第27話 最前線とその偽名
~上司二人が鹿屋英一と別れる少し前~
和戸は採血を取られていた、その前に身長と体重をさらにその前には生年月日などの詳細を記載させられた。
「はい、大丈夫ですよ、しばらくはガーゼで抑えておいてくださいね」
「あ、ありがとうございました」
採血をした看護婦に礼を言い壁に書かれた矢印の指示に従い進む。
(これは一体何の意味があるんだろう?)
その疑問を抱えながら和戸は次の視力、聴力検査に向かった。移動しながら周囲を見回す、自分以外の受診者はどう見ても日本人ではないことがわかった、見知った人間も居らず自身しか日本人がいないこともあり和戸はいち早くこの検査が終わることを心の中で願った。
視力検査もその後の身体検査も普通の健康診断と大差ない検査が続いた。
握力、採血、視力、聴力、身長、座高、体重、全てが量り終わる、そこからが普段の健康診断とはかなり異質なものだった、というよりも健康診断自体はこれで終わったようだ。
「次はあちらの部屋に向かって説明を受けてください」
和戸は体重を測り終えた後、看護婦に次の行動を指示された、軽く礼をした後指示された部屋に向かった、部屋に向かう最中周囲の様子を見ると和戸の他に健康診断を受けていた者達は和戸の受ける受診をパスしている辺り初診の者だけが受けるもののようだ。
「お待ちしておりました和戸尊さん、そちらの椅子に掛けてください」
部屋の中には背もたれの無い丸椅子が存在した、椅子の前には人の姿がない声の主の姿が無い、スピーカーから声がしているようだ。声はあまりにも特徴がなく男性でも女性ともいえぬ声だ。
「わけあって姿を見せれぬ事をお詫びしなければなりません、私の名はメレックここでは新任の方にこの職場の説明を受け持っています」
姿の無き声の主は動揺を察したようだ、それにしても何故姿を出せないのだろうかという疑問には彼は答えなかった。
「まずは貴方を正規雇用する上での注意事項の説明からせねばなりません」
和戸は契約書と今現在いるこの場所からしてただならぬ職場であると腹を括っていた。
「解雇もしくは退社時の記憶消去の話ですか?」
和戸は自身の頭の中でもっとも引っかかっていた疑問をぶつける。
「そうですね、それについての説明から入りましょう。記憶消去の方法は社外秘の為お教えすることはできないのですが自主退社する場合重篤な規則違反による解雇が発生した場合処置されます、空白になった期間には実在する組織保有の企業の架空の職歴と記憶が差し込まれますので再就職などに支障はきたすことはありません、保有企業への斡旋もあります」
メレックと名乗る人物はさらっと恐ろしい発言をする、退職時の今までの記憶をごっそり消し去り、その間の偽りの記憶を差し込めると言ってのけたのだ。
「……心拍数から不安に駆られているようですね」
気遣うようにメレックが声をかける、だがそのまま話を続ける。
「ここから本当に注意すべき事柄です、心して聞いてください」
記憶消去の件でさえ常人からすれば身の毛のよだつ恐ろしい話だというのに彼(彼女?)はこれからさらに覚悟の必要な話題をしようとする心拍数がどうだとか言う割りに容赦なく話を淡々と進めるまるで血も涙も無い人間だと和戸は思った。
「解雇という形になった際、解雇の理由によっては記憶消去以上の罰則が科せられる可能性があります」
記憶消去以上の罰則と言ってはいたがどうやら相当な理由が無いと処されないようである。
「原則としてあなたの仕事の内容を関係者以外に口外してはいけません」
「もう一つは仕事において発見したものは必ず上司に報告すること」
前者は俗に言う社外秘だろう、だが発見したものを順次報告するのは当たり前のことだ、なのに何故念を押して、それも記憶消去よりも酷いペナルティがあるという脅し文句にも似た言い回しを使ってだ。
「報告を怠りなおかつ私的流用した場合はその規模に問わず重罪に問われます、端的に言えば終身刑、最悪死刑となります」
業務上横領なんてものは大なり小なり問わず間違いなく裁かれるものだ、こういう形で忠告するのは自分が携わるかもしれない物品が相当危険なのかもしくは膨大な利益を生み出すものなのだろう。
「ここまでに何かご質問はございますか?」
ここにきてやっと質問の機会が生まれた、和戸は二つ返事で質問した。
「その罰則にあたる物品とは主に何を指すんですか?業務上横領にしては刑罰が重いような気がするんですけど」
「それを説明するにはまずあなたの所属部門の役割をお教えした方が早いでしょう」
やはり探偵業というのは表面上の顔で真の目的は別にあるようだ。
「あなたの所属部門は探偵業を基本としその中で明らかに現実離れした事件に目を光らせて欲しいのです」
現実離れした事件、今回の殺人事件もそのうちに入るのであろう、あの事件で使用された凶器こそが彼が念押しする物品だということを理解した。
「探偵業はカモフラージュ……」
「そうです、あらゆる業種の中でもっとも謎めいたものに深く関われ、警察組織よりも大きく動ける業種として探偵業が選出されたのです」
望月警部もここのことは知っている辺り日本政府もこの組織の実態を知っている、もしくは政府公認の組織なのかもしれないと和戸は考えた。
「大体、理解できました」
「それはよかった、他に質問はありますか?」
まだ質問に応対してくれるらしく和戸はついさっき考えたことを質問することにした。
「この組織は日本政府の直属の組織なんですか?さっき望月という警部さんがここのことを知っているようだったのですが」
「いいえ、違います。厳密には協力関係にあると言ったほうが正しいですね、後あなたの言う望月という人物は望月時雄警部ですね、彼は警察に配属されたこちら側のエージェントです」
エージェントとは物騒な言い回しだ。
「エージェントというのはスパイのようなものなんですか?」
「いいえ、れっきとした警察官です、日本の一部上層部は我々のことを認知、協力関係にあり公の組織の中に何人かが彼のように我々組織とのパイプを持っています、警察だけでなく海上保安庁、陸上自衛隊、航空自衛隊、海上自衛隊などにも彼らは配属されています」
予想以上にスケールの大きい返答に和戸はたじろぐ、日本と協力関係にあるということは国連規模の大きさの組織なのだろうか。
「世界規模なんですか?」
「残念ながら協力関係にあるのはまだわずかです、日本とアメリカが主な活動地域で今進行中なのがイギリス、ドイツ、フランス、イタリアといったところでしょうロシアや中国は自国の情報漏洩を気にしてか非協力的です」
日本とアメリカが協力関係にあるだけでも凄い話だがまだまだ発展途上のようであり言い方からして設立してそこまで経ってないのが伺える。
「結局の所、そういった物品を観測するのが本来の役割なのはわかりましたがそういった物品は一体どこからやってくるんですか?」
まだ和戸の疑問は残っているメレックが聞く前に質問を投げかけた。この時には彼の脳裏で一つの仮説が出来上がりつつあった。質問はその仮説を補強するためのものでもあった。
「ようやく本題に入るといったところでしょうか、そもそもどこからそれらのものがくるか、あなたはパラレルワールドを信じますか?」
メレックは質問を質問で返す。
「いえ」
和戸は突拍子のない質問にNOとしか返せなかった、だが答えは彼が脳裏に描いていた仮設に近づいていく。
「厳密にはパラレルワールドというのは齟齬があります、異世界というのも少し違うのですが」
やはりかと和戸は思った、だがメレックは答えとなる言葉が見つからない様子だ。
「おっと、一番大事な事柄を言い忘れていました。こここそが二つの世界の最前線、二つの世界の均衡を保つ役割を担うのがあなたがこれから働く機関Front Lineの役割です」
ここにきてやっと組織の名称が明かされる。前線を意味する言葉が用いられる機関、和戸は自身が所属する探偵業が末端の末端であるのだと理解した。
「他に質問はございますか?」
「もう大丈夫です」
「わかりました、では次のステップで雇用登録を終了となります」
健康診断と長く続いた雇用登録もやっと終わりが見えてきた。
「最後にコードネームを設定します、またここに用がある場合のパスコードにもなります、ここでの
ふと健康診断の際の呼び出しアナウンスを思い出した、マイクロフトという人物が呼び出しを受けていたがそれもコードネームなのだろうか?
「さきほどのアナウンスで誰かが呼び出されているのを聞いたのですがあれもコードネームなんですか?」
「はいそうです」
(パスコードに使うコードネームを呼び出しに使うのはどうなんだろうか……)
和戸はそう思ったが口には出さなかった。
「それにしてもよくアナウンスを覚えていましたね」
「ええ、まぁ少し名前が思い入れのある人物と同じだったので……」
そう、マイクロフトとはシャーロック・ホームズの実の兄と名前なのだ
「そういえば命名には何かしらの法則があるのですか?」
「基本的にこちらが決めさせていただきます、これはコードネームの重複の阻止のための配慮のためですのでご了承ください、命名されたコードネームが気に入らない場合は登録前なら再度決め直すことができるのでご安心ください」
(ということはあのアナウンスの人物はシャーロック・ホームズが好きなのだろうか?それにしても何故兄の方なのだろう?ホームズかシャーロックはもう誰かに使われてしまったのだろうか?)
和戸はそう頭の中で考え自分のコードネームが何になるかを考え、恐らくもう使われてしまっているであろうホームズの名を惜しんだ。
「思い入れがあるとおっしゃっていましたが、あなたもシャーロック・ホームズがお好きなようですね、それなら丁度良いコードネームが空いているところでした」
和戸の想像通りマイクロフトというネームでシャーロック・ホームズが出るあたりやはりコードネームの持ち主はシャーキアンのようだ。
「シャーロックというのはいかがでしょうか」
「……!はいっ!」
思いも寄らぬ名前が提示される、和戸は思わず二つ返事で声に出してしまった。
「…………登録が完了しました、以上で終了となります、今後の活躍に期待しております」
「あの……」
「なんでしょうか?」
宝くじの一等を当てたような気分の和戸だったが最後に気になった疑問だけは聞いておこうとした。
「さっき『空いている』と言っていましたが前にそのコードネームを持っていた人がいたんですか?」
「…………詳しくはお教えできませんが確かにそのコードネームを使用している者がいました、現在は除籍されているので使用になんら問題はありません」
しばらく沈黙が続いた後にメレックは質問に答えた。
「他に質問は?」
「だ、大丈夫です」
「ではあちらから退室してください」
「は、はい」
口調があからさまに変わった、何か良くない質問してしまったらしく気まずくなった和戸は席を立ち入ってきた扉の前で一端止まり
「失礼します」
そう言いに軽く頭を下げそそくさと部屋を出た。
和戸はロッカールームにて私服に着替えている最中、最後の質問の返答とその後の態度の変化について考えた。除籍となったと言っていた辺り前述の規約違反なのかそれとも殉職したのかなどと色々推測したが考えても仕方ないので私服に着替えを終え自分の帰り待っているであろう上司二人の元に急いだ。
「おまたせしました」
二人は約束した通りエントランスホールのベンチで待っていった。
「ずいぶんと遅かったじゃないか、こちらの方が遅くなると思っていたんだが」
平賀所長が少し驚いた顔をして和戸に言った、最後の方でかなり長く話し込んでしまったらしい。
「こっちもずいぶん立て込んでたんだけどな、一体なんでこっちより時間掛かってんだ?」
今度は鹿屋が和戸に聞いてきた。
「質問で結構話し込んでしまって……、そっちの方も何かあったのですか?」
「ああ、こっちは先客がいたから、解析結果が届くのは早くても半年もかかるとさ」
「そんなに掛かるんですか!?」
「先客がいたんだよ、さぁもう用は済んだし帰るとしよう、良ければ自宅まで送るよ」
「ありがとうございます」
所長の厚意に甘え和戸は送ってもらおうことにした。
「それで?あだ名は何になったの?」
家路に向かう車内で鹿屋が和戸に質問した。
「あだ名って、コードネームのことですか?」
「それそれ」
「名前負けしそうなんですが……、シャーロックに決まりました」
和戸が口元が緩ませながら言った。ほんの一瞬だが鹿屋の表情が曇ったようの見えた、だがその表情は次の瞬間には爆笑に変化していた。噴出すようにして出た笑いが車内にこだまする。
「はっはっは!!でかした!ワトソン!」
「やかましいわ!運転に支障が出る!」
運転する所長が怒る。鹿屋はしばらく笑い続けて後にやっとのことで平静を取り戻した、だが肩はしばしば小刻みに震えているおりちょっとした拍子にまた笑い出しそう状態だ。
「何かつぼに入るようなこと言いました?僕?」
「いやいいんだ、こっちの話だから…………」
和戸は会話の最後の方で鹿屋がぼそりと「ざまあみろ」とつぶやくのがかすかに聞き取れた。その様子を見て呆れ顔をしながら運転に集中しているのがミラーから見て取れた。
「いつから出勤できるかな?まだアルバイト先やアパートにも話できてないだろう?」
和戸の自宅アパート前に着いた時に所長が和戸に聞いた。
「アパートは手続きすればすぐに転居できると思うですけどアルバイトの方は1ヵ月前に辞めることを伝えなきゃいけないんですが……」
「なら本格的に仕事に入るのは1ヵ月後になるね」
どうやらアルバイトを辞めるまでは待ってもらえるようだ。
「それじゃあ、1ヵ月後、よろしく」
「こ、こちらこそよろしくお願いします」
所長が手を差し出し和戸は心良く握手した、その頃鹿屋は車内で寝息を立てていた。二人を乗せた車が見えなくなるまで見送った後、和戸は自室に戻りすぐに布団に倒れこむように眠ってしまった。
「おい着いたぞ、起きろっ!」
所長が車内で眠る鹿屋の肩を揺さぶり起こす、むにゃむにゃと何かを呟きながら鹿屋は車を降りた。
「あれ?和戸は?」
「お前がグースカ寝てる間に家に送ったよ」
所長はそういうと事務所内の照明をつけ応接用のソファに腰掛ける。
「でもこれでやっとめんどい事務職から開放されるぜ」
鹿屋も所長が掛けたソファの反対側のソファに腰掛ける。
「まぁ、彼が本格的に仕事に就職するのは1ヵ月後だけどな」
「えっ!?なんでさ?今回の事件のプロファイリングと資料作成あいつに押し付けようと思ったのに!」
「残念だがそれはお前の受け持ちだな」
鹿屋ががっくりと肩を落とす、でかい溜息を吐いた後にぼそりと呟いた。
「それにしてもよりにもよってあのコードネームとはね……」
「……そうだな」
しばし沈黙の後に鹿屋の方が先にソファから立ちあがり、自室のある3階へ向かう扉に向かった。
「資料作成、明日からでもいい?」
3階に上がろうと扉に手を掛ける前に所長に尋ねた。
「ああ、もう遅いからな」
所長は窓の方に目を向ける、もう陽は完全に落ち外の街灯の光がわずかに入ってくるだけだ。
「じゃあ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
就寝の挨拶し鹿屋は3階へと上がっていった、しばらくしてソファで座っていた所長も腰を上げ自室に戻った。
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