』と言う、リラクゼーションカフェらしい。

この世界に、風営法とかは無いのだろうか。

全く本当にイヤになる。

先生は今頃、ニャンニャンニーで、キャッキャウフフ楽しんでいる事だろうよ。私だけにこんなむちゃくちゃな仕事させて。

本当にブラック、真っ黒だ、この部署。

まあ、担当の仕事なんて理不尽と聞いていた。漫画家さんと担当の間柄も。


月明かりに浮かぶ坂道を、足取り重く、私はとぼとぼ歩いていた。


もう30分程、経っていた。

大きなお月様のお陰で、夜でも歩く妨げにはならなかったが、月明かりの届かない森の奥に入るのは後にして、周辺部から散策していた。

既に使用していたパルトの実の効果は絶大で、気配を消す能力は勿論、それに加え、怖さも緩和されているようだった。

度々、この異世界の動物達に遭遇した。魔獣と呼ぶらしい。小さな鬼の角を生やしたウサギっぽい奴や、真っ白いシカっぽい群れ。どれも全くこっちに気付かず、まるで透明人間になったみたいだったが、白黒の小ブタっぽい奴には、つい可愛いと声を出したら、驚いて逃げ出された。

いつの間にか、気分は探検家だった。


さらに30分が経った。

確か、この異世界に入る前、先生は利用時間を3時間と言っていた。もうその時間になる。

月に雲がかかり、辺りに闇の垂れ絹が降りると、夜空には無数の星がはっきりと見えだした。

天の川では無い。それは十字にクロスした、星々のスクランブルだった。

私は、その星空を見上げ、暫く時を忘れた。

此処は異世界だが、私の生まれ育った現実とはまた違った現実の世界で、見ること叶わぬ、多くの人々が、笑い、泣き、悩み、苦しむ生活を日々送っているのだ。自分と同じく。

そう思ったら、何だか妙に、親近感を感じてきた、この異世界に。


月は一向に顔を出さず、辺りはほの暗いまま、誰も居ない。

ふと時間の事が気になって、取りあえず先生に電話を入れてみる事にした。

これで帰る事になったら、仕事が出来ない奴と言われてしまうかな。それだけならまだしも、原稿落とす事になったら…それは絶対嫌だった。

数回のコール後、電話は繋がった。

「は、はひ、もひもひ、タピオカでふ」

何っ!まさかまだお店で猫ちゃん達と遊んでいるのか?

「もひもひー?…イヤん、センセ、そんなトコ触っちゃ、べ、別料金です、あん…」

あの野郎…

「ちょっとっ、先、せ…ん!?」

私は咄嗟に、スマホから手を放し、自分の口を塞いだ。

スマホがゆっくりと、地面に転がった。

「あれ?もひもひ…もひもーひ…」

あまりの驚愕に、声と、悲鳴が勝手に漏れ出さないようにするために。

私の目前に、突如姿を顕した、巨大な魔獣に、自分が此処に居る事を悟られないようにするために。


雲が流れ、再び月が現れると、その光に照らされた箇所だけが、黄金色に輝いて見えていた。木々に遮られた上半身は、暗がりに溶け込んで、全く見えない。

その魔獣が、真っ直ぐ私に向かって森を抜けると、全貌を顕した。

下弦の月明かりを浴び、全身黄金色に輝いた巨大熊。これこそ《下弦の月の輪熊》に相違なし。

下弦熊は、立ち止まると、器用に二本脚で立ち上がった。その聳え立つ高さは、4メートルもあるだろうか。唸り声を漏らし鋭い犬歯を剥き出している、その頭部は意外に小さかったが、私の頭など一噛みでグシャリといきそうだ。鼻をヒクヒク上下左右に向けては、しきりに匂いを嗅いでいた。

もしかして、私を探しているの?

私の全身が震えた。塞いでいた口の中も、歯が鳴りそうだったから、指を突っ込んで止めた。この恐怖、まさか、パルトの実の効果が切れてきたとか。

は、早く、此処から逃げなくては。

そ、その前に、仕事があった。

写真を撮らなくては。


私は、勇気を絞り出して、スマホを拾い構えた。

まだ、下弦熊には、気付かれて無い。

スマホを持つ手が震えるのを、震える手で支えて、シャッターを切った。

「パラリ~ン」

しまった。み、見つかった、目と目が合っている。

私は、どうしても大きなそのシャッター音の存在を、忘れていた事に後悔した。

下弦熊は、ガッガッガッ、と鼻を鳴らして、眉間に皺を寄せて、私を睨み付けていた。

完全に、パルトの実の効果が切れたのだ。

逃げ出そうと思い、足を動かそうとしたけど、身体は言うことを聞かず、その場にへたり込んでしまった。口からは、あ、あああ、と変な言葉が出るだけ。

目の前が真っ白になった瞬間。

「ガアアアアーーーッ」

鋭い咆哮を上げ、私めがけて下弦熊が襲いかかった。

「きゃああああーーーっ」


「んっ、トリャアーーーッ」

「!?」

ゴキンッ

大きな鈍い音を立てて、私の顔寸前で、下弦熊の脳天に、踵落としが炸裂していた。

「ウゴアーーーッ」

悲鳴のような雄叫びと共に、熊は後退りし、突如現れた、その原因を見据えていた。

「ごめん、ごめん、お待たせ」

「せ、せ、先生~」

さっきと同じ、ヨレヨレボサボサの格好だけれど、断然頼もしく目に映る。

下弦の月と熊を背景に、すっくと立った、その姿を見て、私は、恥ずかしながら、ジワッと涙が出た。

「もう、わ、私、う、ううう、わーん」

先生の差し出す手を取り、私は、引き寄せられた勢いで、そのまま首に抱き付いた。

「ユミタン。本当にごめんね。でも、パルトの実の効果が切れたお陰で、居場所が探知出来たから。間に合って良かったよ」

先生は、優しく、私の頭をなでなでしてくれた。

ここが異世界って事もあり、本物の勇者に見えてしまった。

「さあ、ユミタン、僕の後ろに隠れてて、下弦熊は、まだやる気満々だ」

ノソノソと歩きながら距離を取りつつ、私達との間合いを計っていた。金色に輝く額には血が滲んでいた。

「せ、先生、戦うのですか」

「うん。でも大丈夫、さっきの見たろ、僕達はこの世界では本当に強いんだ、多分ユミタンでもそれなりに戦えるよ。それにしてもデカい熊だね…」

ムリ、戦うのなんて、思っただけで気絶しそう。百歩譲って、ファンタジックに攻撃魔法でも出来れば別だけど。

その時だった、月が雲に隠れ始めた。

見る間に、下弦熊の黄金色は解け、暗がりと同化し始めると、姿を見失った。

「あ、あれ?何処へいった」

「先生っ、気をつけて。下弦熊は月明かりが無いと姿が見えないわ、でも見えないだけでちゃんと居るの」

「うそっ。それは、困ったな…」

先生は、手を広げて私を庇うように盾になった。

ザッザザッと足音が近付いて来る。凄いスピードで。

「来るっ」

ドゴッーン

瞬間、衝撃が走った。先生ごと私の身体は吹っ飛び、地面に叩き付けられた。

「いってーっ、突進された。大丈夫、ユミタン」

「あいたたた、大丈夫です」

追撃に備え、瞬時に身構えると、距離を取った下弦熊が、また姿を露わにしていた。

雲の切れ目から、月明かりが注いでいた。

「くっそう、姿が見えている内は、襲わないつもりだな。月が隠れるのを待っているんだ」

熊は頭が良いと言うけど、頷ける、やっぱり魔獣なんだ。

「先生、逃げよう、今なら逃げられる…」


「いや、戦う」

先生は、瓶底メガネを外して言った。

「これこそ、仕事だ。奴の全力を受け止め、僕の持てる力の限りをぶつける。それで初めて見えてくる事もある」

瞳の奥に揺らぐ、探求者の炎を見た。

彼こそは、創作家。

そうか、これが漫画家魂かっ。

「ユミタン、協力してくれ」

「は、はいっ、何を」


「スマホで、動画を撮ってくれ」

「え、ええっ!?」


煌々と照らされる下弦の月の光も、やがて大きな雲に覆い隠される。

その場の誰もが、それを知っていた。

黄金色に輝く大熊は、激昂の視線を私達に突き刺したまま、一定の距離を保っていた。つかず離れず、退く気配は微塵も無く、虎視眈々とその時を待っている。

退けば許してくれるかもしれない。だけど、縄張りに踏み留まる者に対しては、妥協の意思は無く、有るのは、容赦なく与える凶刃と、命懸けの洗礼。

それは、獣、故の、王としての役目。


今、一際大きく分厚い雲が、下弦の月を飲み込もうとしていた。

「き、消え始めたわ…」

黄金の輝きが褪せ、闇と同化が始まった。

しかし、星をも隠す暗雲のせいで、完全な暗闇が、私達をも取り込んだ。

無条件に怖い。その暗黒に対する私の勇気は、掴んだシャツの手に力を込めるだけだった。

「来るぞっ」

物凄い速さの足音が、近づいて来る。まるで疾風。

ザッザザーーーッ

「ユミタンっ」

「はいっ」

先生は言った、下弦熊は必ずまた、ぶちかましをしてくると。それは、魔獣の熊故の習性らしく、体当たりで吹っ飛ばした後はのしかかり、為す術無くガブリ、だそうだ。

だから私達は、力を合わせ、熊のぶちかましに耐えるのだ。

「怒っせーーーい!」

ガッシーーーーンッ

大きな鈍い音がして、私も少しの衝撃を受けた。身構えていた甲斐と、先生がクッションになったお陰だ。

しかし、その格好のまま、数メートル押し出された。

「きゃああああっ」

ズザザザーーーッ

「と、止まった」

何とか下弦熊のぶちかましを、押し倒される事なく止めた。

「ユ、ユミタン、熊を掴んだ、今だ、動画照射っ」

「は、はいいっ」

私は、言われた通りに、スマホでさっき撮った、月の動画を再生、その光を熊に向けた。

「おおっ!?」

すると、スマホの動画の月の光でも、黄金色に輝く下弦熊の姿が、暗闇に浮かび上がった。

「見えたぞ、下弦熊…」

熊の姿が見えると、その体制は、見事に先生が下弦熊の前褌を取った形になっていた。勿論、廻しなんか着けて無いので、肉や皮を掴んでいるのだろう。

あたかも、小兵力士が巨漢力士の懐に潜り込んで下手を引くように、下弦熊の頭が仰け反っていた。

「グオオオーーーッ」

しかし、これは相撲じゃない。

下弦熊は、大きく口を開け、咆哮と一緒に牙を立てると、反り返しを戻す反動で、勢い良く先生の頭を噛み砕こうと襲いかかった。

「今だっ、ロケット頭突きっ」

ドーーーンッ

「ゲ、フンッ」

瞬間、下弦熊の顔がペシャンコに潰れた。

先生の、渾身の頭突きが、カウンターで下弦熊の顎に炸裂したのだ。

たまらず熊は、よろけるように仰け反ると、すかさず先生は、熊の後ろに回り、え、えーっ!?

「これで決まり、だっ」

熊を持ち上げて、からの、バックドロップ!

下弦熊は、大きな放物線を描いて、地面に墜ちた。

ドッゴーーーンッ

森中に響き渡る轟音。その後、静寂と共に再び、下弦の月の光が地に降りた。

下弦熊は大の字に倒れ、舌を出して失神していた。

先生の勝ちだ。

「ハア、ハア、ハァーッ、い、命懸けの一番でしたっ」

「せ、先生ーっ、凄いです、凄いっ」

そう言って私は、先生に飛びついてしまった。

「ご、ごっつぁんです」

「ヤ、ヤダ、私ったら…すいません」

つ、つい、我を忘れて。はしたない事をしてしまった自分が恥ずかしい。

「さ、さて、もう帰還予定時刻もとっくに回ったし、僕達の世界に帰ろか」

言いながら顔を背けてしまった。

私の照れが移ったのか、先生も顔を赤らめていた。

少し可愛いとさえ思ってしまう。

最初の印象とは大分違っていた。

「そうですね、少し名残惜しいですが、仕事もありますし、帰りましょう」

この異世界の事も。

此処に来たときと同じように、先生が電話を入れた後で、私に手を差し伸べた。

先生は、前を向いたまま、意識してない素振り。

私も、今度は落ち着いて、その手を取る。

きっと、移動の際には先生と密着していないとダメな設定なのだろうけど、手を繋いでいる事実に、鼓動が高鳴る。

「ドゥーイ」

その掛け声の後は、たった一歩進んだだけで、もう、マンションの玄関に、私達はいた。


空気が全く違ってた。

しっとりと纏わりついて少し重い。すぐに馴染んだのか、やっぱり落ち着く私の世界。大気バランスとかO2濃度とか、微妙に異世界とは違うのだろう。

「お、おかえり、ユミタン…」

「た、ただいま、です」

お決まりのセリフのやり取りは、今、会社から帰宅したように。これまでが全て夢物語に思えた。それ程この世界は、どうしようもなく決まりきった理に支配されているんだ。

何でもお伺いを起てなくてはならない世界。

別に、それはそれで、嫌いでは無いけど。


「ぼ、僕は、シャワーを浴びてから、仕事をするよ。ユ、ユミタンも浴びるかい…」

複雑な意味合いは無い。と思うが、変に意識してしまう。男性の部屋でシャワーを勧められれば皆そうだ。

「…はい、後程」

別に、シャワーを借りる理由は、とても汗をかいたし埃っぽいから…そ、それだけです。

私は、自分の胸の高鳴りを押さえるべく、ソファーに座り、そっと息を吐いた。

時間の経過がとても永く感じた。

今日1日、特に異世界での事が、様々とフラッシュバックで思い返された。

まるで夢物語か…


「お、お待たせしましたっ…あれ?ユ、ユミタン…」


私は、いつの間にか、眠ってしまった。



窓の外が明るくて、朝なんだと気づく、見慣れぬこの場所に焦り、ソファーから身体を起こして、辺りを見回す。

誰も居ないリビングに音は無く、時計を見ると、朝の7時だった。

「私、寝ちゃったんだ…」

昨夜の事を思い出した。

そりゃ疲れた筈だ、何しろ異世界に行って、魔獣相手に大暴れしたのだから。

フフフ…夢じゃないんだ。

人に話しても信じて貰えないだろうけど、それを仕事のネタにしている人もいる。

クスクスと私が笑うと、毛布がパサリと床に落ちた。

先生は何処へ行ったんだろう。

そっちはキッチンで、奥にある部屋は仕事部屋だろうか。

扉に近付いて、徐にノックをした。

「先生、居ますか、開けますよ」

返事は無い。私は扉をゆっくりと開けた。

「先生…」

その部屋は、やっぱり仕事部屋だったようで、壁一面の本棚に書籍やファイルが並べてあった。部屋奥の大きな机に向かい、先生がいた。

「あの…」

先生は、机に突っ伏したまま、気持ち良さげに寝息を立てていた。

その傍らには、原稿が揃えて置いてあった。

《異世界名探偵サクラ》の原稿。一晩中、これを描いていたんだ。

それは、完成したばかりの漫画だった。

私と先生が、命懸けで得た体験、それこそが最高の資料、それを元にした、最高の漫画だ。

鉄は熱いうちに打てと言うが、締め切り云々よりも、早く描きたくてたまらなかったのが、伝わった。プロと言うか、先生は、本当に漫画が好きなんだな。

私は、その原稿を手に取り、編集として、作品の出来を吟味した。


「ムニャムニャ…ん、あ、ユ、ユミタン、おはよう。いけね、寝ちゃったんだ。あっ、完成した漫画、読んでくれてるんだね」


「……」


私は、先生の問いかけにも応えず、無言でいた。

原稿を持った両手の震えが止まらない。

何しろ、描写力が格段に上がっていた。

それに伴って、感情移入の幅が広がり、主人公は元より、今回のゲストキャラに強く共感出来た。ストーリー自体、厚みが加わり、より説得力が高まっていた。

読んでいて、仕事を忘れる程の完成度、これぞ傑作、会心のデキってやつだった。



「ユミタン、どうだった?今回力入ってるでしょ。自信作だよ、フフン」


「く、熊がいない…熊はどうした?」


「え、ああ、下弦熊ね。いや、やっぱりこの漫画に熊は無いな~って思って、ボツにした」


そう、この原稿に熊は出てこなかったけど、他は最高の描写力で描かれていた、

特にあの、サーバルキャットの娘が。


「私の仕事、意味無いじゃんっ」

「い、いや、意味無くないから、ユ、ユミタン、役に立ってるから、ほ、ホントだよ、熊、次出すから、必ずっ」


「酷い、あんなに頑張ったのに、あんまりだ~、わーん」


「わわわ、ごめん、泣かないで、ユミタ~ン」



こうして、私の異動先の世界は、ブラック認定をしました。

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マテリアル ハント @plamo

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