第4話 漆黒の来訪者

「これだけあれば足りますでしょうか?」

 足りるというより、足り過ぎる。数えてみると五百万円ぐらいの金額になった。

 首を延々と縦に振り続ける僕を見たイチオさんが満足そうに頷いた。

「安心しました。役目を果たせたようですね。では、私はこれで……」

「あ、あの!」

 思わず呼び止めていた。エレベーターに向かおうとしていたイチオさんが振り返る。

「もしよろしければ、このホテル、皆さんにご利用いただいてもかまいません」

「いいんですか?冒険者稼業、かなり汚れてますよ?」

「結構です。いただいた御代の分だけサービスします」

 イチオさんが、ふんわりと微笑んだ。僕が見る、彼女の最初の笑顔だ。

「意外と義理堅いんですね。わかりました。一旦戻ってチキトウ隊長に報告します。ああ、そうだ」

 イチオさんが杖でエレベーターのランプを指し示した。

「私たちが上がってくる時は七回ランプを点灯させます。それを合図にしましょう。それでは、また」

 そう言い残すと、イチオさんはエレベーターに乗り込み一礼した。

 扉がゆっくりと閉まり、B1へと降りていく。

 やがて、エレベーターのランプの灯りが消えた。

 僕はしばらくぼんやりとエレベーターを眺めていたが、ここで待っていても仕方がない。

 まず、頭を整理するためにB1、つまり、地下に降りてみた。

 強烈な冷気で震える指をなんとか伸ばし、入口にあるスイッチを押して電気をつけた。

 当たり前だが、僕の目の前にコンクリートでうちつけられたままの、がらんとした空間が広がっている。

 あるのは、エレベーターの入口だけだ。

 僕は地下室の電気を消すと震える身体をさすりながらロビーへと戻った。

 宿直室に戻り、炊飯器のスイッチを入れると、僕は朝ごはんの支度にとりかかった。

 再び大鍋を出し、出汁と水を入れて火にかける。

 人参、大根、牛蒡、蒟蒻をざくざくと大きめに切り、サトイモ、それから豚肉の薄切り肉を鍋に入れぐつぐつと煮込んでいく。ほどよく火が通った鍋に味噌を溶けば。

 豚汁の完成です。猪が豚に変わっただけですね。

 それから、キャベツを数玉取り出し、大量に千切りをこしらえて大皿に盛る。

 豚汁もキャベツも、加えてドリップコーヒーも多めに作った。チキトウさんたちがやってくるんじゃないかと思ったからだ。

 とりあえず、まずは僕が腹ごしらえだ。自分の分だけの鯵の干物を焼き、炊きあがったご飯と豚汁をテーブルの上に並べる。

 いただきます。

 一礼してから僕は豚汁をすすり、体と心を温めた。

 宿直室にはテレビは置いていない。あるのはノートパソコンとラジオだけだ。パソコンの電源を入れてニュースを見ながら、僕はもくもくとご飯を食べていく。

 昨日の同様、何時もの何気ない朝食の光景だ。

食事と片付けを終えてロビーに戻るとすっかり日が昇っていた。

 その一方で、外の光が届きづらい所にあるエレベーターの入口は薄暗いままだ。当然、ランプも灯っていない。

 結局、チキトウさんたちは現れなかった。

 ちょっと残念な気持ちになりながら、僕は千切りキャベツが入った大皿にラップを張って冷蔵庫に戻し、豚汁の鍋に蓋をして弱火を消した。

 ロビーに戻ってフロントに座る。

 まさに、日常そのものだ。

 だったら、日常の世界でできることをやっていこう。

 とりあえず、毛布を片付ける。

 僕は毛布を据え付けの大型洗濯機の中に入れてスイッチを押した。

 次に掃除機を取り出してロビーを掃除していく。流石に、チキトウさんたちがいた場所は土埃がかなり目立った。

 ホテルマンの仕事を終えた僕は、部屋着から外出着に着替えトレッキングシューズに履き替える。

 次の本職、山菜取りの時間だ。

 電話の留守番機能を起動させ、机にチキトウさんへのメッセージカードを残し、金庫とフロントの鍵を十分にチェックしてから、僕は雪景色の中に足を踏み出した。

 戻ってきたのは正午前。

 入り口で雪を叩き落としながら、ロビーの中を窺ったが、人影は見えない。

 やはり、誰も来ていないのか。

 晩御飯には来てくれるだろうか。そんなことを考えながらロビーに入る。

「おーう。帰ってきたようだぜ」

「うわあああ!」

 ロビーの椅子からぴょこんと何かが飛び出した。

 猫だ。

 いや、猫の顔をした人だ。

「おいおい。驚かすなよ。びっくりしてるだろ、お店の人」

「ぎゃああああ!」

 ロビー奥の椅子からかかってきた声の先に振り返った僕は絶叫した。

 狼だ。

 いや、狼の顔をした人だ。

 猫と狼が、二足歩行で僕に近づいてくる。

 腰を抜かしそうになって思わず後ずさりした僕の背中を何やらやわらかい弾力がはじき返した。

「ロクロ、テン、オーナーさんを驚かせないでください」

「イ、 イチオさん!?」

 ということは、さっき背中に当たったのは……。思わず僕は赤面したが、イチオさんはまったく気にしていない様子だ。

「どうも。勝手にお邪魔してます。この猫人はケットシーのロクロ。狼人間はテン。二人ともうちの隊員です」

 紹介された二人が、僕に向かって深々と頭を下げた。体つきから察するに二人とも女性のようだ。軽量な感じの鎧を二人ともつけている。

「ブノ皇国は新興国ですが様々な種族によって構成された国家です。ちなみに、昨夜来たホジスンはオーク族です」

「お、驚きました。ところでチキトウ隊長は?」

「あがっちょるよー!」

 フロントの中から、大声と共にチキトウ隊長がぴょこりと顔を出した。

 そのままフロントの机をジャンプで飛び越し、床に着地する。

「話は聞いた!兄ちゃん!感謝しちょるぞ!」

 チキトウ隊長ががっしりと僕の両手を握った。見た目よりも、握力が強い。

「実はちょっと師団の宿営地から遠出しちょってな。こっちに来るのが遅れたわ。もうじきヤチのやつも上がってくる。そしたら、昼飯にせんね!?」

「わ、わかりました。ご飯を温めなおしてきます」

 そう思いながら慌ててキッチンに向かおうとした僕の目の横で、エレベーターのB1のランプが点滅した。

 ランプが1Fに変わり、扉が開くのと同時に女の子が悲鳴を上げながらロビーに転がり込んできた。

 ヤチさんだ。

 その後から二人の女性がゆっくりとエレベーターから出てくる。一人はホジスンさん、もう一人の女性は身長は僕よりやや低めだが、ホジスンさん以上にがっしりとした厚みのある体つきだ。日本の着物のような、というより僧侶が来ているような黒衣に灰色のフード付きローブを羽織っている。

「おお!ヤチ!ナガヨ!待っちょったぞ!!!」

「隊長!隊長!隊長!」

 おもちゃを見つけた子犬のように飛び上がったヤチさんの首筋を、ナガヨと呼ばれた女性ががっしりつかんだ。

 人の声とは思えない不可思議な声を上げて、ヤチさんがその場に崩れ落ちる。

「まったく、こいつの隊長好きにも困ったもんじゃな。愛されとるな、隊長」

「時々、こやつの愛情がおじくこわくなるわ」

 身動き一つしないヤチさんの傍らでナガヨさんとチキトウ隊長が大声で笑っている。もう日常茶飯事な光景なのだろう。ロクロさんは欠伸をしてるし、テンさんは椅子に深く身を埋めたまま身じろぎひとつしない。

 とりあえず、お昼ご飯の準備だ。

 豚汁を温めようと、キッチンに向かおうとした僕の足が、止まった。

 先程消えたはずの、B1のランプが点いている。

 僕の視線に気がついたのか、チキトウ隊長とイチオさんがエレベーターに目を向けた。

「あの、他に誰か来るんですか?」

「いいえ。あのフロアにいた隊員は全員上がっているはずですが……」

 怪訝な顔でイチオさんが呟く。

 エレベーターのランプは不規則に点いたり消えたりしているが、ひょっとしたら今度こそ本当に故障してしまったのだろうか。

 三階の電源を見てこようかと思った僕の傍らをするりと抜けたチキトウ隊長が、倒れたままのヤチさんの頭を数回小突いた。

「おい、ヤチ」

「へあは!?は、はい!?」

 深く重いボディーブローのようなチキトウ隊長の声でヤチさんに正気が戻った。

「お前、最後に転送用の結界を閉じて上がってきたか?」

 ヤチさんの顔が半笑いの状態で凍りついた。

 その顔だけで答えは十分と判断したのだろう。

 チキトウ隊長は床に耳をつけ、目を閉じた。

 異常を感じ取ったフロアにいる全員に緊迫感が走る。

「あ」

 声を上げたのは、僕だった。

 ランプがB1から1Fに変わったからだ。

 上がってくる。

 何かが。

 地下から。

 こことは、違う世界から。


 りーん。

 

「いかん!」

 1Fに着いたことを知らせるベルの音と共に、チキトウ隊長が、身を起こした。

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