7

 梓とお茶をしてから二週間が経った。だが取り立てて異常なことはなく、僕は普段通りに大学の講義を受け終え、帰路についていた。

(そうだ、風呂場の電球が切れてたんだった……スーパーで買って帰らないと)

 僕の大学は都心にあるが、住んでいるのはそこからやや離れた新興住宅地だ。駅からアパートへ向かう道の途中にあるサザンカは比較的小さなスーパーだが、値段も安く、入りやすい雰囲気であることから僕はよく利用している。そのサザンカの看板を目指して歩いていると、


 ――およそ三百メートル先の民家の上に喪服の女は立ち、僕が今いるところを指さしている。


(離れなきゃ)

 ほとんど反射的に、僕は走り出した。喪服の女が立っていたのは、ちょうど僕のアパートがある方向だった。喪服の女を避ければ当然アパートから離れることになるが、今はそんなことは言っていられない。

 息を切らし、手や足や胸が痛くなるまで走った。喪服の女はとうとう、およその距離が

わかるほどに近づいてきた。そのことに僕ははっきりと恐怖を感じていた。明確な理由はない。あの女が悪いものだという確証は何もない。それなのに、今はただひたすらにあの女から離れたかった。走り続けられなくなり、その場で大きく呼吸し、息を整えた。顔を上げる。


 ――およそ二百メートル先のマンションの給水塔に喪服の女は立ち、僕が今いるところを指さしている。


(また、近づいた……!)

辺りを見回す。危険だと思われるものはない――ようやく、異常に気づいた。人がいない。どれだけ周囲をうかがっても、人の気配が微塵も感じられない。駆け出す。心臓が破裂しそうだ。だが、それでも、ここにいたくない。いたら、きっとどうしようもなく恐ろしいことが、

(限界、だ)

 立ち止まる。そして、顔を上げれば、


 ――およそ百メートル先のビルの看板に喪服の女は立ち、僕が今いるところを指さしている。


 呼吸の苦しみは、既に明確な痛みに変わっている。足は重く、満足に持ち上げることすらできない。それでも、一歩、また一歩、体を前へと運んでいく――体が、グラリと傾いた。支えることができず転倒する。手を地面につき、跪くような姿勢で、前を見た。


 ――およそ五十メートル先のアパートの上に喪服の女は立ち、僕が今いるところを


(逃げ、なきゃ)

 立ち上がり、歩く。


 ――およそ四十メートル先の電柱の上に喪服の女は立ち、


(少しでも、遠くへ)

 歩く。


 ――およそ三十メートル先の廃墟の屋根に


(遠くへ)

 歩く。


 ――およそ二十メートル先の


 歩く。

 ――十メートル先


(あ)

 ――追い込まれた先は、しっかりと舗装された美しい公園だった。僕の目の前に、それはいた。物心ついた時から僕を見つめ続けた、正体のわからない喪服の女。

(逃げなきゃ)

 思考はその一言で埋め尽くされている。逃げ出そうと背を向けようとして、僕は動きを止めた。止めざるをえなかった。

 喪服の女の手が、ベールにかかったのだ。喪服の女は両の手でゆっくりとベールを持ち上げていく。僕はその様子から目を反らすことができなかった。そして、喪服の女の顔が露わに――ならなかった。何故ならば、喪服の女に顔は存在していなかったからだ。

(……嘘、だ)

 ベールの下には人間の顔の輪郭だけがあり、それ以外は何もなかった。目も、鼻も、口も。それは、子供の頃絵本で読んだのっぺらぼうそのものだった。本当は声を上げたかったが、喉が引きつってそれは敵わなかった。

 喪服の女の何もない顔に、縦に一本、線が入った。喪服の女の顔はその線を中心に、開いた。顔が開いた奥にあったのは縦向きの巨大な眼だった。眼はまっすぐに僕を見つめている。そしてめくれあがった顔の内側の肉から、鮫のそれを思わせる鏃のように鋭い歯がびっしりと飛び出していた。

(あぁ、そうか――僕はここで、喪服の女に食べられるんだな)

 僕は自分の置かれた状況をそんな風に捉え、そして納得した。逃げ出そうという気持ちはいつの間にか消え失せていた。そう、逃げられる場所などない。僕を十年以上も見守り続けた、この怪物から。

(……ようやく、理由がわかった。お前はずっと、僕の品質を管理してたのか)

 野菜が虫に食われないよう農薬を撒くように、家畜が病気にならないよう予防接種をするように、喪服の女は僕の食材としての質を保つために、災いを指し示し続けたのだ。全ては今日この日――最高の味になった僕を食べるために。

 喪服の女はゆったりとした足取りで僕に近づき、両手で僕の顔を包み込んだ。きっと、あと数秒と経たないうちに僕は食べられるのだろう。心は不思議なほど落ち着いていた。人生への執着も後悔も、不思議と心に浮かんではこなかった。

 そう、僕はどこまでも歪で不確かなまま、ただの食材として死んでいくのだ。死んでいく――はずだったのに。

「……だからアンタさぁ、ほんともうちょっと真剣に生きようとしなさいよ」

 肩に凄まじい力が加わったと思った瞬間、僕は喪服の女から引き剥がされていた。僕と喪服の女の間に、大きな人影が割り込む。

「――佐治、さん?」

「そーよ。なんかヤバそうだなと思って来てみたら案の定じゃない。っていうかこの前ヤバかったらアタシに絶対電話しなさいって言ったわよね? それなのにアンタなんで顔触られてもボーッとしてんの? もっとちゃんと逃げるなり抵抗するなりしときなさいよ、全く」

 佐治さんはどうやら喪服の女のことを全く気にしていないようだ。あんなおぞましい怪物がすぐ目の前にいるというのに、まるで怯えた様子がない。

「あー、そうだ。突然だけどアンタ、アタシの左目の中にいるやつ見える?」

 突然の言葉に、反射的に視線が佐治さんの左目に向く――吸い込まれるような感覚のあと、僕は確かに、佐治さんの左目の中にいる、僕を静かに見つめ返す狼に似た美しい真紅の獣の姿を見た。

「……っ!?」

「見えんのね。やっぱアンタ元々近いのね。まぁでもそうじゃなきゃあんなのにつきまとわれたりしないかぁ。かわいそうだけど、こればっかりはどうにもねぇ……」

 ――異音が響いた。表現するならば、歯医者でドリルが歯を削る音を十倍不快にしたような、普段まず聞かないような音。

 発生源は明らかだ。突然の乱入者によって待望の食事を邪魔された、喪服を纏った眼面人身の怪物。

「あぁもう! キーキー喚くんじゃないわよ! 相手してやるから大人しくしなさい!」

 今、なんと言った? 

「佐治さん……今、相手してやる、って」

「そーよ。本当はこんなめんどくさいことやりたかないんだけど、まぁこっちにも、その、あれだ、しがらみっていうの? そういうのがあるからちゃっちゃと片づけるわ」

「片づける、って、あんな化け物をどうやって――」

 そう言いながら、僕は喪服の女を見ようとして、

(いな――!?)

 直前まで喪服の女がいた位置にあったのは――女性の脚だった。

(なん、だ、これ……)

 喪服の女のスカートの中から、女性の脚が伸びていた。数にして数十。長さにして十メートル。喪服の女の上半身は遥か上――ビルの四階ほどの高さにあった。

 女が脚の一本を持ち上げ、佐治さんのすぐ横に落とした。轟音と共に、石畳が砕け散る。だがそれでも、佐治さんは微動だにしなかった。

「――ハァ、呆れた。そんなことしかできないの?」

 その言葉が届いたのか、喪服の女は脚を複数まとめて持ち上げた。数にして十本以上。あれで連続して踏みつけようというのか。それに対し佐治さんは、まるで化粧品でも取り出すかのような気軽さで、

「えーっと、あれ、どこよ……あ、あったあった」

 バッグから――拳銃を取り出した。そしてそれを喪服の女の地面に着いた脚に向け、引き金を、引く。引く。引く。引く。引く。引く。引く。引く。引く。引く。

 ――イィィィィィィィィィィィィィィィィィィイイイイイッィィイィィイイィ――

 喪服の女が絶叫する。佐治さんが拳銃の引き金を引く度に、喪服の女の脚はまるでガラスのオブジェに硬球がぶつかったように、砕け散った。

「――あら、意外と死なない。っとにもう」

 複数の脚が砕けた苦痛のためか、喪服の女はバランスを崩し、倒れそうになる。それを防ごうと、無事な足を動かしている間に、

「いやー、でも備えあればなんとやらよね。ちっちゃいやつじゃ指痛くなりそうだったし、ほんと持っといてよかったわ」

 佐治さんはバッグから、人を撲殺できそうな、巨大な拳銃を取り出した。

「それじゃあね。弱いくせに手間かけさせんじゃないわよ――雑魚」

 佐治さんが巨大な拳銃の引き金を引く。甲高い破砕の音が響く。

 あとには、何も残っていなかった。

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