91 誰だって得意なことが一つはあるもんさ
さっきまであれだけ騒いでいた奴が、いまさら何を言ってんだって話になるのは目に見えてるんで言葉にしないんですけどね。
でもさ、そんな張り詰めすぎて、今にも唇辺りを噛み切られそうな顔されちゃうとさ、ワタシまでしびれを切らさずにはいられなくなるって話ですよ。
だからさ、そんな思いつめた表情で距離を詰めてこられなくても大丈夫なんで一回落ち着いてお茶でもしませんか? ほら、せっかく正座もしていることなんで。
ああ、お茶請けならご心配なく。ちょうどいい具合に甘いものがあるんですよ。
これさえあれば、たちどころにみんなハッピーになれるって代物ですよ! 座っててもハッピーになったワタシが言うんだから間違いないね。
ふふっ、個人的には苦い思い出があるんですけどね……。
「……はぁ。ホント、人族って頑固な奴が多過ぎ」
ほら、クイーンさんまで苦み走った顔してるじゃないですか。リィルがそんな苦しそうな顔してるからですよ? 酸素足りてる? ちょっと一回深呼吸してみよ?
まぁ、リィルの言いたいことも分かるんですよ。そんな甘い考えでどうするんだ、って。
でもさ、同じ天に昇るにしてもさ、……笑っていきたいじゃない?
「ごめん。でも、この役は譲れないんだ」
「もうッ! 勝手にしたら!?」
小さい子供が全身で抗議するみたいに、フイッと身体ごとそっぽを向いたクイーンさんの背中に、リィルは微笑みながら小さく「ありがと」と零してから、途端に真剣な顔つきになってワタシの方へと歩を進めてきた。
その姿はまるで、今から死刑執行のボタンを押さんとする刑務官のそれで、自責に塗れた苦痛を厳しい顔つきの奥に押し殺していた。
「イディちゃん……」
いやホント、そんな感情まで重く押し殺した声をしないでください。軽いおふざけで
いやいや、そんなワタシの肩に両手を置くようなマネをして……、いいんですか? どうなっても知りませんよ?
その重み、支えられると思ってるなら、その考えが甘ぇよ……。
ワタシの心は違法建築、砂糖菓子より脆いって有名だから。
「これは本当なら私たち、アーセムと共に生きることを選択した、オールグの問題。
どういった理由かは分かんないけど、それにイディちゃんを巻き込んじゃったのは事実。だから、……逃げたっていいんだよ」
自分への甘さを最大限発揮しようと、人工甘味料100パーセントの我が心の城に逃避を試みたところで、
まるでじゃなくて、正に迫りくる勢いだった。肩を掴んできている手に力が入りすぎて、ワタシじゃなかったらくい込んだ指に悶絶しているところだ。
今からキスしますって言われてもなんら不思議じゃない、むしろリィルだから普通にあり得そう……それは置いておいて、それぐらい間近にまで迫ったリィルの顔が、ワタシの視界の中一杯にアップで映し出されて、圧と一緒に緊張まで高まってくる。
「……逃げたっていい、そうなっても誰も責めないし、私が責めさせない。無理矢理イディちゃんを送ろうとする奴がいたら、私がぶちのめす。絶対に安全な場所までイディちゃんを送り届けるし、その後のことだって私が面倒みる」
一語一語確かめながら言い聞かせるみたいに、ワタシの目をじっと見つめてくる。
「だからね。……逃げたって、いいんだよ」
「リィル……」
(そっか、逃げてもいいのか。そりゃあそうだよね、普通なら間違いなく死ぬことが確定していて、帰ってこられる保証もない。生身での成層圏へのダイブをしてくれとは、簡単には言えないよね。……でもさ)
「はぁ~」
思わず、溜め息が漏れた。
だって、リィルは明らかにワタシが逃げ出すのを望んでいた。何度も何度も、「逃げたっていい」と繰り返して。
これ以上、少しでもワタシが泣き言なり、弱音なりを吐き出せば、すぐにでもワタシを抱えて駆けだして、そのままオールグの街を後にするだろう。
その決意が目の前のブルーの瞳にはありありと浮かんでいる。
でもそれは、同時にリィルに今までの全てを捨てさせることを意味している。
自分の手一つで築き上げたお店も、慣れ親しんだ町並みも、家族や友人との絆も……。
どれ一つとっても手放していいはずのものなんてなくて、リィルという人を作り上げてきた、大事な大事な欠片たちだ。
それを、捨てようとしている。
――知り合って間もない、ワタシなんかのために。
これで溜息をつくなっていう方が、無理がある。
「リィル、自分がどういうこと言ってるか分かってる? いや、分かってるんだろうけど、だったらなおのこと、たちが悪いよ。
……それって、ワタシに、自分のことかリィルのことか、どっちを犠牲にするか選べって言ってるのと同じだよ?」
「そんなッ! 私、そんなつもり、少しも!」
「でも、結局はそういうことになってくるよ。ならワタシは、リィルにこの街よりも、オールグの人たちのことよりも、ワタシのことを選んでくれなんて、言えないよ」
何より、これをやらせてるのは間違いなくワタシの能力によるところが大きい。だってこんな出会ってからひと月も経ってない、素性も詳しく知らない相手のために、自分の全てを投げだそうなんてのは普通じゃない。
それはリィルもなんとなく感じてるんだろうけど、それを踏まえてもなお、ワタシのために自分の今までをなかったことにしようとしてる。
そんな優しい人に、そんな優しい人を育んできたものを、捨てろだなんて、言えないし言いたくない……。
「でも、でも! もしもイディちゃんが戻ってこなかったら、私、どうすればいいか分からないよ!
お店はまた別に始めればいい、人とのつながりだって時間が解決してくれる、家族のことはもう踏ん切りだってついたんだ! 全部やり直せる!
でも、イディちゃんは一人しかいないんだよ!? それなら、いっそ!」
「それにさぁ!」
何かワタシもリィルも理屈をこねくり回して、いろいろと、ごちゃごちゃと言ってるけど、そんなことは割とどうでもいいんですよ。
だって、そんなことよりも、これだけはないがしろにしろにしちゃあ駄目だってことが、残ってるでしょ。
「――アミッジさんに、返事をしなきゃ……でしょ?」
ごろりと、喉に固まったものがつっかえているのを思い出したみたいに、リィルがグッと言葉につまった。
「そ、それは……そうだけど……」
歯切れが悪いのは、もっともなことを言われたからなのか、今の今まで忘れていたっぽいからなのか、いやまぁどっちもなんだろうけど?
でも、言われて、ワタシと比べて、二の足を踏ませるだけの思いをリィルの中に植えつけることができているんだから……、アミッジさん、脈は大いにありますよ。
後はどれだけ踏み込めるだけじゃないかな? そこんとこの過程を、ワタシは能力ですっ飛ばしているだけだから。まぁ、アミッジさんご自慢のしつこさなら、きっとすぐにでも懐深くまで踏み込めますよ。
「きっといい踏み込みだからな、体重の乗った蹴りがだせるに違いない。このまんまリィルに縋ってたら、馬? ではないけど、蹴られるのは必至ですよ。知ってるんだ、昔の偉い人が言ってたから。
だからワタシも、他人の恋路を邪魔して蹴り殺されるのは勘弁なんですよね」
努めて軽く、おちゃらけた雰囲気で肩まですくめて見せると、リィルはようやく、クスクスと喉を鳴らしながら、暗く沈んでいた顔に笑みを浮かべた。
「……ふふっ、何それ? 馬に蹴られるなんて。そんな言い回し初めて聞いた」
まさかのワールドギャップ。あんなにドヤって言ったのに通じないとは、いや意味はななんとなく通じたみたいだから、これはセーフですね。
大丈夫、すでに恥に塗れた障害なんで。恥ずかしくなんてないんだからねッ!?
「……分かった。これ以上は、引き止めたりしない」
相変わらず苦しそうであるけど、どうにか息ができるくらいにはなったみたいだ。
「ただ、これだけは言わせて」
「……何?」
一回、目蓋を閉じて、これまでを思い返すみたいに少しの沈黙を挟んで、リィルはもう一度まっすぐワタシの目を見つめてきた。
「イディちゃんに問題を押しつけたのは私、そしてその原因を作ったのはオールグの上層部。
だから、ちゃんと恨んで、怒って……、愚痴を目いっぱい貯めて……、一列に並べて思いっきり吐き出すために……。
私たちのために、死地に赴いて、ちゃんと、……帰ってきてください」
その真剣そのものの顔をしたリィルに、今度はワタシが喉を鳴らして笑った。
どうしても、責任という部分だけは、譲る気はないらしい。
だから、その頑固さに負けないように、自信たっぷりに言い切ってみせた。
「任せて。尻尾を巻くのは得意なんだ」
――まぁ見ときなよ、華麗に逃げ帰ってくるからさ……。
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