演奏会。

 肌がちくちくするような寒さだった。学校の照明はすでに消され、非常口を示すライトが深緑に辺りを染めていた。



 でも、僕は怖くなかった。


 見栄を張っているわけでもなく、何も、怖がる要因がないと思うからだ。


 彼女に会うための道だからかもしれない。


 一人歩くと、暗いせいなのか少しだけ寂しくなった。


 かちゃりと、音楽室の扉を開く。べったりと黒で塗られた光沢のあるピアノに彼女は座って寄りかかっていた。

 今はない学校の昔の制服を着ていた。


「今日も来たんだ。こんな寒いのに」


 こちらを見ずに目を瞑る彼女はぼそっと言った。


「今日も来たさ。こんなに寒いけど」


 自分でもひねくれた言葉だと思いながら、彼女の正面に座った。冷え切った音楽室はシンとしていて、彼女の近くだけが柔らかく温かいようだった。


「夏でもないのにお化けに会うなんて全く意味がないのに」


「意味ならあるよ。僕は君に会って会話をする。それが良いんだ」


「あなた、本当に変わってる」


「よく言われるよ」


 何それ、と半笑いでこちらを見る目が綺麗だった。


「今日もピアノを弾いてくれないかな」


「良いよ。テキトーに弾くね」


 いつも通り、彼女は鍵盤の前に座り、静かに弾き始める。

 僕はピアノ曲やクラシックに詳しくないからわからないけど、彼女はいつも同じ曲を弾く。

 11月から始まったこの演奏会は、一曲で終わる。

 彼女の白い指が鍵盤の上を滑り、飛んで、澄んだ音を奏でる。


 その曲が終わったら、彼女は元の場所に座る。そして僕はポケットの飴を取り出し、ピアノの天板の上に置いて帰るのだ。


 演奏会の報酬は毎回それだった。果たしてそれで良いのだろうか、といつも思うが、彼女は満足そうに微笑むのだから、きっとそれで良いのだろう。



「またね」



 いつも返事はない。



 そして寒い寒いとぼやきながら夜道を歩いて帰る。

 ちらほら見える星がやけに目についた。




 ーーーーーーーーーーーー


 桜に蕾がつき始めたある日の夜。寒さはほとんどなかった。


「今日でおしまい」


 ポロっと口をついて出たように、彼女は言った。


「もうおしまい。ご静聴ありがとうございました」


 彼女は恭しくお辞儀をして満足気に笑った。


「……そっか。それは残念だ」


「あれ。驚かないんだね」


「驚いてるよ。信じられなくて夢だと思いたいくらいだ」


「あなたはよくひねくれた言い方をするね」


「そうかな。自重してるつもりなんだけどな」


「……私、もうここからいなくなっちゃうから」


「そっか。もう、そんなに経ったのか」


「あっという間だったね」


 彼女は踵を返して鍵盤の正面に座る。


「…………お客さん。拍手とアンコールはいりませんか」


「……そうだね。僕はお客さんだ。……アンコールお願いします。ピアニストさん」


「了解しました」


 彼女の表情は僕が立っているところからはよく見えなかった。


 彼女の体が少しだけ左右に揺れる。それに合わせて静かな、緩やかな音が流れる。今まで聴いたことがなかった曲だった。


 僕は目を閉じてそれに聞き入る。


 心に溶けていくような淡さだった。


 とても好きだと思った。


 ーーーーーーーーー


 終わってから、彼女は彼の立っていた方を向いた。


 そこには、いつものお礼が置いてあった。


「拍手くらいしていけばいいのに」


 彼は消えた。


 そのことを噛んで含むように実感がしてから、彼女は椅子をたった。




 誰もいない音楽室には、静寂が満ちた。

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